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私の役目は終了しましたので、どうぞお幸せに!  作者: 月雅


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第4話「灰汁と炎の再起」



(そんなに驚いた顔をしなくてもいいのに――)


 肩で息をしながら立ち尽くす旦那様の姿を見つめ、私は心の中でそっと苦笑した。

 北方守護軍の総司令官であり、王都の貴族たちが名前を聞いただけで震え上がるという冷酷な辺境伯。

 その彼が今、工房の入り口で、まるで未知の魔術でも目撃したかのように目を丸くして私を凝視している。


 アレクシス卿は一度荒々しく息を吐き出すと、乱れた黒髪をかき上げ、大股で私の方へと歩み寄ってきた。  長靴が踏みしめる乾いた足音が、静かな工房に響く。

 彼は私の正面で足を止めると、身を屈めるようにして視線を合わせてきた。


「……あの油は、何だ」


 低く、地を這うような声音。  だが、昨日のような刺すような険呑さは微塵もなかった。  そこにあるのは、純粋な驚愕と、困惑だ。


「ミントとラベンダーから抽出した精油を、精製蜜蝋に練り込んだ軟膏にございます。閣下の肩の古傷に、少しは効き目がございましたでしょうか」

「少しどころではない。……ここ数年、冬を迎えるたびに骨の髄まで軋むような激痛に苛まれていた。それが、塗ってから半刻も経たぬうちに完全に消え去った。昨夜は、父が死んで以来初めて、朝まで一度も目覚めることなく眠れた」


 アレクシス卿はぶっきらぼうにそう告げると、気まずそうに視線を逸らし、首筋に手を当てた。


「先日の無礼を詫びる。……貴族としての誇りを傷つけるような真似をした。俺にできることなら何でも言え。対価を支払う」


 言葉数は少なく、無骨な物言いだったが、彼の誠実さがひしひしと伝わってきた。  利用価値がなくなれば平然と切り捨てる王都の男たちとは、根本から生きる姿勢が違う。

 私は胸のすくような心地よさを覚えながら、静かに首を横に振った。


「謝罪など滅相もございません。閣下の痛みが和らいだのであれば、それだけで十分でございます。……ただ、もし対価をいただけるのであれば、一つだけお願いがございます」

「何だ。金か? 王都の調度品か?」

「いいえ。この工房にある耐火窯の、本格稼働のお許しをいただきたいのです。それから、城内の暖炉から出る木灰を、すべて私に譲ってくださいませ」


 私の予想外の要求に、アレクシス卿は虚を突かれたように瞬きをした。  だが、その背後から焦燥に駆られたような足音が割り込んできた。


「滅相もございません、閣下! 断じて許可してはなりませんぞ!」


 工房の扉から飛び込んできたのは、分厚い羊毛の上着を着込み、丸眼鏡を鼻筋に乗せた小太りの男だった。  城の財政を取り仕切る財務官のホルストだ。

 彼は手にした帳簿を胸に抱え込み、青ざめた顔で私を睨みつけた。


「閣下、北方領における木炭は、領民が冬を生き延びるための命綱でございます! ガラスを溶かすとなれば、千度を超える熱量を何日も維持せねばならぬ。そのような狂気の沙汰に木炭を湯水のように消費されれば、備蓄は瞬く間に底をつき、春を迎える前に城下の民が凍死してしまいます!」


 ホルストの反論は、極めて真っ当なものだった。  魔法の存在しないこの世界において、熱量は物理的な燃料の消費によってしか得られない。

 寒冷地の財務官として、貴重な木炭を正体不明の「元悪女の道楽」に回すことを拒絶するのは、職務への忠誠心そのものだ。


「ホルスト殿の仰る通りです。無計画な木炭の浪費は、領民の命を脅かします」


 私が穏やかに同意すると、ホルストは毒気を抜かれたように眼鏡を押し上げた。


「な、ならばなぜ――」

「既存の窯のまま、無駄に炭を燃やせばそうなります。ですが、燃焼効率を改善し、さらにガラスの融点を人為的に下げることができれば、話は別です」

「融点を下げる……? 何を馬鹿な。石を溶かす温度を人が操れるはずが――」


 私は反論する代わりに、作業台から木製の桶を引き寄せた。

 中には、昨日から水に浸しておいた白い沈殿物――木灰を水に溶き、上澄みを丁寧に濾過して煮詰めた「灰汁」が入っている。


「木灰に含まれるカリウム成分は、ガラスの融解温度を大幅に下げる天然の融剤となります。これを用いれば、通常よりも遥かに低い熱量で、しかも短時間でカレットを完全に液化させることができるのです。さらに、融けた表面に浮く鉱滓は匙ですくい取り、鉄分の多い濁った屑は先に選別して除いておきます。そうして不純物を取り除けば、透明度も上がるはずです」


 前世のガラス職人が受け継いできた、科学的な知恵。  呆気にとられる財務官をよそに、私は耐火窯へと歩み寄った。


「それに、この窯の空気の流れには改善の余地があります」


 私は袖をまくり、炉の焚き口の石組みを指差した。


「吸気口が広すぎるため、冷たい外気が直接炭に触れて熱を奪っています。空気の取り入れ口を絞り、煙突への排気路を少し狭めることで、内部に強い負圧を生み出すことができます。いわゆる煙突効果です。さらに、ふいごの羽口を斜め下から炭の芯に向けて差し込めば――」


 私は窯の中に残っていた僅かな木炭を組み直し、羽口の角度を調整した。  そして、手回しのふいごのレバーを、体重をかけてリズミカルに押し込む。


 シュゴオオオオッ!


 空気が鋭い唸りを上げて炉内へと吸い込まれた。  ほんの握り拳二つ分ほどの木炭が、一瞬にして眩い純白の熱光を放ち始める。

 煙突から煙は一切出ず、完全燃焼を示す澄んだ炎が、轟音とともに炉の内部を包み込んだ。

 窯の覗き穴から吹き出す強烈な輻射熱に、ホルストが悲鳴を上げて後退する。


「な、なんという熱量だ……! たったあれだけの炭で、これほどの炎が……!?」


 ホルストは帳簿を取り落としそうになりながら、震える手で窯を指差した。  窯番の老職人も駆け寄ってきて、信じられないものを見る目で炉内を凝視している。


「これなら……これなら、通常の三分の一以下の木炭で、十分にガラスが溶かせますぞ……! 奥様、いや、セリア様! 貴女様は一体……!」


 職人たちの瞳から疑念が消え失せ、職人としての純粋な敬意と興奮が満ちていく。

 偏見に満ちていた空気が、技術と論理の力で塗り替えられていく高揚感が、私の胸を熱く満たした。


 ふう、と息を吐き出し、ふいごから手を離す。  窯から放たれる熱波に晒されていたため、いつの間にか額には細かな汗が浮かび、首筋を伝っていた。

 作業用の簡素なワンピースの胸元を少し緩め、手首で汗を拭う。


「セリア」


 低く掠れた声に呼ばれ、顔を上げた。  目の前にいたアレクシス卿が、息を呑んだように立ち尽くしていた。

 彼の灰青色の瞳が、熱気で赤く上気した私の頬と、鎖骨に光る汗の滴に釘付けになっている。

 その瞳の奥に宿る熱に、私の心臓がトクンと跳ねた。


 次の瞬間、彼は無言のまま、身に纏っていた厚手の黒い上着を脱ぎ捨てた。  そして大股で歩み寄ると、私の華奢な肩へと、ふわりと上着を羽織らせてきたのだ。


「え……?」 「……汗が冷えれば、風邪を引く」


 アレクシス卿はそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに呟いた。

 肩を包み込んだ上衣は、ずっしりと重く、そして彼の体温がそのまま残っていて信じられないほど温かかった。

 鼻をくすぐる、針葉樹と冷たい風の匂い。  彼が急いで工房の隅へと歩き去る背中を見つめながら、私は羽織った襟元をそっと指先で握りしめた。


(……これは、ただの気遣い。契約上の妻に風邪を引かれては困る、というだけのことよ)


 そう自分に言い聞かせても、肩に残る温もりはなかなか消えてくれなかった。


「ホルスト」 「は、ははっ!」 「セリアの言う通りにしろ。城内の木灰をすべて集め、必要な木炭をこの工房へ最優先で配分しろ。……彼女の邪魔をする者は、俺が許さん」

「承知いたしました、閣下!」


 財務官が深々と頭を下げ、職人たちが歓声を上げて動き出す。  北の凍てついた城で、私の居場所が、確かに熱を帯びて動き始めていた。


◇


 遠く離れた王都の内廷執務室では、この北の変革など露知らず、愚行が重ねられていた。

 近隣国との直轄領通商条約の更新書類を前にしたエリックは、小さな文字で埋め尽くされた難解な羊皮紙の束を忌々しそうに睨みつける。

「前と同じ内容だろう、くだらん」

 条約附款に記された「関税免除の撤廃と履行遅延時の巨額違約金」という重大な変更点に気づく知性もなく、エリックは欠伸を噛み殺しながら、国王の代理委任印を乱暴に叩き押していた。

 それが自らを破滅へと導く決定打であることも知らずに。


◇


 ゴウゴウと、心地よい唸りを上げて耐火窯の炎が燃え盛る。  灰汁で処理されたカレットが坩堝の中で溶け合い、赤く輝く美しい水飴のように粘度を増していく。


 私は熱を遮る革の手袋をはめ直し、棚から一本の長い鉄の吹き竿を取り上げた。  冷たい金属の感触が、掌に吸い付くように馴染む。


 炉の前に立ち、灼熱の坩堝を見据える私の瞳に、一切の迷いはなかった。


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