第6話「不遜な脅迫状」
王都から北方ヴォルフガング領へ至る街道網を、駅逓の早馬が駆け抜けるには、最短でも丸五日を要する。
私が王都の夜会で婚約を破棄され、この凍てつく北の要塞へと送られてから、ちょうど一月が過ぎようとしていた。
吹雪の合間に覗く青空の下、大広間の分厚いオーク材の扉が軋んだ音を立てて開く。 入ってきたのは、雪塗れの外套を羽織った王宮内務省の伝令官だった。
「第二王子エリック殿下より、ヴォルフガング辺境伯、ならびにセリア・オルディスへ直々の親書である!」
伝令官は、威圧的な態度で羊皮紙の巻物を差し出した。 暖炉を背にして執務机に腰掛けていたアレクシス卿は、ぴくりとも動かず、ただ氷のような眼光で男を見据える。
老執事のバルトが慇懃無礼な手つきでそれを受け取り、アレクシス卿の机の上へと置いた。
巻物には、見覚えのある朱色の蝋封が施されていた。 王家の正規の国璽ではない。病臥中の国王陛下から預託された、内廷管理用の代理委任印の印影だ。
「……読め、セリア」
アレクシス卿の短い促しを受け、私は机の前へと進み出た。 銀のペーパーナイフで蝋を割り、羊皮紙を広げる。
そこに並んでいたのは、乱暴で尊大な、エリック殿下独特の悪筆だった。
――罪人セリア・オルディスが王都を去る際、実家より持ち出したとされる私財および宝飾品は、すべて王室への損害賠償として没収の対象である。直ちにこれらを内廷へ引き渡すこと。
――また、北方領にてセリアが密かに試作したとされる透明ガラス器、ならびに特製香油の製法および現物は、王家の財産に帰属する。直ちに全量を王都へ献上せよ。
――これに従わぬ場合、ヴォルフガング辺境伯家に対しても、国家秩序を乱す反逆への加担とみなし、相応の処分を下すものとする。
北へ向かう行商人の噂話が、駅逓を通じて王都に届いたのだろう。 あまりにも稚拙で、理不尽極まりない要求だった。
持参を許されたわずかな私財すら奪おうとし、あげくこの北の地で職人たちと血の滲むような工夫を重ねて生み出したガラスと香油を、無償で強奪しようというのだ。
羊皮紙を覗き込んだ財務官のホルストが、怒りのあまり顔を真っ赤にして叫んだ。
「な、なんという無礼な……! 奥様がこの地で生み出された至宝を、なぜ王都の内廷などに差し出さねばならぬのだ! しかも、我が辺境伯家を反逆者呼ばわりするとは!」
大広間に控えていた家臣たちの間にも、殺気が満ちる。 だが、私は怒りに囚われることなく、書面の日付と押印、そして文言の端々に至るまで冷静に目を走らせていた。
「セリア、どう見る」
アレクシス卿が低く問いかけてくる。 私は羊皮紙を静かに机へと戻し、落ち着いた声で口を開いた。
「この書簡は、国家の公文書としての法的効力を一切持たない、単なる私信同然の脅迫状にございます」 「……続けろ」
「正規の王室布告書であれば、枢密院の副署と国璽の押印が必須となります。しかし、ここにあるのは殿下が預かる内廷の管理印のみ。さらに、私の私財没収の根拠となる法令条項も記されておりません。これは王命ではなく、エリック殿下の独断による越権行為です」
私が迷いなく断言すると、伝令官が狼狽したように声を荒らげた。
「き、貴様、王子殿下の親書を不法と侮辱する気か! 反逆罪で――」 「反逆罪を口にする前に、内廷の財政状況を心配なさってはいかがですか」
私の静かな一言に、伝令官が言葉を詰まらせた。
「この書簡が急送された理由……それは、内廷官房の金庫がすでに破綻寸前まで追い込まれているからに他なりません」
いま王都がどうなっているか、目に浮かぶようだった。
「私が王都を離れたことで、滞留していた直轄領会計の未決書類は数十通に及んでいたはずです。さらに先月、隣国との通商条約の更新期日が迫っておりました。……エリック殿下は条文を精査することなく承認印を押されたのでしょう。あの条約附款には、関税免除の撤廃と、更新の遅延に対する莫大な違約金条項が含まれておりました」
私がかつて、近隣国の使節と激しい折衝を重ねて先送りにしてきた罠。 それを、実務能力のないエリック殿下が自ら踏み抜いたのだ。
「違約金の支払期日は今月のはずです。内廷の年間予算を遥かに超える額を即座に工面できず、窮地に陥った殿下は、私の私財を巻き上げ、北方で話題になり始めたガラス製品を高値で転売して穴埋めしようとなさっているのです」
すべてが一本の線で繋がった。 エリック殿下の身勝手な焦燥と、浅ましい金策の正体を暴き立てられ、伝令官は青ざめて一歩後ずさった。
アレクシス卿は、机の上に置かれた羊皮紙を乱暴に鷲掴みにした。 その灰青色の瞳に宿ったのは、軽蔑と、絶対的な怒りだった。
「……無能な放蕩王子が、我が領地に泥を塗る気か」
アレクシス卿は立ち上がり、大股で大広間の暖炉へと歩み寄った。 そして、伝令官の目の前で、ためらうことなくその羊皮紙を燃え盛る薪の炎の中へと投げ入れた。
「ひっ……!? な、何をなさるのですか、閣下!?」 「伝令、貴様の主へ持ち帰る言葉を授けてやる」
パチパチと音を立てて灰になっていく脅迫状を見下ろしながら、アレクシス卿は冷徹に言い放った。
「我がヴォルフガング家は、建国以来の不可侵特権たる領地自治権を有している。正当な国璽なき私信命令に従う義務は毛頭ない。……それから、ホルスト」 「はっ!」
「今この瞬間をもって、我が領から王都の内廷官房へ納めている年貢、ならびに一切の特例送金を即時凍結しろ。一枚の銀貨たりとも王都へ渡すな」
即時凍結。 それは、ただでさえ干上がっている内廷の息の根を止める、致命的な反撃だった。
伝令官は恐怖に震え上がり、悲鳴のような声を残して大広間から逃げ出していった。
◇
数日後の王都、内廷執務室。 血相を変えて飛び込んできた内廷財務官が、震える手で破産の告知書を突きつけた。
「殿下! 通商条約の違約金の支払期日は、すでに過ぎております! さらに北方領からの送金も完全に止まり……内廷の金庫は底をつきました! 破産です!」
「なっ……破産だと!? 嘘だ、僕が、この僕が破産などするはずが――!」
叫んだ瞬間、エリックの視界が真っ暗に染まり、床へと無様に卒倒した。
◇
大広間から人が引き、パチパチと暖炉が爆ぜる音だけが残された。 私は暖炉の前で立ち尽くし、炎の中で黒い灰へと還っていく羊皮紙を見つめていた。
冷静に対処したつもりだった。 けれど、あの王宮で何年も私を縛り付け、理不尽に利用し尽くそうとしたエリック殿下の執拗な悪意。
もし王都にいたままだったら、今頃は全責任を押し付けられ、地下牢に投獄されていたかもしれない。
公爵家への累を避けるために選んだ道とはいえ、過去の冷たい記憶が胸を掠め、指先が微かに震えていた。
その時だった。
ふわりと、厚手の毛皮の温もりが私の肩を包み込んだ。 強い力で引き寄せられ、私はアレクシス卿の硬く逞しい胸の中へと抱き止められていた。
「……閣、下?」 「震えている」
頭上から降ってきたのは、低く、痛むような響きを帯びた声だった。
彼の腕が私の背中へと回り、壊れ物を抱きしめるかのように、けれど決して逃がさない強さで力を込めてくる。
ドクン、ドクンと、彼の規則正しい力強い心音と、鍛え上げられた身体の熱が、衣服越しに伝わってくる。 鼻腔を満たすのは、冷たい針葉樹と、彼特有の清々しい匂い。
「お前はもう、王都の道具ではない。あいつらに搾取される筋合いなど、爪の先ほどもない」
アレクシス卿は私の肩に額を寄せるようにして、掠れた声で囁いた。 その声音には、北方守護卿としての威厳と、一人の男としての剥き出しの独占欲が滲み出ていた。
「お前は俺の妻だ。このヴォルフガングの女主人だ。……誰一人として、お前に指一本触れさせはしない」
強く、深く、抱きしめられる。 私を冷酷に切り捨てた世界から、この屈強な旦那様が、己の全身を盾にして護ってくれている。
凍えていた心の奥底が、甘い熱で満たされていくのを感じた。
「……はい、アレクシス様」
私がそっと身を預けると、彼は私を優しく解放し、鋭い眼光を取り戻して家臣たちへ下命した。
「城門の防衛兵力を倍増させろ。外郭の物見櫓には弓兵を常駐させ、関所の検問を最厳重レベルへ引き上げろ。王都からの怪しい間諜は、領界に入った瞬間に拘束しろ。……全領地に完全防衛態勢を布け!」
北の巨城が、一人の愛しい女性を守るため、堅牢な防壁を張り巡らせていった。




