第18話 夜に歌う人形
旧音楽室の廊下は、笑い声が止んだあと、かえって深く冷えた。
古い木造校舎の床板は湿気を吸い、懐中電灯の光を受けても艶を持たなかった。板で塞がれた窓の隙間から夜風が細く入り、埃だけを揺らしている。壁には剥がれかけた掲示紙の跡があり、ところどころに残った画鋲の穴が、暗がりの中で黒い点のように見えた。閉じられた教室の扉は、どれも同じ古い木の色をしている。けれど、奥へ進むほど、音が少しずつ死んでいくようだった。
さきほど、旧放送室から一拍遅れて笑い声が返った。
録音機にはさらに遅れて、その声が残った。
同じ声だった。だが、同じ時間ではなかった。
白石澪奈は旧音楽室の入口に立ち、録音機の波形を見つめていた。赤いランプが小さく点滅している。さきほどの笑い声は、三台の録音機に残っている。旧音楽室の中央、廊下側、旧放送室側。それぞれ拾った音は似ているが、微妙にズレていた。音量も、反響も、距離の計算も合わない。
科学の方が間違っているわけではない。
記録は正しい。
ただ、記録される前に、何かが人間の耳へ触れている。
澪奈はその考えを、まだ声にしなかった。声にすれば、自分が怪異の側へ一歩寄るような気がした。別に怪異を否定したいわけではない。だが、認めるなら、どこまでが物理で、どこからがそれ以外なのか、線を引きたい。線を引けない現象ほど、鑑識官には気味が悪い。人間は線を引くために分類表を作ったのに、怪異はそれを踏み越えてくる。マナーがない。もっとも、人間も大概だが。
榊悠真は廊下の奥を見ていた。
「捜索班から報告。旧資料室と旧図工室に人影なし。窓の破損も新しいものはない。だが、旧放送室の奥の壁に空洞があるらしい。後で開ける」
「音響反射の原因になる可能性があります」
澪奈が答える。
「古い校舎です。壁の中の配管や空洞で音が回ることはあります。ただ、それでも全員の聞こえ方が違う理由にはなりません」
「全員、同じ笑い声を聞いたはずだ」
「録音上は同じ声です」
「現場では?」
澪奈は、少し黙った。
笑い声は、少女の声に聞こえた。
それは全員同じだと思っていた。だが、あとになって思い返すと、少し違う。高く、細く、幼い声。しかし、その中に自分だけが知っている別の響きが混じっていたような気がした。幼い頃、試験で満点を取ったのに「当然でしょう」とだけ言った母の声。研究室で初めて分析結果を認められた日の、恩師の短い「悪くない」。どちらでもない。どちらにも似ていた。褒めてほしいと願った声の輪郭だけが、笑い声の中で薄く揺れていた。
澪奈は唇を引き結ぶ。
「……同じ声だったと、言い切れません」
榊が彼女を見た。
彼も同じなのだと、澪奈はすぐに気づいた。
榊の顔は険しい。だが、その険しさの中に、事件現場で見せる警戒とは別のものが混じっている。聞きたくないものを聞いた者の顔だった。
「俺は、母の声に似ていた」
榊は低く言った。
それだけだった。
詳しい話はしない。誰の母なのか、どういう人だったのか、今どうしているのか。言葉にしない。警察官として必要な情報だけを置いた。それでも、十分だった。
澪奈は小さく頷く。
「私は……恩師の声に似ていました。けれど、録音にはそう入っていません」
「録音には?」
「同じ旋律です。声というより、鼻歌に近い。明確な言葉はありません」
榊は廊下の奥を見る。
「人によって違う声に聞こえる」
「そう見えます」
「そう見える、か」
「断定はまだできません」
榊は苦い顔をした。
「断定できないものばかりだな」
「断定したら、たぶん間違えます」
その言葉に、榊は反論しなかった。
かつてクラウディオへ向けられた疑い。少女の証言。防犯カメラ。血液反応。ネットの告発。どれも、早く断定した者から利用されていった。だから、今は遅くても見なければならない。慎重すぎるくらいで、ようやく人間の悪意に追いつける。まったく効率が悪い。人間社会がもう少し善良なら、捜査も三割くらい楽になっただろうに。
クラウディオ・ルジェリウスは、旧音楽室の中央にいた。
少女人形の前に立ち、硝子の目を見下ろしている。白い肌。閉じた口元。似せて作られた指。首の角度だけ真似た、重心のない身体。彼はその人形を嫌悪していた。恐れてはいない。だが、嫌っている。自分の人形を見た者が、外側だけを剥ぎ取り、噂として貼りつけたもの。人形の形をした模倣。出来の悪い贋作。
その人形の口は、相変わらず動いていない。
クラウディオは言った。
「歌っているのは人形じゃない」
声は低かった。
榊が旧音楽室へ戻りながら問う。
「根拠は」
「口が歌う形をしていない。喉も胸も作られていない。発声装置があったとしても、ここまで声を変えられない。こいつは媒体だ。目印か、餌か、呼び口か。その程度だろう」
「人形が発生源ではない、と」
「最初からそう言っている」
「歌がどこから来ているかは?」
「廃校だ」
澪奈が顔を上げる。
「校舎全体、という意味ですか」
「古い建物は音を溜める。人間の声も、足音も、閉じた扉も、雨の音もな。そこに仕掛けを置けば、音は回る。だが、今鳴っているものは音響だけじゃない。人形はそこへ形を与えている」
榊は旧放送室の方を見た。
「誰かが旧放送室を使った。だが、旧放送室だけでは説明できない」
「ようやくまともなまとめ方をするようになったな」
「褒めるなら素直に褒めろ」
「褒めていない」
「だろうな」
榊は深く息を吐いた。
ルスト・ヴァルレインは、旧音楽室の入口に立っていた。
灰銀の髪は廃校の冷えた空気の中で鈍く光り、鋼色の瞳は人形ではなく、廊下の奥を見ている。彼は先ほどから、ほとんど喋っていない。笑い声が止んだあたりから、空気の底を探っているようだった。
クラウディオは横目で見る。
「何を聞いている」
ルストは少し遅れて答えた。
「声の残りだ」
「壁か」
「壁だけじゃない」
「なら床か」
「もっと古い」
クラウディオの目がわずかに細くなる。
ルストは言葉を探すように、旧音楽室から廊下へ視線を移した。
「ここは音が沈む。響いて消えるんじゃない。奥へ落ちていく」
「詩人ごっこなら外でやれ」
「違う」
「分かっている。だから腹が立つ」
ルストはそれ以上言わなかった。
廊下の奥から、かすかな音が聞こえた。
笑い声ではなかった。
歌だった。
最初は、風の音に似ていた。板で塞がれた窓の隙間を通る細い空気。古い放送室の機械が息を吸うようなノイズ。そこへ、音程のない鼻歌が混じる。ら、という音にも、あ、という音にも聞こえる。意味のある言葉ではない。古い童謡の切れ端のようでもあり、名前を呼びかけて途中でやめた声のようでもあった。
歌詞はない。
聞き取れる言葉はない。
それなのに、胸の奥へ手を入れられるような歌だった。
榊が身構える。
「録音」
「回しています」
澪奈はすでに録音機を確認していた。赤いランプが点滅する。音は入っている。波形は小さい。だが、確かに揺れていた。
歌は、旧音楽室の中にも響いている。
だが、少女人形の口は閉じている。
クラウディオは人形を見たまま、目を冷やした。
「趣味が悪い」
歌は少しずつ近くなる。
いや、近づいているのではない。
聞いている者の内側で、形を持ち始めている。
澪奈の耳に、それは恩師の声のように聞こえた。
言葉はない。だが、聞きたかった響きがある。よく見ている。悪くない。もう少しで届く。そう言われたかった日の声。実際にそう言われたかどうかは分からない。むしろ、言われなかったから、今こうして形を持ったのかもしれない。澪奈は一瞬だけ息を止め、すぐに端末へ視線を落とした。
「録音には……旋律だけです」
声が少し震えた。
「人の声に聞こえますが、録音では鼻歌に近い。言葉はありません」
榊は壁に手をついた。
「俺には、母の声に聞こえる」
それだけ言って、口を閉じる。
彼は耐えていた。刑事として、現場の責任者として、自分の内側へ入り込んでくる声を、証言として扱おうとしている。だが、顔は少し青い。人は聞きたかった声に弱い。正しさや職務では支えられない場所へ、声は簡単に入り込む。鍵も合図もなく、勝手に。
ルストは動かなかった。
動けなかった。
歌が、彼の耳に届いた時、廃校の空気が遠くなった。
旧音楽室の埃も、録音機の赤いランプも、榊の低い声も、澪奈が端末を押さえる指も、一瞬だけ薄くなる。かわりに、古い冷たさが足元へ戻ってきた。
石の壁の冷え。
金属が小さく鳴る音。
血の匂い。
近すぎる息。
首筋に残る熱。
手首へ残った圧。
それらは映像にはならない。長い記憶として開かない。ただ、音の周りにまとわりつく。歌は言葉を持たないはずなのに、そこへ声が混じった。
ルスト。
呼ばれた気がした。
現在のクラウディオの声ではない。
今のような皮肉も、冷たさも、わざと整えた棘もない。もっと古い。近い。息が混じる。血の匂いを伴う。聞きたかったのか、二度と聞きたくなかったのか、ルスト自身にも分からない声だった。
来るな。
逃げろ。
見るな。
短い断片だけが落ちてくる。
歌は続いている。
いや、歌なのか。
声なのか。
記憶なのか。
怪異が作ったものなのか。
分からない。
そして、最後に。
……置いていくな。
その声がした瞬間、ルストの息が止まった。
廃校が遠ざかる。
目の前の少女人形も、榊も、澪奈も消えかける。ルストの手が、無意識に横へ伸びた。クラウディオがいる方へ。今そこに立っているクラウディオへ触れようとしたのか、歌の中の古い声へ手を伸ばしたのか、ルスト自身にも分からない。
指先が、空気を掴みかける。
途中で止まった。
止めたのは、理性ではなかった。
クラウディオの視線だった。
クラウディオは、ルストを見ていた。
彼は歌を聞いているはずだった。だが、何を聞いたのか、その顔からは読めない。表情は変わらない。顔色も動かない。ただ、指先が一瞬だけ止まっていた。襟元へ行きかけた手が、途中で静止している。目だけが、冷えすぎていた。
クラウディオは気づいていた。
歌がルストに何を聞かせたのか、正確には知らない。
だが、自分の声を聞いたことだけは分かっていた。
ルストの息の止まり方。
手が伸びかけた方向。
名前を呼びかけてやめた口元。
それだけで十分だった。
クラウディオの顔に、不快感が浮かぶ。
怒りではない。
怪異に対する嫌悪だった。
自分たちの過去に触れたこと。
ルストの中に残る声を引きずり出したこと。
そして、自分自身にも何かを聞かせようとしていること。
すべてが不快だった。
「歌っているのは人形じゃない」
クラウディオはもう一度言った。
今度の声は、先ほどより低い。
「声に釣られるな、灰銀」
ルストは返事をしなかった。
歌がまた、廊下の奥で揺れる。
意味のない鼻歌。
なのに、耳の奥ではクラウディオの古い声になる。
ルスト。
お前は、まだ――
続きは聞こえなかった。
聞こえなかったから、足が一歩出た。
廊下の奥へ。
旧放送室のさらに先。捜索班が確認したはずの、何もない暗い廊下。閉じられた旧資料室。板で塞がれた窓。そこから歌が来ているように思えた。いや、思わされた。
ルストの大きな身体が、静かに動いた。
榊が気づく。
「ルストさん?」
澪奈も顔を上げる。
クラウディオはすでに動いていた。
黒い外套の裾が、埃の上をかすめる。彼はルストの横へ踏み込み、その手首を掴んだ。強く。細い指とは思えない力だった。
ルストが止まる。
廊下の奥へ向きかけた身体が、現在へ引き戻された。
「そっちを見るな」
クラウディオの声は鋭かった。
ルストは、数秒遅れて彼を見る。
目の焦点が戻る。
だが、完全ではない。
「今の声は」
「聞くな」
「あれは」
「聞くなと言った」
クラウディオの指が、ルストの手首に食い込む。
ルストは振り払わない。
むしろ、その痛みで現在を確かめるように、わずかに息を吸った。
「声は、お前だった」
その言葉が、旧音楽室に落ちた。
榊も澪奈も、黙った。
クラウディオは答えない。
答えられないのではない。答えない。答えれば、怪異の用意した声へ名前を与えることになる。自分が本当に言ったのか、ルストが聞きたかったのか、怪異が作ったのか。どれかを選んだ瞬間、歌は形を持つ。
だから、クラウディオは答えなかった。
ただ、手を離さなかった。
ルストは、掴まれた手首を見た。
細い指。
冷たい力。
工房《箱庭》の前で、自分がクラウディオを抱きしめた夜が、一瞬だけ胸をよぎる。あの時は、自分が引き止めた。今は、クラウディオが引き戻している。どちらも言葉にしない。しないまま、関係だけが少しずつ形を変える。人間なら会話しろと言う場面だが、この二人にそれを期待するのは、廃校に防音設備を求めるくらい無謀だった。
クラウディオが低く言う。
「あれはお前の記憶じゃない」
ルストは顔を上げる。
「なら、何だ」
「お前が聞きたかった音だ」
言ってから、クラウディオは一瞬だけ口を閉じた。
自分で言った言葉が、自分へ返ってきたような顔だった。
お前が聞きたかった音。
では、自分は何を聞いたのか。
その問いを、彼は顔に出さない。出さないが、指先が少しだけ強くなった。ルストの手首を掴む指が、離さないまま、さらに深く現在へ縫いとめる。
ルストは静かに言った。
「クラウディオ」
「名前を呼ぶな」
「今のは、お前の声だった」
「そう聞かせただけだ」
「それでも」
「それでも、で足を出すな。怪異相手に礼儀正しく呼ばれてやる必要はない」
ルストは黙った。
その沈黙で、ようやく戻ってきたと分かった。
クラウディオは手を離さないまま、榊へ視線を向ける。
「録音を確認しろ」
榊ははっとしたように動いた。
「白石」
「はい」
澪奈は録音機の画面へ戻った。赤いランプがまだ点滅している。歌は止んでいる。廃校の廊下には、静かな冷気だけが残っていた。だが、録音は続いていた。
澪奈は再生した。
最初に入っていたのは、低いノイズだった。
ざ、ざ、と旧放送室の機械が眠りながら息をするような音。
そこに、細い旋律が混じる。
歌詞はない。
ただ、鼻歌のような、遠い声のような音が流れる。録音機には、榊の母の声も、澪奈の恩師の声も、ルストが聞いた古いクラウディオの声も入っていない。ただ一つの、曖昧な旋律だけが残っている。
榊が呟く。
「録音には同じ音だけか」
「はい」
澪奈の声は硬い。
「現場証言とは一致しません。聞いた者の内側で、別の声として認識されている可能性があります」
クラウディオは人形を見ている。
「声を餌にしている」
「誰の声を?」
榊が問う。
クラウディオは答えなかった。
久遠院なら、きっと綺麗に言うだろう。
人は聞きたかった声を怪異に重ねる。
愛されたい記憶ほど、声の形を取りやすい。
そういう分類の言葉で、整理するだろう。
クラウディオはそれが嫌いだった。
並べられた瞬間、人間の痛みは標本になる。標本は美しくても、生きていない。あの男は、それを分かった顔でやる。だから嫌いだった。
澪奈が録音を止めようとした瞬間、波形が再び動いた。
「待ってください」
全員が画面を見る。
現場には、もう何も聞こえていない。
廊下は静かだ。
人形の口も動いていない。
旧放送室のノイズも止まっている。
それなのに、録音機の波形だけが動いていた。
澪奈は息を殺して再生する。
短い沈黙。
そして、声。
現在のクラウディオに似た声だった。
低く、近い。
皮肉も怒りもなく、ただひどく短い一言。
「遅い」
それだけだった。
旧音楽室の空気が凍る。
ルストの息が止まった。
クラウディオは録音機を見なかった。
見ようともしなかった。
ただ、偽人形の硝子の目を見ていた。白い顔。閉じた口元。目の奥に、何かが潜んでいるような暗さ。人形は歌っていない。笑ってもいない。だが、媒体としてそこにある。誰かが作り、誰かが置き、何かがそこへ集まっている。
クラウディオの指は、まだルストの手首を掴んでいた。
ルストは振り払わない。
廃校の旧放送室の奥から、最後に一度だけ、誰かが小さく笑った。
今度は録音機が、少し遅れて赤いランプを震わせた。




