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しがない人形師は、濡れ衣の夜を暴く 〜灰銀のハンターと噛み跡だらけの怪異事件簿〜  作者: なつめ
第1部 しがない人形師は現場に立つ

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第1話 しがない人形師は死体を見る




 雨は、つい先ほどまで降っていた。


 霧杜市の夜は、雨上がりになると妙に古い匂いがする。濡れたアスファルト、排水溝に落ちた枯葉、湿気を含んだ土、遠くの山から下りてくる冷たい霧。それらが混ざり合い、街全体が長く閉ざされていた箱の中身のような息苦しさを帯びる。


 郊外の高台に建つ洋館は、その夜、ほとんど黒い影だった。


 古びた鉄門には蔦が絡み、門柱の上に据えられた石の獣は雨粒を目元にためていた。庭は広い。だが手入れは行き届いていない。背の高い草は濡れて重く垂れ、石畳の隙間には苔が厚く生え、薔薇の枝だけが季節外れに黒々と伸びている。花は咲いていない。それなのに、門の内側へ足を踏み入れた者は、どこか甘く腐りかけた花の匂いを嗅ぐことになった。


 玄関前には警察車両が三台止まっていた。


 赤色灯は回っていない。近隣の住宅に余計な不安を広げないためだろう。もっとも、このあたりに隣家と呼べるものはほとんどない。丘の下には住宅街があるが、洋館だけはまるで街から切り離された古い標本のように、暗い庭の中で黙っていた。


 玄関扉の前で、警察官が一人、濡れた靴底を気にしながら立っていた。


 彼は敷地の外へ続く石畳の方へ目を向け、近づいてくる足音に眉を寄せた。


 傘も差さず、黒い外套の裾を湿らせた男が、鉄門からまっすぐ歩いてくる。


 長い黒髪は雨の匂いを含んでいた。夜の中でも白く浮く肌、金に近い琥珀色の瞳、細い首筋。男が近づくにつれ、警察官は反射的に背筋を伸ばした。礼を尽くしたくなったわけではない。ただ、普通の人間を相手にしている時の距離感では済まないと、身体が勝手に判断しただけだった。


「ここは立入禁止です」


 警察官は事務的に言った。


 男は足を止めた。濡れた石畳の上に、黒い靴が静かに置かれる。


「知っている」


「では、お引き取りください」


「引き取りに来たんだ」


 警察官が怪訝な顔をする。


 男は内ポケットから一通の封筒を取り出した。厚手の紙。封蝋の跡。雨に濡れていないところを見ると、相当に丁寧に扱われていたらしい。


「この屋敷の主から、修復依頼を受けていた人形がある。今日、受け取りに来る約束だった」


「名前は」


「クラウディオ・ルジェリウス」


 警察官の表情が、ほんのわずか変わった。


 その名前は、すでに現場の中で何度か出ていた。被害者の机の上に残された依頼書。書斎兼人形部屋に置かれていた修復記録。そして、屋敷の防犯カメラに映っていた黒髪の人物らしい影。


 警察官は無線に手を伸ばした。


「榊さん。例の人形師が来ました」


 返答はすぐにはなかった。


 洋館の二階、書斎兼人形部屋では、死者がまだ発見された時の姿に近い形で置かれていた。


 古い部屋だった。


 壁一面に飾り棚が作りつけられ、その中に大小さまざまな人形が並んでいる。ビスクドール、日本人形、紙でできた古い芝居人形、名前も用途も分からない木彫りの人形。どの顔も丁寧に作られているのに、部屋に並べられると、精巧さがかえって息苦しさを生む。


 人形たちは見ていた。


 そう感じた者は一人ではなかった。実際には、ガラスの目が光を受けているだけだ。捜査用のライトと、廊下から差し込む電灯と、窓の外に残った雨の反射。その角度のせいで、棚に並ぶ人形の顔がみな、部屋の中央を向いているように見える。


 中央には、男が倒れていた。


 洋館の主、槻島宗一郎。七十二歳。古い人形と怪異資料の収集家。地元では変わり者として知られていたが、近隣との大きな揉め事は確認されていない。


 死体は、椅子から崩れ落ちたような姿勢だった。


 背中の半分が絨毯に触れ、片腕は机の脚に引っかかり、もう片方の手は胸元を掴もうとして失敗したように曲がっている。顔は窓の方へ向いていた。目は開いていない。苦悶の表情も薄い。ただ、唇だけが血の気を失って妙に白かった。


 首筋には二つの傷があった。


 吸血痕に似ている。


 そう言った者がいた。だから、現場に呼ばれた一部の人間は黙った。霧杜市では、数年前から説明のつかない事件がいくつか起きている。警察内部にも、そういうものを冗談で片づけない部署がある。だが、吸血鬼などという言葉を口にすれば、たちまち現場の空気は安っぽくなる。誰もがそう分かっていた。


 それでも、死体は血を抜かれたように白かった。


 部屋には鉄の匂いが残っている。だが、床に広がるべき血だまりはない。絨毯の一部が湿ったように暗く見えるのに、触れても水気はない。窓は開いているが、雨が吹き込んだ痕跡はなかった。カーテンの端も乾いている。窓枠に残った雨粒は外側だけだ。


 古時計は壁際で止まっていた。


 十時十三分。


 死亡推定時刻と、ほとんど一致している。


 机のそばには割れたグラスが落ちていた。琥珀色の液体がほんの少しだけ床に染み、破片は死体の手元から斜めに散っている。争いの痕に見えた。だが、注意深く見ると、破片の広がり方は不自然だった。倒れた椅子の向きとも、死体の腕の位置とも合わない。


 棚の下には、少女人形が一体落ちていた。


 淡い金髪。青いドレス。古い時代の子どものような丸い頬。片方の靴が脱げかけている。落下した衝撃で首がわずかに傾いていたが、顔は割れていない。


 ただ、目元だけが濡れていた。


 白石澪奈は、その人形のそばにしゃがんでいた。


 鑑識用の手袋越しに、彼女は人形の頬に触れないよう、慎重にライトを当てる。


「窓から雨が入った痕跡はありません。床も棚も乾いています」


 彼女は淡々と言った。


 霧杜中央署・特殊未解明事件係の刑事、榊悠真は、壁際から人形を見下ろした。


「なのに、人形の目元だけが濡れている」


「はい」


「成分は」


「採取します。ただ、涙と言うには量が少ない。水滴に近いです」


 榊は口を閉じた。


 警察官として、彼は現場にあるものだけを見る癖がある。怪談めいた噂、近隣住民の思い込み、収集家の趣味、屋敷の雰囲気。そういうものは判断を濁らせる。だが、この部屋には、現場にあるものだけを見ても説明しづらい箇所が多すぎた。


 血の量が合わない。


 傷が整いすぎている。


 古時計が都合よく止まっている。


 割れたグラスの位置が争いの痕にしては妙だ。


 窓は開いているのに、雨は入り込んでいない。


 防犯カメラには黒髪の影が映っているが、屋敷の出入口の記録は一部欠けている。


 そして、被害者が修復を依頼していたはずの人形が一体、現場から消えている。


 机の上には依頼書があった。


 途中で破られていた。署名欄は残っている。依頼主は槻島宗一郎。受け取り予定日は今夜。相手の名はクラウディオ・ルジェリウス。紙の端にはインクの滲みがあり、急いで何かを書き足そうとして途中でやめたような跡がある。


 澪奈は机に置かれたそれを見ながら、声を抑えた。


「榊さん」


「何だ」


「この部屋、薔薇の匂いがします」


 榊も気づいていた。


 古い木、埃、湿った布、死体、鉄。そこへ混じる、甘い薔薇の香水。だが、現場にいた警察官の誰もつけていない。槻島本人の持ち物にも、いまのところ同じ香りは見つかっていない。


「記録しておけ」


「はい」


 その時、廊下の方から足音がした。


 警察官が先導し、その後ろに黒髪の男が続いている。


 部屋に入った瞬間、空気がわずかに変わった。


 人形部屋はもともと寒い。窓が開いているせいもある。だが、男が敷居を越えた時、冷え方が変わったように感じた者がいた。捜査用ライトの白い光の中で、クラウディオ・ルジェリウスは、まるでこの部屋に置かれるために作られた最も高価な人形のように立っていた。


 美しすぎる人間は、現場では邪魔になる。


 榊はそう思った。


 死体と同じ部屋にいても、彼の顔から生々しい恐怖が読めない。怯えも、驚きも、気まずさもない。普通ならそれだけで、周囲の神経を逆撫でする。まして、被害者と取引があり、防犯カメラに似た影が映っている人物ならなおさらだった。


 クラウディオは部屋を一度だけ見た。


 死体。


 倒れた椅子。


 割れたグラス。


 濡れていない絨毯の暗い染み。


 開いた窓。


 止まった古時計。


 棚から落ちた少女人形。


 机の上の破れた依頼書。


 その目は、ものを眺めているのではなく、薄い膜を一枚ずつ剥がしているようだった。


 榊は彼の前へ出た。


「クラウディオ・ルジェリウス。あんたがここに来た理由を聞かせてもらう」


「さっきも言った。人形を引き取りに来た」


「被害者とはいつからの知り合いだ」


「知り合いというほどではない。客だ」


「修復依頼を受けていた?」


「依頼書がそこにあるだろう」


 クラウディオは机の方へ視線を投げた。


 榊は一瞬、眉を寄せる。


「あんた、部屋に入ってすぐそれを見たのか」


「目に入ったものを見ただけだ」


「死体の前でずいぶん落ち着いているな」


 クラウディオの目が、ようやく榊へ向いた。


「泣けば満足か」


 声は低くなかった。むしろ静かだった。だが、部屋にいた警察官の一人がわずかに肩を動かした。柔らかい声ほど、冷えるとよく刺さる。


 榊は表情を崩さない。


「防犯カメラに、あんたに似た人物が映っている」


「似た人物なら世の中にいくらでもいる」


「黒髪で、細身で、長い外套。死亡推定時刻の前後に、この屋敷の裏口付近を通っている」


「それで俺だと?」


「確認中だ」


「便利な言葉だな」


 榊は返事をしなかった。


 澪奈がタブレットを持って近づいた。映像の一部が表示されている。屋敷裏の防犯カメラ。雨粒で画面の端が滲み、薄暗い庭を黒い影が通っていく。顔は見えない。髪らしき黒い揺れと、外套の線だけが分かる。


 クラウディオは画面を一瞥した。


「違う」


「まだ何も言っていない」


「俺ではない」


「根拠は」


「肩の角度。歩幅。右足を出す時の重心。外套の揺れ方。俺より背が高い。だが、そう見えないよう背中を丸めている」


 澪奈の指が止まった。


 榊はタブレットの映像を見直した。警察が映像を確認した時、そこまで細かくは見ていない。顔が見えない以上、断定はできない。ただ、被害者との関係と映像の印象から、クラウディオを重要参考人として見るには十分だった。


「ずいぶん早い判断だな」


「お前たちが遅いだけだ」


「協力的とは言えないな」


「協力を頼まれた覚えがない」


 クラウディオは榊の横をすり抜けるようにして、死体のそばへ近づいた。


 すぐに警察官が制止しかけたが、榊が手で止めた。


「触るな」


「触らない」


 クラウディオは死体の首筋を見下ろした。


 二つの傷。


 暗がりで見れば、吸血痕に見える。白い肌、血の気のない顔、部屋に残る冷気、人形の視線。噂を信じたい者には、十分すぎる材料だった。


 だが、クラウディオは退屈そうに目を細めた。


「雑だ」


 澪奈が反応する。


「何がですか」


「傷の位置と深さだ。吸血鬼の仕業に見せたいなら、角度くらい勉強してからやれ」


 部屋の空気が、明らかに揺れた。


 警察官の一人が顔をしかめる。吸血鬼という言葉が、はっきりと現場に落ちたからだ。


 榊は低く言った。


「冗談を言っている場合じゃない」


「冗談に聞こえるなら、耳を洗え」


「この傷は吸血痕に見える」


「見えるように作ったんだろうな」


「作った?」


 クラウディオは答えず、死体の手元へ視線を落とした。


 指先は硬直しかけている。爪の隙間には、木くずのようなものが少しだけ入っていた。だが、部屋の中で直近に木を削った痕跡は見えない。机の上には古い紙と虫眼鏡、羽根ペン風の装飾ペン、封筒。書きかけの何かはない。


 彼は次に、割れたグラスを見た。


 破片は灯りを受けて細く光っている。争いで落ちたなら、散り方はもう少し違うはずだった。椅子が倒れた向き、死体の腕、机の脚。すべてが、誰かに説明されるために置かれた絵のように整っている。


 整いすぎている。


 雑なくせに、分かりやすい。


 それが一番不快だった。


 クラウディオは顔を上げ、古時計を見た。十時十三分。死亡推定時刻とほぼ同じ。


 彼の口元がわずかに歪んだ。


「時計まで止めたのか」


 榊が聞き返す。


「何か言ったか」


「親切だと言ったんだ。死体、割れたグラス、開いた窓、止まった時計、吸血痕もどき、防犯カメラの黒髪。あとは犯人の名札でも置いておけば完璧だった」


「ふざけるな」


「ふざけているのはこの現場だ」


 クラウディオの声から、わずかに温度が消えた。


 それまで彼は面倒そうに見えた。不機嫌ではあるが、どこか退屈そうだった。だが、その瞬間だけ、部屋の光が一段暗くなったように感じた。


 澪奈は思わず彼の横顔を見た。


 美貌のためではない。彼の怒りが、死体に向けられていないことに気づいたからだった。彼は人が死んだことに怒っていない。少なくとも、表面上はそう見える。


 怒っているのは、おそらく別のものだ。


 誰かを犯人に仕立てるために、分かりやすい証拠を置くこと。


 死体より先に結論を置くこと。


 その雑さ。


 その気配に、彼は反応している。


 榊はクラウディオの前へ出た。


「念のため聞く。昨夜十時前後、あんたはどこにいた」


「工房だ」


「証明できるか」


「作業記録ならある。依頼品の解体と洗浄、古い塗装の確認。手元の映像も残っている」


「提出してもらう」


「令状を持ってこい」


「任意提出を求めている」


「任意なら断る」


 榊のこめかみが動いた。


「自分が疑われている自覚はあるのか」


「ある。だから言っている。雑な現場に俺の名を使うな」


 クラウディオは再び死体を見下ろした。


「俺の仕業にするなら、もっと綺麗に殺せ」


 部屋のどこかで、無線の雑音が小さく鳴った。


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 不謹慎な言葉だった。死者への冒涜と取られても仕方がない。だが、その場にいた者の何人かは、同時に別の感覚も抱いた。


 この男は、自分が疑われていることに怯えていない。


 疑いを晴らそうと焦ってもいない。


 ただ、仕立てが下手だと怒っている。


 榊は奥歯を噛むようにして息を吐いた。


「白石、首筋の傷の詳細をもう一度」


「はい。傷は二つ。幅はほぼ一致しています。ただ、周辺皮膚の反応が妙です。生前についた傷ではあると思いますが、深さが均等すぎる。牙で自然に入った傷というより、器具で押し込んだような印象もあります」


 クラウディオが澪奈へ視線を向けた。


 澪奈は一瞬、言葉を切ったが、すぐに続ける。


「ただし、まだ断定はできません。血液反応はあります。ですが、現場の出血量が合いません。血が抜かれたように見えるのに、この部屋に残っている血液は少なすぎます」


「運び出された可能性は」


 榊が問う。


「あります。ですが、死体を動かした痕跡は薄いです。むしろ、この場所で死んだように見せられている、という方が近いかもしれません」


「見せられている、か」


 榊はクラウディオを見た。


「今の話を聞いて、何か言うことは」


「お前たちは本当に、見せられたものを見るのが好きだな」


「質問に答えろ」


「答えている」


 クラウディオは少女人形の方へ歩いた。


 澪奈が反射的に身を引く。彼は人形へ触れなかった。ただ、しゃがみ込み、濡れた目元を見た。


 水滴は小さい。


 涙と呼ぶには整いすぎている。だが、ただの水にしては、部屋の空気に馴染みすぎていた。表面にライトが映り、人形のガラスの目が生き物のように見える。


 クラウディオの耳に、かすかな音が触れた。


 きい、と。


 古い木が鳴るような、喉の奥で息を漏らすような、小さな音。


 彼は動かず、目だけを上げた。


 棚に並ぶ人形たちは、やはり死体の方を見ている。


 いや、そう見えるだけだ。


 見えるだけでなければならない。


 その時、止まっていた古時計が、一度だけ鳴った。


 針は動かない。


 鐘も鳴らない。


 ただ、内部の歯車が思い出したように、こつ、と音を立てた。


 部屋にいた全員が聞いたわけではなかった。榊は反応しなかった。澪奈は顔を上げたが、それが時計の音だと確信できない様子だった。警察官の一人は無線の雑音に気を取られていた。


 クラウディオだけが、はっきりと時計を見た。


 十時十三分。


 作られた時刻。


 死者に押しつけられた数字。


 そして、人形の目元に残る水滴。


 血の匂いに混じる、古い薔薇香水。


 彼は立ち上がった。


「修復予定の人形がない」


 榊の目が細くなる。


「なぜ分かる」


「依頼書に記載がある。十八世紀末のビスクドール。右腕欠損、左目のガラス交換、胸部の機構修復。槻島は写真を添付していた。棚にない」


 榊は近くの警察官に指示を出した。


「現場写真と照合。屋敷内の捜索リストにも追加しろ」


「はい」


 澪奈が依頼書の端を確認する。


「たしかに、写真が一枚抜かれています。貼り付けてあった痕だけ残っている」


「抜かれたんじゃない」


 クラウディオが言った。


 澪奈が顔を上げる。


「では?」


「急いで剥がした。紙の繊維が片側に残っている。持っていく必要があったんだろうな。その人形が、この場にないことを知られたくなかったのか、あるいは、最初から持ち去るために来たのか」


 榊は黙った。


 クラウディオの言葉は、どれも推測に過ぎない。だが、現場にあるものと矛盾しない。


 彼は死体に近づいた時も、人形を見た時も、すぐに答えを言わなかった。ただ、見ている。死体ではなく、死体の周囲に置かれた意図を。


 それが榊には気に入らなかった。


 有能だからではない。


 現場に対する態度が、あまりにも自分たちと違うからだ。


「ずいぶん詳しいな」


「人形師だからな」


「人形以外にも詳しそうだ」


「死体の見方なら、お前たちの方が詳しいはずだろう」


「そのわりに、あんたは驚かない」


 クラウディオは答えなかった。


 榊は一歩近づく。


「首筋を見せてもらえるか」


 その場にいた者には、唐突に聞こえた。


 クラウディオの瞳だけが、わずかに動いた。


「なぜ」


「死体の傷を見て、あんたは吸血痕ではないとすぐに言った。根拠が経験なら、確認したい」


「令状は?」


「任意だ」


「断る」


 榊がさらに踏み込もうとした時、若い警察官が横からライトを動かした。偶然、光がクラウディオの襟元に触れる。


 白い首筋の奥、黒い襟の影に隠れるように、古い痕が見えかけた。


 歯形にも見える。


 傷跡にも見える。


 だが、確認する前に、クラウディオが襟元を直した。


 動作は優雅だった。乱暴に隠したのではない。癖のように、自然に、しかし誰にも触れさせない速さで。


 榊はその動きを見逃さなかった。


 澪奈もまた、何も言わずに目を伏せた。


「今のは」


「見るな」


 クラウディオの声が、初めてはっきり低くなった。


 死体を見た時よりも。


 防犯カメラの影を見た時よりも。


 自分が疑われた時よりも、ずっと冷たい声だった。


 榊はそれ以上踏み込まなかった。


 踏み込むべきではないと判断したわけではない。ただ、ここで無理に触れれば、この男は本当に何かを変える。そういう圧があった。


 澪奈が沈黙を破った。


「榊さん。血液の簡易検査、追加で出ました。絨毯の暗い部分ですが、血液反応は薄いです。別の成分が混じっています。まだ不明ですが、香料のようなものが反応しています」


「薔薇香水か」


「可能性はあります」


 クラウディオは窓の方へ歩いた。


 開いた窓の外には、濡れた庭が見える。雨はやんでいるが、枝から落ちる雫がまだ小さく鳴っていた。窓枠の内側は乾いている。足跡もない。外から侵入したように見せるには、あまりにも丁寧に開けられた窓だった。


 彼は窓枠に触れず、顔だけを近づけた。


 外の匂い。


 湿った土。


 苔。


 濡れた鉄門。


 その奥に、かすかに薔薇。


 だが、それは庭の匂いではない。人間が肌につける香りだ。古い。甘い。上品だが、どこか腐りかけている。


「この屋敷の者に、薔薇の香水を使う人間は?」


 榊が警察官へ視線をやる。


「家政婦が週三回来ていますが、今日は不在です。確認中です。親族は遠方。今夜屋敷にいたのは被害者だけのはずです」


「はず、か」


 クラウディオが小さく嗤った。


「便利だな。人間は、いないはずの者ほどよく現場に残る」


「詩人ぶるな」


「詩に聞こえたなら、お前の感性の問題だ」


 榊は息を吐いた。


 苛立ちを抑えるには、現場の情報が多すぎる。目の前の人形師は胡散臭い。だが、彼をただ疑うには、現場の証拠は整いすぎている。


 整いすぎた証拠は、時に証拠ではなくなる。


 榊はそれを知っている。


 知っているからこそ、認めたくなかった。


「白石、現場の再確認をする。時計、グラス、窓、人形の水滴、香水、消えた人形。全部別系統で調べろ」


「はい」


「防犯カメラ映像も歩幅と身長推定を出せ。クラウディオの体格とは別に比較する」


「分かりました」


 クラウディオは、面倒そうに肩を落とした。


「ようやく仕事をする気になったか」


「黙っていろ」


「黙っていてほしいなら、もう少しましな疑い方をしろ」


「まだあんたへの疑いが晴れたわけじゃない」


「晴らす気もないんだろう。人形師、黒髪、被害者との取引、吸血痕もどき。疑うには分かりやすい。人間は分かりやすいものが好きだ」


「被害者が死んでいる」


 榊の声が硬くなった。


「人が一人死んでいるんだ。あんたの美学の話じゃない」


 クラウディオは榊を見た。


 その視線には、怒りも嘲りもなかった。


 ただ、底のない疲労のようなものが、一瞬だけ沈んでいた。


「だからだ」


 彼は短く言った。


「だから、雑に決めるな」


 榊は言葉を失った。


 クラウディオはそれ以上言わなかった。言えば、自分の中の別のものまで出てくると知っているようだった。冤罪。断罪。人が群れで誰かを燃やす空気。死体よりも先に罪人を欲しがる眼差し。そういうものに触れたことがある人間の沈黙だった。


 もっとも、この場にいる誰も、その理由を知らない。


 知らないまま、ただ室温だけがまた少し下がった。


 棚の人形の一体が、かすかに軋んだ。


 澪奈が顔を上げる。


「今、何か」


「古い家具だろう」


 警察官の一人がそう言った。言ってから、自分でもその言葉を信じていない顔をした。


 クラウディオは棚を見た。


 ガラスの目が並んでいる。


 人形たちは黙っている。だが、部屋のどこかに、誰かが息を殺しているような気配があった。


 死者ではない。


 生者でもない。


 残された恐怖と、隠された罪と、利用された何かの残響。


 クラウディオはその気配に名前を与えなかった。名前を与えると、くだらない噂になる。吸血死。血を吸う人形。泣く少女人形。人間は名前をつければ理解した気になる。理解できないものを、物語にして安心する。


 だが、これはまだ物語ではない。


 現場だ。


 誰かが人を殺し、誰かに罪を着せようとし、何かを持ち去った。


 そのついでに、古い人形と死者の血と恐怖が、眠っていたものを少しだけ起こした。


 それだけだ。


 それだけで十分に面倒だった。


 榊は無線を取った。


「本庁へ連絡。特殊未解明事件係から追加要請を出す。灰銀のハンターを呼ぶ必要があるかもしれない」


 その言葉に、クラウディオの足が止まった。


 死体にも、防犯カメラにも、警察の疑いにも動じなかった男が、ほんの一瞬だけ動きを止めた。


 澪奈はそれを見た。


 榊も見た。


 クラウディオの指が、ゆっくりと襟元へ触れる。先ほど隠した古い痕を、さらに奥へ押し込めるような仕草だった。


 榊は無線を下ろし、彼を見る。


「知っているのか」


 クラウディオは答えなかった。


 部屋の外では、雨上がりの庭から水滴が落ち続けている。廊下の奥で警察官の足音が遠ざかり、無線の雑音がかすかに揺れた。


 やがて、クラウディオは短く言った。


「好きにしろ」


 声は冷えていた。


 だが、その冷たさの奥には、死体を見た時よりも深い不機嫌があった。


 榊はその違いを聞き取った。聞き取ったが、意味までは分からなかった。


 クラウディオは部屋を出ようとした。


 その時だった。


 棚から落ちた少女人形の目元で、水滴が膨らんだ。


 誰も触れていない。


 窓から雨は入っていない。


 部屋は乾いている。


 それでも、水滴は人形の頬を伝い、顎の先で一瞬止まり、床へ落ちた。


 音は、雨音よりも小さかった。


 澪奈は気づかなかった。


 榊も、無線の返答に気を取られていた。


 クラウディオだけが、その音を聞いた。


 彼は振り返らない。


 ただ、襟元に触れた指に、わずかに力を込めた。


 古時計は十時十三分を指したまま、もう二度と動かないような顔で黙っていた。


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