第10話「私の役目は終了しましたので!」
(春の風って、こんなにも柔らかだったかしら――)
大工房のテラスから遠くの山並みを見つめながら、私は心の中でそっと呟いた。
あれほど厳しく領地を閉ざしていた吹雪はすっかり鳴りを潜め、屋根に積もった雪がぽたぽたと音を立てて雫を落としている。
陽光は暖かく、凍てついていた大地からは、微かに芽吹いた土と若草の匂いが立ち上っていた。
王都から届いた公文書によって、一連の騒動の完全な終息が告げられていた。
国王陛下による親政が再開され、王太子ルディガー殿下の指揮のもと、破綻しかけていた国家財政はオルディス公爵家の全面協力によって再建への道を歩み始めているという。
私の実家である公爵家もまた、王室からの公式な謝罪と、没収されたノエル家の財産を原資とした賠償を受け、その名誉を揺るぎないものとしていた。
かつて私を縛り付けていた冷たい鎖は、もうどこにも存在しなかった。
◇
王都の官報が伝えた刑の執行記録には、断罪された者たちの末路が淡々と記されていた。
王位を剥奪され平民へと落とされたエリックは、南の最果てにある絶海の孤島で、容赦ない灼熱の太陽の下、泥と汗にまみれて重い採石を運ぶ過酷な労働に明け暮れていた。かつての甘美な容姿は見る影もなくやつれ果て、監視兵の鞭に怯える日々を送っている。
一方、マリアは王室修道院へと護送され、美しい金髪を切り落とされ、粗末な麻袋のような僧衣を着て、凍てつく石床を這いつくばりながら冷水で雑巾がけを繰り返す贖罪の日々を強いられていた。
不貞と虚偽で栄華を掴もうとした者たちの虚飾は、完全に潰え去ったのだ。 ノエル男爵家は家名断絶、全財産を没収のうえ、男爵は鉱山での強制労役に送られた。
査察官をはじめエリックの側近官僚たちも、官職を剥奪され、不正蓄財への追徴課税で破産したと記されていた。
◇
「セリア様! 準備が整いました!」
大工房の中から、見習い少女のリーナの弾んだ声が響いた。 私は振り返り、テラスから工房の中へと足を踏み入れた。
そこには、正装した城の家臣たちや、工房で働く数百名の職人、そして城下から集まった領民たちの笑顔が溢れていた。
中央の台座には、真紅の天鵞絨の布が敷かれている。
隣に立つアレクシス様が、私へと優しく頷きかけた。
黒漆の礼装を纏った彼は、出会った頃の近寄りがたい冷気など微塵も感じさせず、ただ誇らしげに私の手を取ってくれる。
私は微笑み返し、台座に掛けられていた覆いの布をそっと引いた。
「わああっ……!」
居並ぶ人々から、一斉に感嘆の息が漏れた。
台座の上に現れたのは、春の陽光を浴びて虹色に輝く、手のひらサイズの香水瓶だった。
灰汁清澄法で極限まで透明度を高めた薄肉ガラスの肌に、型吹きで雪の結晶の浮き彫りが施されている。
瓶の中を満たすのは、雪解けの薬草園から採取したばかりのミント、ラベンダー、そして白樺の新芽から蒸留した淡い青露の香油。
北の冬の清らかさと、春の息吹を閉じ込めた至高の逸品――「雪華ガラスの香水瓶」。
「これこそが、我が領の新しい誇りとなる特産品だ」
アレクシス様の凛とした低音が、静まり返った工房に響き渡った。
「かつて不毛の地と蔑まれたこの北の地が、セリアの手によって光を得た。このガラスと香油は、近隣国との交易を通じて、我が領の民すべてを豊かに潤すだろう。……すべては、我が妻セリアの知恵と、ここにいる職人たちの情熱の賜物だ」
アレクシス様の言葉が終わるや否や、工房の屋根を吹き飛ばすほどの割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
職人たちが涙を拭いながら拍手を送り、子どもたちが花束を掲げて駆け寄ってくる。
かつて王宮の夜会で浴びせられた冷笑や嘲弄は遠い過去となり、今、私の全身を包んでいるのは、領民たちからの惜しみない祝福と敬愛だった。
人の温もりに胸が詰まり、目頭が熱くなる。 私が前世の記憶を頼りに灯した小さな炎が、こんなにも多くの人々の明日を照らし出している。
ものづくりに生きて本当によかった――職人としての純粋な喜びと達成感が、心を満たしていた。
その時、アレクシス様が私の前に立ち、ゆっくりと右膝をついた。
「閣、下……?」
周囲の歓声がピタリと止み、息を呑む静寂が訪れる。 アレクシス様は懐から、小さな小箱を取り出した。
開かれた箱の中に収まっていたのは、鈍い白銀の光を放つ白金のリングだった。
その中央には、澄み切ったガラスの小粒が宝石のように埋め込まれ、光を浴びて繊細に煌めいている。
「……俺の生涯の伴侶として、どうかこれを受け取ってほしい」
アレクシス様の灰青色の瞳が、熱い真情をたたえて私を映し出していた。
「お前がこの北の地を愛し、民を愛してくれたように、俺はお前のすべてを愛している。喜怒哀楽のすべてを、これからの人生のすべてを、俺に預けてくれないか」
不器用で、飾らない、魂からの求婚。 喉の奥が震え、自然と涙が零れ落ちそうになる。 私は震える左手を、彼の前へと差し出した。
「喜んで……お受けいたします、アレクシス様」
アレクシス様は感極まったように息を吐き出すと、私の薬指へと、白金の指輪を滑り込ませた。
指先を包むひんやりとした金属の重みと、そこに込められた底知れぬ愛の深さ。
再び工房を揺るがす大歓声が上がり、天井から春の花びらが舞い散った。
◇
その夜、城中が祝祭の喜びに沸き立つ中。 私たちは喧騒を抜け出し、工房の奥にある静かなテラスへと出ていた。
夜空には、あの追放された夜と同じ、息を呑むほどに美しい満天の星々が瞬いている。
けれど、あの時と違って、今の私の隣には体温を分け合える唯一無二の伴侶がいた。
「寒くはないか」 「ええ。アレクシス様が隣にいてくださいますから」
微笑んで見上げると、アレクシス様は愛おしげに目を細め、私の腰を引き寄せた。 背中に回された逞しい腕の力強さと、触れ合う胸の温もり。
彼は私の髪に指を絡め、額、鼻先、そして――微熱を帯びた私の唇へと、深く、優しい口づけを落とした。
甘く、痺れるような口づけ。 夜風の冷たさを完全に忘れさせるほどに、互いの呼吸と熱が溶け合っていく。
アレクシス様はゆっくりと唇を離すと、額を私の額へと重ね、掠れた声で囁いた。
「愛している、セリア。お前こそが、俺の凍てついていた魂を溶かしてくれた、たった一つの光だ」
「私も愛しております、アレクシス様。貴方に出会えて……この北の地に導かれて、本当に幸せです」
二人で見つめ合い、自然と笑みがこぼれ落ちる。 かつて私を不要な道具として捨て去った傲慢な王子と、虚飾に塗れた王宮へ。
もし今、彼らがどこかで私を見ているのなら、胸を張って、心からの感謝を込めて告げてあげたい。
――はい、私の役目は終了しましたので、どうぞお幸せに!
澄み切った星空の下、世界で一番幸福な笑顔を浮かべた私は、大好きな夫の胸の中へと、迷うことなく飛び込んだ。
(完)
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