第8話「崩壊する虚飾」
ドゴォン! と、雷鳴のような轟音が王宮謁見の間の大理石の床を震わせた。
分厚い羊皮紙の決算帳簿の束が、激しい怒気とともに玉座の階段下へと叩きつけられ、派手に散らばる。
「言い逃れができると思うてか、エリック!」
王宮中に響き渡る怒号の主は、病床から親政へ復帰した国王陛下その人だった。
帰還したオルディス公爵が、握り潰された書簡の件を直訴したことが、復帰の契機となったという。
病み上がりとは思えぬ覇気を放つ国王の傍らには、外交折衝を完璧にまとめ上げて帰還した正統後継者――王太子ルディガーが、氷点下の眼光で弟を見下ろしている。
玉座の前で平伏していたエリックは、床に散乱した数字の山を見つめ、青ざめた唇をわななかせていた。
「ち、父上……これは、その……一時的な手違いでして……!」
「手違いだと!? 近隣国との通商条約の違約金、破綻した内廷財政、そして焦げ付いた数万枚の金貨! 貴様がこの数ヶ月で垂れ流した損害の総額を、一体いくらだと思っている!」
王太子ルディガーが一歩前に歩み出た。 その手には、王太子直属監査局によって徹底的に洗い出された証拠書類の数々が握られていた。
「エリック。お前がセリア嬢を追放した夜会以降、内廷の実務は完全に停止していたそうだな。……いや、停止していただけではない。セリア嬢が心血を注いで維持していた健全な財政を、お前と取り巻きの無能どもが食い潰したのだ」
「あ、兄上……!」
「黙れ! お前が預かっていた国王代理委任印を濫用し、公爵宛ての書簡を検閲・破棄して孤立させたことも、セリア嬢に男爵令嬢への毒殺未遂という濡れ衣を着せた狂言も、すべて監査局の調べで白日の下に晒されたぞ!」
ルディガーの手から、さらにもう一枚の紙片が投げ捨てられた。 エリックが北方領へ送りつけた、セリアの私財没収と工房特許の強奪を命じる脅迫状の控えだった。
「辺境伯領の自治特権を無視し、私信で脅迫状を送りつけるなど、正気の沙汰ではない。ヴォルフガング卿からの通達が届いて、ようやく私たちは事態を知ったのだ。近隣諸国に王室の不義理が知れ渡る前に止められたのは、卿の通達あってのことだぞ!」
退路を完全に断たれたエリックは、額を床に擦り付けながら震え上がった。 自分が無能を誤魔化すために積み上げた嘘と虚飾が、一枚ずつ剥ぎ取られていく。
「ち、違う……僕じゃない! マリアだ! すべてマリア・ノエルが僕を唆したのです! あいつがセリアに苛められたと泣きついて、贅沢なドレスや宝石を強請り……僕を騙したんだ!」
都合が悪くなれば、溺愛していたはずの愛人を即座に生贄に差し出す。 その浅ましい叫びに、居並ぶ重臣たちから軽蔑の吐息が漏れた。
◇
その頃、王宮の裏門近くの通用口では、泥塗れの惨劇が繰り広げられていた。
宮廷の破綻をいち早く察知し、内廷金庫から盗み出した宝石や金貨を革袋に詰め込んで逃亡を図ったマリアは、待ち構えていた近衛兵たちに両脇を荒々しく組み伏せられていた。
「離しなさいよ! 私は未来の王妃よ!」と狂乱して暴れるマリアだったが、衛兵に容赦なく足払いをかけられ、冷たい雨水が溜まった泥水の中へ顔面から突っ伏した。
自慢のドレスも、塗りたくった化粧も泥まみれになり、宝飾品を撒き散らしながら「誰か助けてええ!」と泣き叫ぶマリアに、通行人の冷笑が容赦なく降り注ぐ。
◇
「見苦しいぞ、エリック!」
謁見の間に再び響いた国王の叱責が、エリックの弁明を粉々に粉砕した。
「マリア・ノエルが内廷公金を横領していた証拠はすでに押収した。……だが、その横領を許し、甘言に乗って国家の柱石たるオルディス公爵令嬢を冤罪で追放した罪は、すべてお前自身の無能と傲慢によるものだ!」
国王は玉座から立ち上がり、近衛兵たちへ冷徹に命じた。
「第二王子エリックの全公務権限を即時剥奪! 王族としての特権を停止し、王宮地下の特別監禁室へ連行しろ! 内務省の息のかかった側近官僚どもも一人残らず拘束し、徹底的に尋問せよ!」
「父上! 父上、お許しを! 兄上、助けてください、あああああッ!」
泣き叫び、床に爪を立てて抵抗するエリックの身体は、筋骨隆々たる近衛兵たちによって無慈悲に引きずられていった。
大広間に残されたのは、重苦しい静寂と、崩壊した王室財政という冷厳な現実だけだった。
「ルディガー」 「はっ、父上」 「我が王家は、取り返しのつかぬ過ちを犯した。……国家の至宝たる才女を冤罪で貶め、寒冷の地に追いやったのだ」
国王は深い痛恨を瞳に滲ませ、王太子の肩に手を置いた。
「直ちに特使を編成せよ。王家の公式謝罪を記した余の親書を携えさせ、セリア嬢へ届けるのだ。……公爵家への復籍と、王都への帰還を懇願せねばならん。彼女の知恵と手腕なくして、この国の再建はあり得ぬ」
「承知いたしました。私の直属騎馬隊より、選りすぐりの特使を向かわせます」
王太子ルディガーが深く一礼し、踵を返した。 王家の威信をかけた特使の騎馬隊が、猛烈な勢いで王都の門を飛び出していった。
◇
それから数日後。 分厚い雲に覆われた、北方ヴォルフガング城の城主執務室。
工房での作業を終え、新春に向けたガラスの検品報告書をまとめていた私は、執務室の扉がノックもなしに荒々しく開かれた音に顔を上げた。
飛び込んできたのは、息を切らした伝令兵だった。
「閣下! 南の関所より緊急の狼煙が上がりました! 国王陛下の直属国章を掲げた特使の騎馬隊が、猛吹雪の峠を強行突破し、本城へと急行中とのことです!」
執務机の前にいた財務官のホルストが「国王特使だと!?」と声を上擦らせた。
私は静かに羽ペンを置いた。
王都の内廷が破綻し、査察官が追い返された後、エリック殿下の背後にいた真の権力者――国王陛下や王太子殿下が動き出したのだと直感した。
「……セリア」
低く、掠れた声が部屋に響いた。 振り返ると、そこに立っていたアレクシス卿の顔は、かつて見たことがないほどに青ざめていた。
戦場にあって何千の敵を前にしても眉一つ動かさぬ武将が、まるで自らの心臓を抉り取られそうなほどの恐怖に瞳を揺らしている。
「閣下……?」 「……連れ戻しに来たのだ」
アレクシス卿は大股で私に歩み寄ると、私の前に膝をつくようにして視線を合わせてきた。
彼の大きな手が伸びてきて、私の右手を、細い指先を、痛いほどに強く握りしめてくる。
骨が軋むほどの力。 伝わってくるのは、彼が抱く絶望的な焦燥だった。
「王都の連中が……お前の真の価値に気づいたのだ。冤罪を晴らし、手腕を買い、王都の宮廷へ連れ戻そうとしている」
アレクシス卿の灰青色の瞳が、哀願するように私を見つめていた。 唇が細かく震えている。
「お前にとって、この雪に閉ざされた辺境の城など、退屈で過酷な流刑地でしかなかったはずだ。王都へ戻れば、公爵令嬢としての栄華も、暖かな気候も、すべてが手に入る。……だが、俺は……」
言葉に詰まり、アレクシス卿は私の手を自らの額に押し当てた。 絞り出すような、掠れた祈りのような声が漏れる。
「行くな、セリア……。俺から、光を奪わないでくれ……」
不器用で、口下手で、いつだって行動でしか愛を示せなかった北の守護卿が、いまや私の前で崩れ落ちそうになっていた。
痛いほどに握られた指先から、彼の熱い体温と、剥き出しの思慕が胸の奥へと雪崩れ込んでくる。
私の心臓が、切なさと愛しさで激しく脈打った。
私はもう片方の手をそっと重ね、彼の冷えた黒髪を優しく撫でようとした。
その時――。
ゴオオオオッと唸りを上げる猛吹雪を切り裂き、城下の外郭門から、警戒を告げる甲高い警笛の音が吹き荒れる風に乗って響き渡った。
国王特使の騎馬隊が、雪煙を巻き上げながら、ヴォルフガング城の城門へと雪崩れ込んできていた。




