第19話 元教師の証言
旧職員室には、まだ教師たちの匂いが残っていた。
黒板の端に白い粉がこびりつき、壁際の掲示板には色褪せた紙片が数枚だけ残っている。机はほとんど撤去されていたが、奥に二つ、古い事務机が置き去りにされていた。引き出しは空で、片方の机には欠けた湯呑みが伏せられている。埃をかぶったガラス窓は板で半分塞がれ、隙間から夜気が入っていた。
霧杜市の外れにある廃校、旧白鳥坂学園。
夜ごと笑い、夜だけ歌う少女人形が見つかった場所。
人形はクラウディオ・ルジェリウスの作風に似せられていた。だが、クラウディオは「目が違う」と断じた。硝子の奥行き、指の関節、首の傾き、重心、塗装の呼吸。見ただけで、偽物だと切った。
そのあと、人形は歌った。
歌詞のない歌。鼻歌のような、名前を呼びかける声のような、古い廊下に沈んだ旋律。聞いた者はそれぞれ違う声を聞いた。榊は母の声に似たものを、澪奈は恩師の声に似たものを、ルストは数百年前のクラウディオの声を聞いた。
録音機には同じ旋律しか残らなかった。
そして、誰も現場では聞いていない声が最後に入っていた。
遅い。
現在のクラウディオに似た声。
低く、近く、短い一言。
その録音は今も、白石澪奈の端末の中に保存されている。赤い再生バーは止まったままだった。彼女はそれを簡単には再生し直さなかった。音の検証は必要だ。だが、必要だからといって何度も聞きたい種類のものではない。
旧職員室の中央には、簡易の聞き取り用机が置かれていた。
校舎外へ連れ出す前に、元教師の証言を取ることになった。現場確認が必要だったためだ。本人も、ここで話した方が思い出せると言った。そう言った時の声は、いかにも弱った老人のものだった。
だが、クラウディオはその言い方を聞いた瞬間、少しだけ目を細めていた。
元教師は、折原邦成と名乗った。
年齢は六十代後半。旧白鳥坂学園で長く国語を教えていたという。廃校になる数年前に退職し、その後は市内の古い団地で一人暮らしをしていた。警察が関係者をたどる中で名前が上がり、連絡を取ったところ、本人の方から「自分も昨夜、廃校で歌を聞いた」と申し出た。
折原は、椅子に座っていた。
背は少し丸く、痩せている。白髪交じりの髪は整えてあるが、顔色は悪かった。目の下には濃い隈があり、唇は乾いている。古びた灰色のコートを着たまま、膝の上で両手を握っていた。指先が細かく震えている。ときどき、喉の奥で息が引っかかるような音を立てた。
いかにも、怪異に怯えた被害者だった。
ルスト・ヴァルレインは、壁際に立ったまま折原を見ていた。
その恐怖は本物に見えた。
人は本当に怯えると、声を大きくできない。顔を上げ続けることも難しい。折原の視線は揺れ、話す前から息が浅かった。手の震えは演技にしては細かく、長く続いている。歌を聞いたと言う前から、何かに追われている人間の形をしていた。
ルストは、そういう者を完全には疑いきれない。
泣く者、弱った者、追いつめられた者。
そこに嘘が混じることを知っていても、恐怖そのものを切り捨てることはできない。少女の件で一度痛い目を見ている。見ているのに、それでも、目の前で震える人間をただ疑いの対象として見ることはできなかった。
クラウディオは、ルストの沈黙を横目で見た。
責めはしなかった。
ただ、折原へ視線を戻した。
その目は、人形を見る時の目ではない。
人間の言葉を見る目だった。
榊悠真が録音機を置く。
「折原さん。録音します。無理のない範囲で、昨夜のことを順番に話してください」
折原は喉を鳴らした。
「……私は、本当に、何も知りません」
最初の言葉が、それだった。
榊は眉を動かしたが、口を挟まなかった。
「ただ、巻き込まれただけなんです。あの学校に行ったのも……その、昔のことで少し気になることがあって。けれど、何かをしようとしたわけではありません。人形にも、触っていません」
クラウディオの目が細くなる。
ルストも、わずかに顔を上げた。
榊は静かに続ける。
「順番にお願いします。まず、なぜ廃校へ行ったんですか」
「だから、気になることがあって」
「何が気になったんです」
「噂です。最近、あそこで人形が笑うとか、歌うとか、そういう噂を聞いて……私は昔、あそこで勤めていましたから。心配になって」
「誰から噂を聞きましたか」
「近所の人です。詳しくは覚えていません」
澪奈は記録を取る。
折原の声は掠れている。だが、言葉の選び方は妙に慎重だった。知らない。覚えていない。巻き込まれた。何もしていない。話の柱が、出来事ではなく自分の責任の薄さに置かれている。
榊がさらに問う。
「廃校に入った時刻は?」
「夜の、九時頃だったと思います」
「どこから入りましたか」
「正面の……いえ、校庭側から。昔の勝手口がありまして。そこがまだ開くかどうか、見ようとして」
「勝手口を知っていた」
「元教師ですから。昔の話です」
「中へ入った」
「少しだけです。本当に、少しだけ」
折原は両手を強く握った。
「廊下まで行ったところで、聞こえたんです。歌が。子どもの声でした。あの、人形が歌っているような……いや、どこからともなく聞こえてきて。怖くなって、私は逃げようとしました」
ルストは折原を見る。
その声には恐怖があった。
歌を聞いたという言葉を出した瞬間、折原の肩が強張った。手の震えが強くなる。これは演技ではない。少なくとも、彼は本当に何かを聞いている。
榊が聞く。
「人形は見ましたか」
「見ました。旧音楽室で。椅子に座っていました。あれは……あの人形は、昔からあったものではありません。私は知りません。私は関係ないんです」
クラウディオが、そこで初めて口を開いた。
「誰も今、お前が関係しているとは言っていない」
折原の顔が強張る。
「いえ、私は、ただ」
「聞かれたことに答えろ。言い訳を前に置くな」
榊がすぐに言う。
「クラウディオ、圧をかけすぎるな」
「圧ではない。順番の話だ」
折原は怯えたようにクラウディオを見る。
「私は、本当に、被害者なんです。あの歌を聞いてから、耳に残って離れない。夢の中でも聞こえる。あの子どもの声が……」
「子どもの声」
クラウディオが繰り返した。
折原は頷く。
「はい。子どもが歌っているような声でした。昔の……いえ、ただの歌声です。私は、それを聞いただけで」
彼はそこで、目線を動かした。
机の角へ。
旧職員室に残された古い机の、欠けた角。そこを一瞬だけ見た。すぐに視線を戻す。だが、クラウディオは見逃さない。
澪奈も、今は気づいた。
知らないと言う前に、折原は必ず目を逸らす。
相手の目ではなく、机や床、扉の方を見る。
榊が質問を続ける。
「旧放送室へは入りましたか」
折原の目が、今度は旧職員室の扉へ向いた。
扉の向こうには廊下があり、その先に旧音楽室、旧放送室がある。
「いえ。私は、そこへは……」
「入っていない」
「はい。入っていません」
「では、歌を聞いたのはどこですか」
「廊下です」
「旧音楽室の前?」
「ええ、たぶん」
「たぶん?」
「怖くて、よく覚えていないんです」
折原は額の汗を拭った。
「私は人形にも触っていません。放送室にも入っていません。あの歌を流したわけでもない。巻き込まれただけなんです」
クラウディオは、薄く笑った。
冷たい笑みだった。
「お前は怖かった順に話していない。責められたくない順に話している」
旧職員室の空気が止まった。
折原の顔が白くなる。
榊がクラウディオを見る。
澪奈は録音機の赤いランプを見た。声はすべて記録されている。今の言葉も。折原の呼吸の乱れも。
ルストは折原を見ていた。
さっきまで、保護すべき被害者に見えていた男。
恐怖は本物だ。
だが、クラウディオの言葉を聞いた瞬間、証言の形が違って見え始めた。
廃校へ入った理由は曖昧。
最初に「何も知らない」と言う。
人形を見た場所より先に、触っていないと言う。
旧放送室について聞かれる前から、入っていないと言う。
歌の声を語る時、机の角を見る。
知らないと言う時、相手の目を見ない。
順番が違う。
恐怖の順番ではない。
責任から遠ざかるための順番だ。
ルストは、ようやく短く言った。
「……順番が違う」
クラウディオはルストを見なかった。
だが、聞いていた。
折原が震えた声で言う。
「何を、何を言うんですか。私は本当に怖かったんです。あの歌が、耳元で、ずっと……あなた方には分からないでしょう。あんな場所で、子どもの声がして、逃げようとしても足が動かなくなって」
「怯えていることと、嘘をついていないことは別だ」
クラウディオの声は静かだった。
折原の唇が震える。
「被害者を責めるんですか」
「被害者の顔は便利だな」
「クラウディオ」
榊が制した。
クラウディオは肩をすくめる。
「では聞き方を変えてやる。旧放送室の話を後回しにした理由は?」
「後回しになんて」
「なっている。お前は廃校へ入った理由より先に、自分が何もしていないと言った。人形を見た場所より先に、触っていないと言った。歌を聞いた順番より先に、放送室へ入っていないと言った。なぜだ」
「だから、怖くて、混乱して」
「混乱した人間は、責任だけ避けて喋れない」
折原は黙った。
その沈黙に、旧職員室の埃が沈む。
榊は、今度はゆっくりとした声で聞いた。
「折原さん。旧放送室へは、本当に入っていないんですね」
「入っていません」
「旧放送室の鍵の場所を知っていますか」
折原の喉が動いた。
「知りません」
目線が、また扉へ行く。
ルストはそれを見た。
「今、放送室を見たな」
折原の顔が引きつる。
「いえ、そんな」
澪奈が低く言った。
「靴底を確認させてください」
折原は目を見開く。
「靴?」
「はい。あなたは廊下までしか行っていないと言いました。旧放送室へ入っていないとも。ですが、現場の床材と土の付着を確認する必要があります」
「私は本当に、そんなところへは」
「確認だけです」
澪奈の声は事務的だった。
それがかえって逃げ道を塞いだ。
折原は渋々、靴を片方脱いだ。澪奈は手袋を替え、靴底をライトで照らす。黒い泥、乾いた埃、細かな木屑。その中に、赤茶けた土が付着していた。
澪奈は端末を操作し、旧放送室の床付近で採取したサンプル写真を開く。
「旧放送室奥の壁際に、赤茶けた粉状の土と古い木屑がありました。床板の隙間から出ているものです。今、靴底に付着しているものと色が近い」
榊の目が鋭くなる。
「照合は?」
「分析が必要です。ただ、廊下や旧音楽室の床材とは違います」
折原は声を上ずらせる。
「昔、通った時のものかもしれません」
「昨夜の話をしています」
「だから、記憶が曖昧で」
クラウディオが冷たく言った。
「都合の悪い場所だけ曖昧になる記憶は便利だな」
折原は怒ったように顔を上げた。
「あなたに何が分かるんです!」
「保身の匂いがする」
クラウディオは淡々と返す。
「怪異より、自分の名前が出ることを怖がっている顔だ」
「違う!」
折原は椅子から腰を浮かせかけた。
ルストが一歩動く。
止めようとしたのではない。折原が崩れそうになったのを見て、無意識に支えようとした。その動きに、クラウディオの視線が向く。
ルストは途中で止まった。
考え直した。
支えることと、信じることは同じではない。
弱った者に手を伸ばすことと、その証言をそのまま受け取ることは違う。
その区別を、彼は今、遅れずにした。
クラウディオはそれを見ていた。
何も言わない。
だが、ほんの一瞬だけ目が細くなった。
気づいたのだ。
ルストが、前より早く立ち止まったことに。
榊は折原へ向き直る。
「旧放送室の鍵について、もう一度聞きます。あなたは鍵の場所を知っていますか」
「知りません」
「旧放送室の扉は今、鍵が壊れています。ですが、昔は別管理だったそうですね」
折原の肩が震えた。
「昔のことは」
「鍵はどこに保管されていましたか」
「知りません」
クラウディオが言う。
「知らない人間は、その鍵の場所を見ない」
折原は黙る。
榊は言葉を重ねる。
「折原さん」
その時、折原は口を滑らせた。
「……あの鍵は、まだ棚の裏にあるんですか」
旧職員室が、静まり返った。
澪奈の手が止まる。
録音機の赤いランプだけが点滅している。
榊が低く問う。
「鍵の話は、まだしていません」
折原の唇が震える。
「違う。今のは」
「あなたは、旧放送室の鍵が棚の裏にあると知っていた」
「昔の記憶です。昔、そうだっただけで」
「今もそこにあるかどうかを気にした」
「違う、私は」
ルストが静かに言った。
「何を隠している」
折原はルストを見た。
先ほどまでの怯えた被害者の顔が、少し違って見えた。恐怖はある。だが、その奥に、別のものがある。逃げたい。隠したい。自分だけは巻き込まれた側にいたい。そういう顔。
クラウディオは、ゆっくりと言った。
「廃校時代の生徒の話をしろ」
折原の身体が固まった。
「生徒?」
「とぼけるな。歌を聞いた時、子どもの声と言った。だが、お前が怖がったのは声そのものじゃない。声が誰に似ていたかだ」
「知りません」
「また机を見る」
折原ははっとして、視線を戻した。
遅い。
遅すぎる。
榊も澪奈も、もう見ていた。
折原は唇を噛んだ。
「私は、何も」
その時だった。
机の上に置かれた録音機から、ノイズが走った。
誰も触れていない。
再生ボタンも押していない。
ざ、と古い放送機器が息を吸うような音がした。
澪奈が端末を見る。
「録音機が反応しています」
榊が眉を寄せる。
「再生か?」
「違います。入力が入っています。旧放送室側のマイクからです」
旧職員室は、旧放送室から廊下を挟んで離れている。
それでも、録音機の赤いランプが点滅した。
そして、歌が流れた。
言葉のない歌。
鼻歌のような、古い旋律のような、名前を呼ぼうとして音だけになったような声。旧職員室のスピーカーなど、生きているはずがない。端末から鳴っているのか、廊下から響いているのか、耳の奥で鳴っているのか分からない。
榊の顔が強張る。
澪奈が息を止める。
ルストは折原を見る。
クラウディオは折原だけを見ていた。
折原は耳を塞いだ。
指が震え、爪が髪の白い部分に食い込む。
「やめろ」
彼は掠れた声で言った。
歌は続く。
意味はない。
だが、折原には意味があるらしい。
彼は椅子の上で身体を縮め、机の角に爪を立てた。古い木に、ぎ、と音がする。手の震えが先ほどよりずっと強い。怪異に怯えているのではない。もっと具体的な誰かに責められている顔だった。
「やめろ……やめてくれ」
榊が声をかける。
「折原さん、何が聞こえているんです」
「違う。私は、違う。私は知らなかった。あの時は、もう、どうしようもなくて」
クラウディオの目が冷える。
「誰の声だ」
「言うな」
折原は震えながら首を振った。
「言わないでくれ。私は、悪くない。学校が、校長が、みんなが、そうするしかないと……」
ルストが低く言った。
「先生、と呼ぶ声か」
折原の顔が歪んだ。
それが答えだった。
歌は少しずつ細くなる。
遠くで、少女が笑ったような音がした。
折原は両耳を塞いだまま、泣きそうな声で叫んだ。
「私は、あの子を見捨ててなんかいない」
部屋が静まり返った。
録音機の赤いランプが、まだ点滅している。
榊は動かなかった。
澪奈も記録を止めたまま、折原を見ている。
ルストは、クラウディオを見た。
クラウディオは、折原から目を離さない。
あの子。
その言葉だけが、廃校の埃の中で形を持った。
旧放送室の方から、少女の笑い声が一拍遅れて返ってきた。
楽しそうではなかった。
許している声でもなかった。
ただ、長い間閉じ込められていた何かが、ようやく名前の手前まで来たような声だった。




