第20話 博愛という名の薄情
録音機の赤い光が、旧職員室の机の上で点滅していた。
赤い、小さな光だった。蛍のように弱く、しかし逃げ場のない光。古い机の傷や、欠けた角や、埃をかぶった湯呑みの影まで、そこだけ妙にはっきり浮かび上がらせている。窓は板で半分塞がれ、隙間から夜の冷気が入っていた。湿った木の匂い、古い紙の匂い、長く使われなかった部屋に染みついた粉っぽい匂い。その奥に、旧放送室から流れてきたような微かな機械油の匂いが混じっている。
折原邦成は、椅子に座ったまま動けずにいた。
つい先ほどまで、彼は両耳を塞ぎ、震えながら叫んでいた。
私は、あの子を見捨ててなんかいない。
その言葉は、旧職員室の埃の中にまだ残っている。旧放送室の方から一拍遅れて返ってきた少女の笑い声も、すでに消えたはずなのに、耳の奥へ細く引っかかっていた。楽しげな笑いではない。責める声とも違う。長い間、誰にも呼ばれなかったものが、やっと誰かの口からこぼれたのを聞いて、笑ったような声だった。
榊悠真は、折原の向かいに立っていた。
表情は厳しい。だが、乱暴ではない。怪異に怯える被害者として折原を見るべきか、過去を隠す証言者として扱うべきか、その二つの間で慎重に立っている顔だった。前の少女の時とは違う。泣く者、怯える者、保護されるべき者。その顔の奥に別のものがあると、もう榊は知っている。
白石澪奈は、録音機と端末を確認していた。
先ほど勝手に入力された音声は、録音データとして残っている。ノイズ、歌、折原の叫び。録音機の内部時計は正常だった。旧放送室側のマイクにも、同じタイミングで微かな波形が出ている。ただし、現場で聞いた音と録音に残った音は完全には一致しない。あの現象は、また記録の手前で人間の耳へ触れている。
ルスト・ヴァルレインは、壁際に立っていた。
灰銀の髪は廃校の冷たい灯りの下で青白く見える。彼は折原を見ている。信じたいわけではない。もう、ただ信じることはしない。だが、折原の恐怖が本物であることも無視しない。元教師の手はまだ震えていた。喉は詰まり、息は浅い。怪異に歌を聞かされた者の顔だ。
そして同時に、保身の顔でもあった。
クラウディオ・ルジェリウスは、机の端に寄りかかるように立っていた。
黒い外套の袖が、古い机の表面にかすかに触れている。白い指先は動かない。長い黒髪が肩へ落ち、作業灯とは違う廃校の冷えた光を受けていた。彼は折原を見ている。怪異に怯えた老人としてではない。言葉を選び、順番を組み替え、自分だけが責められない場所へ逃げようとする人間として見ている。
折原が、乾いた唇を動かした。
「……違うんです」
声は掠れていた。
「私は、本当に、あの子を見捨てたわけではないんです。教師として、できることには限界がありました。学校には学校の規則がある。生徒は一人ではない。全体を見なければならない。私は……私は、全ての生徒を愛していました」
その言葉が出た瞬間、旧職員室の空気がさらに薄く冷えた。
録音機の赤い光が、また一度点滅する。
澪奈は指を止めた。
榊は眉を寄せた。
ルストはクラウディオを見た。
クラウディオの表情は動いていない。だが、声を出す前に、指先がほんのわずか止まった。袖の中へ隠れた指が、布を一度だけ押さえる。わずかな動きだった。何も知らなければ見逃すようなもの。だが、ルストは見逃さなかった。
クラウディオは、その言葉を嫌った。
全ての生徒を愛していた。
その響きだけは立派な言葉を。
折原は、それを盾のように繰り返す。
「本当です。私は教師として、生徒を分け隔てなく見ていました。誰か一人だけを特別扱いすることはできません。あの子だけを、特別に見ることはできなかった。私には、ほかの生徒もいました。クラス全体を、学校全体を見なければならなかったんです」
榊が静かに問う。
「あの子、とは誰ですか」
折原は唇を閉じた。
視線が落ちる。
机の角へ。
前と同じ癖だった。
クラウディオが低く言う。
「全員を愛していた? なら、お前は誰の声も聞いていなかったんだろう」
折原の肩が震えた。
「違います」
「違わない」
クラウディオの声は静かだった。
怒鳴らない。
それなのに、折原の言葉の布地だけを鋭く切った。
「誰でも愛するという言葉は、誰一人選ばない時に便利だな」
旧職員室の奥で、板の隙間が小さく鳴った。
風ではないように聞こえた。
折原は顔を上げる。
「あなたに、教師の立場が分かるんですか。生徒は一人ではないんです。一人だけを特別に扱えば、他の子に示しがつかない。教師は公平でなければならない。私は、平等であろうとしたんです」
「平等」
クラウディオは薄く笑った。
「博愛は、薄情を隠すには上等な布だ」
榊が短く息を吐く。
「クラウディオ、言い方を考えろ」
「考えた結果だ」
「折原さんは、少なくとも本当に怯えている」
「怯えていることと、何を正当化しているかは別だ」
折原は、机の端を掴んだ。
爪が古い木に食い込む。
「私は、あの子を嫌っていたわけではない。むしろ心配していました。あの子は少し、周囲に馴染めないところがあった。人形ばかり持っていて、休み時間も音楽室や放送室にいて……他の生徒と違う行動を取ることが多かった。だから、私は何度も声をかけました」
澪奈が端末へ記録する。
「人形を持っていたんですね」
折原は、はっとしたように澪奈を見た。
「……ええ。古い人形です。小さな、人形でした。女の子が持つようなものです」
「その人形は、今回見つかった笑う少女人形と関係がありますか」
「知りません」
即答だった。
早すぎた。
クラウディオが目を細める。
「知らないと言う時だけ速い」
折原の顔が赤くなる。
「本当に知らないんです!」
「知らないものについて、人形は古かったと言った。小さな人形だったとも。よく覚えているな」
「昔のことです。教師として、生徒の持ち物くらい」
「全員分、覚えているのか?」
折原は言葉を失った。
クラウディオは冷たく続ける。
「全ての生徒を愛していたんだろう。なら、全員の声と持ち物くらい覚えているのかと思った」
ルストは、その横顔を見ていた。
クラウディオの嫌悪は、折原個人だけへ向いているのではない。言葉へ向いている。全て、平等、博愛、公平。聞こえは綺麗で、誰も傷つけないふりをする言葉。その実、いちばん助けを求めた一人を見ないために使われる言葉。
ルストは聞きたかった。
なぜお前は、その言葉をそんなに嫌う。
その問いは喉元まで来た。
だが、出さなかった。
ここで聞けば、クラウディオは閉じる。折原の証言どころではなくなる。いま見るべきは、元教師の言葉だ。クラウディオ自身の傷ではない。
だからルストは、聞かないことを選んだ。
クラウディオは、その沈黙にも気づいていた。
気づいて、わずかに不機嫌そうに目を伏せた。
救われた顔ではない。
だが、拒絶でもない。
厄介な静けさが、二人の間にひとつ増えた。
榊は折原へ向き直る。
「折原さん。あなたは、その生徒が人形を持っていたことを覚えている。旧音楽室や旧放送室へ通っていたことも知っている。では、なぜ最初の証言で言わなかったんです」
「関係ないと思ったんです」
「関係ない?」
「昔のことです。廃校になる前の、ずっと昔の。今回の人形とは関係ない。私は、あの子のことを悪く言いたくなかった」
クラウディオが笑った。
「悪く言いたくなかった。便利な言い方だな。黙っていた理由が急に優しさになる」
折原は声を荒げた。
「本当に、私はあの子を傷つけたくなかったんです!」
「傷つけたくなかったから、聞かなかった?」
「違う!」
「助けられなかったのではなく、深く入らなかった。踏み込まなかった。あの子だけを見ることはできなかった。全員を愛していたから。そう言いたいんだろう」
折原の息が乱れる。
榊が低く言った。
「折原さん。あの子は、何を訴えていたんですか」
旧職員室の古い窓が、かたりと鳴った。
折原は答えない。
喉だけが上下する。
「答えてください」
榊の声が硬くなる。
折原は、目を閉じるようにして言った。
「……生徒同士の問題でした」
その言葉が、部屋に落ちる。
軽く。
軽すぎるほどに。
「思春期には、そういうことがある。仲間外れや、からかい、ちょっとした行き違い。私たちは話を聞きました。注意もしました。けれど、あの子は不安定で……少し、被害的に受け取るところもありました。家庭の問題もあったのかもしれない。学校だけで全てを見ることはできないんです」
「だから旧放送室に逃げたのか」
ルストが言った。
折原は顔を上げる。
「逃げた、というほどでは」
「通っていたと言った」
「あの子は、静かな場所が好きで」
「歌は?」
折原の顔が、また白くなる。
「……歌?」
澪奈が端末から顔を上げる。
「あなたは、前の証言で子どもの歌声を聞いたと言いました。あの子は歌っていたんですか」
折原は口を閉じた。
今度の沈黙は長かった。
やがて、彼は小さく言った。
「あの子は、歌なんて好きじゃなかった」
榊が眉を寄せる。
「好きじゃなかった?」
「ええ。人前で歌うのを嫌がっていました。音楽の授業でも、声が小さくて。だから、あんなふうに歌うはずがない」
「あなたは、あの子の歌声を知っているんですか」
折原の肩が震えた。
「……録音が」
言ってから、彼は息を呑んだ。
澪奈の目が鋭くなる。
「録音?」
折原は慌てて首を振る。
「いえ、昔の、授業の記録です。発表会の練習で、録音することがあったので」
「旧放送室に?」
「昔は、放送室で機材を管理していましたから」
「その録音は残っていますか」
「知りません」
また早い。
クラウディオが言う。
「本当に、知らないという言葉だけは発音がいいな」
折原は答えなかった。
澪奈は立ち上がった。
「旧放送室の機材を再確認します。古い記録媒体が残っている可能性があります」
榊が頷く。
「行こう」
折原も椅子から立とうとしたが、榊が止めた。
「あなたはここにいてください」
「私は」
「ここにいてください」
折原は椅子へ戻る。
だが、その視線は旧職員室の扉へ向いていた。扉の向こう、廊下の先にある旧放送室へ。見たくないのに、見てしまう顔だった。
クラウディオはそれを見ていた。
ルストも。
旧放送室は、旧音楽室の隣にある小部屋だった。
扉を開けると、古い機械油と埃の匂いが濃くなる。放送卓、マイク、切れた配線、錆びたラック。壁の一部には、さきほど確認した空洞がある。古い配管か、機材の抜け跡か、まだ完全には分からない。床には赤茶けた土と木屑が溜まり、埃には最近触れられた跡が残っていた。
澪奈は棚の奥をライトで照らす。
「下段の奥、何かあります」
榊が手袋を替える。
澪奈は細いピンセットを使い、棚の下から小さなものを引き出した。
古びた白い靴だった。
人形用の靴。
片方だけ。
黄ばんだ白い革のような素材で、つま先は少し剥げている。側面には古い汚れがあり、靴底には埃が固まっていた。子ども用ではない。明らかに人形のものだった。小さく、古く、時間の奥に置き去りにされたような靴。
澪奈は息を止めた。
「人形用の靴です」
榊が覗き込む。
「笑う人形のものか」
「サイズが違います。もっと古い。素材も違うと思います」
澪奈は靴を裏返した。
靴底に、かすれた文字があった。
頭文字だけ。
古いインクで、ほとんど消えかけている。
M。
あるいは、時間で崩れたWにも見える。
澪奈は慎重に撮影した。
「頭文字のようなものがあります。完全な名前ではありません」
その時、旧職員室の方から、椅子の倒れる音がした。
榊が振り返る。
「折原さん!」
全員が廊下へ戻る。
旧職員室では、折原が立ち上がっていた。椅子は床に倒れている。彼は耳を押さえ、顔から血の気を失っていた。
録音機が勝手に動いている。
赤い光が点滅し、ノイズが流れていた。
誰も触れていない。
旧放送室の棚の奥から、人形用の靴が見つかった直後だった。
歌が流れる。
言葉のない、細い旋律。
折原には、別の声に聞こえているらしい。彼は両耳を塞ぎながら、何度も首を振った。
「違う。違うんだ。私は、平等であろうとしただけだ。誰か一人を特別扱いすることはできなかった。私は、教師として」
榊が近づこうとする。
折原は机に手をつき、叫んだ。
「私は、先生として間違っていなかった!」
その声が、旧職員室の壁にぶつかる。
クラウディオは、冷たく折原を見た。
「間違っていなかったと言い張る人間ほど、何を間違えたか知っている」
折原の顔が歪む。
泣きそうで、怒っていて、許しを乞いたいのに、まだ自分を守ろうとしている顔だった。
録音機のノイズが、一瞬だけ途切れる。
そして、旧放送室の奥から、子どもの声が一拍遅れて笑った。
その笑い声は、やはり楽しそうではなかった。
白い人形用の片靴は、澪奈の手の中で、冷たく沈黙していた。




