第5話「透きとおる奇跡」
「これが本当に、あの濁ったガラス屑から作られたのか?」
低く震えるアレクシス卿の声が、静まり返った工房に響き渡った。 彼の灰青色の瞳は、作業台の中央に置かれた一つの器に釘付けになっていた。
午後の陽光が工房の窓から斜めに差し込み、その器を神々しいまでに照らし出している。 光を遮るものは何もない。
北方領で誰もが見慣れていた、あの緑黒く濁り、大小の気泡と鉱滓が混ざり合った無骨で重いガラスの姿は、そこには微塵もなかった。
陽光を浴びて青白い光彩を放つ、掌大の小瓶。 まるで磨き抜かれた春の氷を削り出したかのように、向こう側の景色を歪みなく透かし通している。
指先で弾けば澄んだ金属音を奏でそうなほどに薄く、均一に吹き上げられたガラスの肌は、滑らかな曲線を描いて陽の光を乱反射させていた。
「ええ。木灰の灰汁で融点を下げ、鉱滓を取り除き、炎の温度を上げたことで、ガラス本来の透明度を引き出せました」
私は煤で汚れた作業用のエプロンを外し、満足のいく仕上がりに胸を撫で下ろした。
昨夜からの作業は、決して容易なものではなかった。 千百度近くまで昇温させた耐火窯の坩堝から、鉄の吹き竿の先端で赤熱したガラス種を巻き取る。
水飴のように柔らかく垂れ下がろうとする灼熱の塊を、手首を絶え間なく回転させながら成形板の上で転がし、均等な丸みを作っていく。
わずかでも回転を止めれば、重力で偏りが生じて厚みが不均一になる。 息を吹き込む瞬間は、肺活量ではなく繊細な圧力の加減がすべてを決する。
強すぎれば破裂し、弱すぎればガラスが冷えて固まってしまう。
息を吹き込みながら木製のコテで形を整え、ポンテ竿へと付け替えて開口部を広げる――その一連の動作には、前世の職人としての身体感覚が完璧に甦っていた。
成形を終えた後も、急冷による割れを防ぐため、温度を落とした徐冷用の小窯で半日かけてゆっくりと冷まし抜いた。
そうして生まれたのが、この透き通るような薄肉のガラス瓶だった。
「信じられん……」
口を開けたまま立ち尽くしていた窯番の老職人が、恐る恐る膝をつき、震える手で瓶を見上げた。
「王都の豪商が法外な金貨を積んで南の海を渡らせる、あの異国の最高級ガラス器ですら、ここまで清らかに光を通しはしねえ……。それを、俺たちがゴミとして捨て置いたカレットから作り出しちまうなんて……!」
「ああ。傷一つない。まるで、妖精の涙が凍りついたかのようだ」
難色を示していた財務官のホルストもまた、丸眼鏡を指で押し上げ、陶酔したように呟いた。
粗悪な鉱滓混じりの分厚いコップしか知らなかった北方の職人たちにとって、目の前にある極上の薄肉ガラスは、まさに奇跡の結晶そのものだった。
◇
北の地に純白の奇跡が生まれたその頃、王都の大広間では醜態が晒されていた。
エリックの同伴者として公式夜会に出席していたマリアは、身の丈に合わない過剰なフリルと宝石を散りばめたドレスの裾を踏みつけ、グラスが並ぶテーブルの前で無様に転倒したのだ。
胸元が大きく着崩れ、ぶちまけた葡萄酒でドレスを赤黒く濡らしたマリアを、貴婦人たちは扇で口元を隠しながら「礼法も歩き方も知らぬ無作法な男爵令嬢」「前任のセリア様とは雲泥の差ですこと」と冷笑し、誰一人手を差し伸べようとはしなかった。
◇
そんな王都の虚飾の失墜など知る由もない北方城の工房で、アレクシス卿はゆっくりと歩み寄り、慎重に指先を伸ばしてガラス瓶の縁に触れた。
壊れ物を扱うように繊細な手つきだった。 彼はそのまま視線を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「セリア」 「はい、閣下」 「お前は……なぜこれほどの技術を持ちながら、王都であのような言われようをされていたのだ」
彼の瞳から、出会った当初の冷たい警戒心は完全に消え去っていた。 そこにあるのは、深い困惑と、己の不明を悔いるかのような痛みだ。
この一月、彼女は離宮から一通の手紙も出さず、工房にこもって炎と向き合い続けていた。密偵の動きなど、どこにも見当たらなかったのだ。
炎の熱気に晒されながら一晩中吹き竿を握り続け、指先に火傷の跡を作りながら、ただ純粋により良いものを作ろうと微笑む少女。
そんな人間が、身勝手な嫉妬から男爵令嬢に毒を盛り、精神的な迫害を加えるなどという悪評の数々。
二つの像が重なり合うはずがなかった。
「技術や知識は、使う場所と見る人の心によって価値が変わるものにございます。王都の夜会では、ガラスの透明度など何の役にも立ちませんでしたから」 「……」
アレクシス卿は息を詰まらせ、拳を固く握りしめた。 そして、工房の入り口で直立不動の姿勢を取っていた護衛兵たちへ、鋭い視線を向けた。
「おい」 「はっ!」
「今この瞬間をもって、離宮への監視任務を解く。セリアに対する一切の行動制限を撤廃する。これ以降、彼女は城内および領内を自由に移動してよい。……それから、本館の者たちに伝えろ。セリア様を侮るような態度を取る者は、俺への反逆とみなすと」
威厳に満ちた、揺るぎない命令だった。 護衛兵たちは一糸乱れぬ敬礼を返し、即座に工房の外へと引き揚げていった。
軟禁の完全な解除。 それは単に自由を得たというだけでなく、この冷徹な城主が、私という人間を心から信じ、受け入れてくれたことの証だった。
胸の奥に、じんわりと温かい安心感が広がっていく。
「ありがとうございます、アレクシス卿」
私が深々と礼を執ると、アレクシス卿は何か言いたげに口元を引き結んだ。 そして、私の右腕をそっと引き寄せた。
「あ……」
革手袋を外した私の掌は、耐火煉瓦の粉で白く汚れ、熱気と乾燥によって皮膚が赤く荒れていた。
右手の親指の付け根には、吹き竿の摩擦でできた小さな豆が潰れ、痛々しく赤みを帯びている。
アレクシス卿は眉を痛ましげに寄せると、自らの懐から小さな角製の容器を取り出した。 彼が軍用として携行している、特製の蜜蝋油だ。
彼は私の手を自らの両手で優しく包み込むと、温めた油を指先に取り、私の荒れた掌へとゆっくりと塗り伸ばし始めた。
鍛え抜かれた騎士の大きな手。 剣ダコのある硬い指先が、信じられないほど柔らかな手つきで、私の傷口を労わるように滑っていく。
伝わってくる強い熱に、私の指先が微かに震えた。
「閣下……私のような者の手など、ご自身でお手入れなさる必要は――」
身を引こうとした私の手首を、彼の指がそっと、だが離さない強さで引き止めた。 驚いて顔を上げる。
アレクシス卿は視線を逸らさず、至近距離から私の瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「……お前の手は、美しい」
低く、掠れた声音だった。 飾らない、魂の底から絞り出されたような言葉。
その言葉を落とした瞬間、冷酷無比と恐れられる北方守護卿の耳朶が、目に見えて朱色に染まっていった。
彼は気まずそうにわずかに顎を引いたが、それでも私の手を包む両手を決して離そうとはしなかった。
トクン、と胸の奥で鐘が鳴るように脈が跳ねた。 冷たい雪に閉ざされた工房の片隅で、二人の間を流れる空気だけが、耐火窯の炎よりも熱く、微熱を帯びて揺れていた。




