第9話「裁きの鐘と選んだ道」
私は痛いほどに指を絡めていたアレクシス様の大きな手を、両手でそっと優しく包み込み、そして静かに立ち上がった。
執務室から大広間へ移り、家臣たちが居並ぶ中、重厚な扉が押し開かれた。 冷たい雪風とともに、金糸の刺繍が施された豪奢な礼服を纏う国王特使の一行が進み出てくる。
先頭に立つのは、王太子の信任篤い近衛騎士団副団長だった。 長旅でやつれた顔には、主君の命を帯びた張り詰めた緊張が色濃く刻まれている。
特使はアレクシス様と私の前に進み出ると、恭しく片膝をつき、純白の絹布に載せられた二通の公文書を両手で掲げた。
「国王陛下ならびに王太子ルディガー殿下の名において布告いたします。……セリア・オルディス様。こちらが、王家からの公式謝罪親書、ならびにエリック殿下の廃嫡・弾劾審問への証人召喚状にございます」
大広間を満たす家臣たちの間に、鋭い緊張が走る。 特使は喉を鳴らし、広間に響き渡る声で親書の文面を読み上げた。
「――此度の婚約破棄は、第二王子エリックの独断と虚偽の冤罪工作による不法行為であったと公式に認定する。なお、ヴォルフガング辺境伯家との婚姻は、両家の合意に基づく有効なものとして、王家はこれを追認する。セリア嬢に対する毒殺未遂の嫌疑は完全に晴らされ、オルディス公爵家への名誉も全面的に回復された。……よって王家は、セリア嬢の公爵令嬢としての身分を即時回復し、王都への帰還を要請する。内廷筆頭補佐官としての地位を保障し、王家の威信回復と国家財政の再建に、その比類なき叡智を貸し与えていただきたい――」
広間が静まり返った。 完全なる雪冤。 理不尽に泥を塗られた少女の名誉が、国家の最高権力によって完璧に回復された瞬間だった。
隣に立つアレクシス様の身体が、強張るのが分かった。
彼の灰青色の瞳は、まるで運命の宣告を待つ罪人のように、痛々しく私を見つめている。
公爵家への復籍。王都への華々しい凱旋。 国家の財政を握る筆頭補佐官という、女性貴族としては前代未聞の栄達。
常人であれば、涙を流して歓喜し、北の極寒の地を捨てて飛びつくだろう条件だった。
だが、私の心には、一片の迷いも、揺らぎもなかった。
「特使殿」
私は一歩前に進み出た。 かつて王宮の夜会で、屈辱を投げつけられた時と同じ、完璧な淑女のカーテシーを捧げる。 そして、顔を上げた。
私の唇には、あの夜会と同じ――いいえ、それよりも遥かに晴れやかで、満ち足りた微笑みが浮かんでいた。
「国王陛下ならびに王太子殿下の真摯なるお言葉、謹んで拝受いたしました。私の無実を明らかにしてくださったこと、心より感謝申し上げます」
「おお……! では、王都へ戻っていただけるのですな!」
安堵の表情を浮かべる特使に対し、私は静かに首を横に振った。
「いいえ。王都への復帰ならびに公爵令嬢としての復籍、すべて辞退申し上げます」 「なっ……!?」
特使が絶句し、目を見開いた。 広間にいた北方城の家臣たちも、信じられないものを見るように息を呑む。
「セ、セリア様、なぜです!? 王家は貴女様の手腕を心から必要としているのです! エリック殿下が破綻させた直轄領の財政は壊滅状態にあり、隣国との通商条約の再建も、貴女様のお力なくしては成り立ちませぬ! どうか、王都をお救いください!」
特使は床に額を擦り付けるようにして懇願した。 かつて私を不要な道具として追い出した王宮が、今や私の知恵を求めて平伏している。
だが、その哀訴を聞いても、私の心に未練の欠片すら湧き上がらなかった。
「あの夜会の場で、私は申し上げました。『私の役目は終了しました』と」
凛とした声が、大広間の空気を震わせる。
「私は幼少より、王妃となるための義務を果たし、王家の財政を支え続けてまいりました。家門のため、国のために、私という個人の意志など押し殺して生きてきたのです。けれど、あの婚約破棄に同意した瞬間、私と王家との契約は完全に終了いたしました」
特使が息を詰まらせる。
「今の私には、守るべき大切な工房があります。共に炎を囲み、ガラスの美しさに目を輝かせてくれる職人や領民たちがおります。……何より」
私は振り返り、息を呑んで立ち尽くすアレクシス様を見つめた。
出会った当初の警戒を解き、不器用ながらも温かく、全身全霊で私を守り抜いてくれた、私のたった一人の旦那様。
私は彼の元へと歩み寄り、その逞しい腕に自らの両手を重ねた。
「私は、ヴォルフガング辺境伯夫人です。アレクシス様の妻として、この北の地で生涯を共にする道を選びました。この決意が変わることは、未来永劫ございません」
言い切った瞬間だった。
「セリア……ッ!」
アレクシス様が掠れた叫びとともに、力強く私を引き寄せた。
特使の目の前、城の全家臣が見守る衆目の前であることも構わず、彼は私の身体を自らの胸の中へと閉じ込めた。
その抱擁はあまりにも激しく、そして愛しさに震えていた。
「アレクシス、様……」 「二度と、離さない……。俺のすべてを賭けて、生涯お前を守り抜く……!」
アレクシス様は私の顎をそっと持ち上げると、至上の宝物を慈しむように、私の額へと熱い口づけを落とした。 大広間に、雷鳴のような歓声と拍手が沸き起こる。
職人たちや兵士たちが拳を突き上げ、老執事のバルトが感涙に咽びながら胸元で十字を切っていた。
かつて冷遇され、悪名を着せられて追放された少女が、己の意志で過去を完璧に切り捨て、真の愛と居場所を選び取った。
胸を焦がすような誇らしさと、眩いほどの爽快感が、私の全身を満たしていた。
「ただし、エリック殿下の審問には、書面にて証言いたします」
私は用意していた書面に署名し、特使へ差し出した。
「事実のみを記した宣誓書です。どうぞお持ち帰りください」
◇
セリアの毅然たる拒絶と宣誓書を携え、特使が王都へと戻った数日後。
王都の大聖堂にて、歴史上類を見ない公開弾劾裁判が開かれ、厳粛な裁きの鐘が重々しく鳴り響いた。
法廷の中央には、泥に塗れた囚人服を着せられ、屈強な近衛兵に両脇を固められたエリックとマリアの姿があった。
玉座に座る国王陛下と王太子ルディガーの冷徹な眼差しの下、下された判決は極めて苛烈なものだった。
「……元第二王子エリックは、王位継承権の永久剥奪ならびに平民への降格、王室領最南端の絶海の孤島への終身労働刑に処す! また、男爵令嬢マリアは貴族籍剥奪、生家ノエル家の改易、王室修道院への終身収監を命じる!」
宣告が下された瞬間、法廷にエリックの絶望的な絶叫が響き渡った。
「嘘だ! 僕は王子だぞ! こんな不毛な島で石を運ぶなど耐えられるはずがない! セリア、セリアを呼べ! セリアなら僕を助けてくれるはずだあああッ!」
マリアもまた「髪を剃られるなんて嫌! 宝石を返して!」と金切り声を上げて床を転げ回ったが、兵士たちの冷たい長靴によって容赦なく引きずり出されていった。
大聖堂の外では、二人の失脚とセリアの雪冤を知った市民たちの歓声が、鳴り響く鐘の音と共に王都の空へと轟いていた。




