第3話「氷の城の香油」
分厚い作業用の革手袋をはめ、私は小さな真鍮の小刀を手に、雪に埋もれた中庭へと踏み出した。
ざく、ざくと長靴が新雪を沈める。 凍てつく風が容赦なく頬を撫でるが、意識を集中させて雪を払い、黒く湿った土を掘り起こす。
そこには、厳しい寒さに耐え忍び、力強く根を張った薬草の緑があった。
雪の下で凝縮された香気を持つペパーミントと、冬枯れの枝にしっかりと香りの油分を蓄えたイングリッシュラベンダーだ。
凍傷にかからぬよう素早く、しかし丁寧に刃先を滑らせ、傷のない葉と蕾を摘み取っていく。 白い吐息をこぼしながら、小さな籠がいっぱいになるまで収穫を続けた。
今朝、離宮へ朝食の干し肉と黒パンを届けに来た若い従僕が、困惑したようにこぼしていたのだ。 ――昨夜からの猛吹雪で、閣下の古傷がひどく疼いているらしい。
――本館の空気も煤煙と乾燥でひどく重く、閣下の苛立ちが城中に伝播して皆が怯えている、と。
北方守護の要であるアレクシス卿は、かつて国境紛争の折、右肩から背にかけて深い槍傷を負ったという。
酷寒の地において、気圧の低下と冷気は古傷の筋肉を硬直させ、神経を締め上げる激痛を生む。
加えて、城内を暖める石炭や薪の煙は喉を痛め、乾燥が痛覚をさらに過敏にさせる。
「形ばかりの妻とはいえ、この身に屋根と工房を与えてくださった方だもの。放っておくわけにはいかないわね」
前世で培ったアロマセラピストの知見が、私の頭の中で明確な調合表を組み上げていく。 工房へと戻り、頑丈な作業台に採取したハーブを広げた。
種火が生きている耐火窯の焚き口へ、細かく割った乾燥薪を数本くべる。ふいごを静かに押すと、熾火がパチパチと心地よい音を立てて橙色に燃え上がった。
工房の棚を検分すると、幸いなことに純度の高い精製蜜蝋と、かつて何かの防腐に使われていた良質な獣脂、そして少量の蒸留酒が残されていた。
銅鍋に湯を張り、間接的な熱で油分をゆっくりと溶かしていく。直火では揮発性の有効成分が熱で分解してしまうため、湯煎による精密な温度管理が不可欠だ。
すり鉢で細かく擂り潰したミントの葉からは、鋭いメントールの冷感が立ち上る。 これは局所の血流を促し、神経の痛みを麻痺させる効果がある。
それらを蒸留酒に浸し、ラベンダーの蕾とともに温めて、有効成分を溶かし出した濃い浸出液を作った。鎮静と鎮痛を司るラベンダーの香りが、湯気とともにふわりと立ち上る。
その浸出液を、溶かした蜜蝋と獣脂へ慎重に溶かし込んでいった。
冷涼な刺激の中に、ふわりと心を解きほぐす柔らかな甘さが溶け合っていく。 木べらで丁寧に練り上げながら冷ますと、淡い翡翠色をした滑らかな調香バームが完成した。
私はそれを、工房の片隅にあった手のひらサイズの小さな白磁の壺へと移し替えた。
◇
出来上がった壺を手に、扉の外の衛兵へ事情を話した。 衛兵は一瞬ためらったが、「渡り廊下まで付き添います」と言って同行してくれた。
衛兵とともに本館へ向かう渡り廊下を進むと、待ち構えていたかのように一人の老人が立ちはだかった。
灰色の髪を撫でつけ、隙のない執事服を纏った男――この城を四十年にわたり取り仕切る老執事のバルトだった。
「これ以上のお進みはなりませぬ、セリア様」
バルトの瞳には、あからさまな警戒と険呑な光が宿っていた。 私と距離を保ち、まるで不浄なものを見るかのように視線を鋭く細めている。
「閣下より、離宮からの無断立ち入りは禁じられているはず。王都より押し付けられた毒婦が、このような刻限に本館へ何の御用ですかな」
毒婦、という侮蔑の言葉にも、私の心は揺れなかった。
先代を王都の陰謀で失い、苦難を背負ってきたこの北の人々にとって、王都から送り込まれた私は敵そのものに見えるのだろう。
私は足を止め、淑女の礼を崩さずに白磁の壺を両手で差し出した。
「バルト殿。閣下が古傷の激痛に苦しまれていると伺いました。こちらは薬草園のミントとラベンダーから精製した軟膏です。患部に塗り込めば、痛みを鎮め、凝り固まった筋肉を和らげる効果がございます。どうか閣下にお届け願えませんでしょうか」
バルトは壺を一瞥し、嘲るように鼻を鳴らした。
「ふん……。王都で男爵令嬢に毒草を盛ったと聞く貴女が、手ずから作った薬だと? そのような怪しげな油、閣下の御身に触れさせるわけにはまいりませんな。今すぐお引き取りを。さもなくば衛兵を呼びますぞ」
頑なな拒絶。 偏見に満ちた言葉だったが、主君の身を案じる忠義の裏返しであることも分かっていた。
ここで言葉を尽くして弁明しても、王都の悪評を信じ込む彼の疑念は晴れない。
ならば、行動で証明するまでだ。
私は無言で白磁の壺の蓋を開けた。 瞬時に、澄み渡るようなミントの清涼感と、奥深いラベンダーの芳香が渡り廊下の冷気の中にふわりと広がった。
バルトがピクリと眉を動かす。
私は躊躇うことなく、人差し指で翡翠色のバームをすくい取った。
そして、自らの手首の内側、血管の集まる薄い皮膚へ、さらに露出した首筋へと、惜しげもなく擦り込んでみせた。
「……っ、な」
バルトが息を呑む。 もしそこに劇薬や毒草が混入していれば、皮膚の薄い部位から毒素が回り、直ちに炎症や麻痺を引き起こす。
私は滑らかな手つきで肌に油分を馴染ませ、穏やかな笑みを浮かべたまま両手を広げてみせた。
「ご覧の通り、毒など一切含まれておりません。清涼な刺激と鎮静の香りが、煤煙で重くなった頭痛や神経の昂ぶりをも静めてくれます。……信じていただけずとも結構です。ですが、閣下の今宵の苦痛を少しでも除きたいという思いに、偽りはございません」
バルトは絶句していた。 自らの身をもって無害を示し、侮辱されても一切の怒りを見せず、ただ主君の安寧のみを願う私の姿。
老執事の冷徹な仮面が、目に見えて崩れていく。
彼は震える手で自身の額を押さえ、深々と頭を下げた。
「……私の、無礼をお許しください。王都の風評に惑わされ、あのような暴言を……。このバルト、生涯の不覚でございます」
「頭をお上げください、バルト殿。主君を護るための警戒を、責める気など毛頭ございません」
壺を再び蓋で閉じ、老執事の手のひらへと預けた。 バルトは恐縮しきった様子で、まるで至宝でも扱うかのようにそれを押し戴いた。
偏見の氷が、ほんの少しだけ解けた確かな手応えが、指先を通じて伝わってきた。
◇
北の静寂とは裏腹に、王都のサロンでは浅ましい苛立ちが渦巻いていた。
優雅な生活を夢見てセリアの執務机を漁っていたマリアは、引き出しから出てくるのが数字と条文で埋め尽くされた難解な羊皮紙の帳簿ばかりであることに業を煮やしていたのだ。
宝石も隠し金も見つからず、「使えない書類ばっかり!」と甲高い悲鳴を上げながら、手近な決算書をぐしゃぐしゃに丸めて床に叩きつけていた。
◇
その夜、ヴォルフガング城の城主私室。 暖炉の火が静かに揺れる中、アレクシスは寝台の端に腰掛け、右肩の疼きに耐えかねて奥歯を噛み締めていた。
鉛を流し込まれたような重い痛みが、肩甲骨から首筋へと走る。
机の上には、先ほどバルトが震える手で届けてきた白磁の壺が置かれていた。
――セリア様が手ずから調合されたものです。自ら肌に塗り、毒のないことを証明なさいました。
「あの女が……?」
アレクシスは忌々しそうに呟きながらも、指先で壺の翡翠色のバームをすくい、剥き出しの右肩の古傷へと塗り伸ばした。
その瞬間、肌がひやりとした清涼感に包まれた。 燃えるように熱を持っていた患部が急速に冷やされ、続いてじんわりとした心地よい温感が深部へと染み渡っていく。
まるで鉄の枷で締め付けられていた筋肉が、指先で優しく解きほぐされていくようだった。
「……痛みが、消える……?」
アレクシスは信じられない面持ちで、痛みの引いた自らの右肩に触れた。 あれほど彼を苛み続けていた鈍痛が、嘘のように引いていた。 だが、それ以上に――。
ふわりと、熱を帯びた肌から立ち上ったのは、透き通るようなハーブの芳香と、その奥に潜むセリア自身の肌を思わせる、甘く清らかな匂いだった。
昨日、渡り廊下で抱き留めた、あの折れそうなほど細い腰の感触と、間近で見つめ合った澄んだ瞳が、鮮烈に脳裏に蘇る。
ドクン、と胸の奥で心臓が大きく跳ねた。
「っ……!」
アレクシスは息を呑み、動揺を隠すように口元を片手で覆った。 熱い血が全身を駆け巡り、耳の奥まで火照っていくのが分かる。
冷酷無比を自負する北方守護卿の胸が、名も知らぬ熱情に激しく揺さぶられていた。
◇
翌朝。 工房の耐火窯の前に座り、カレットの選別に精を出していた私の耳に、荒々しい足音が届いた。
バタン!
勢いよく重い木製扉が開かれ、工房の外気が一気に流れ込んでくる。
驚いて顔を上げると、そこには息を切らし、信じられないものを見るような面持ちで立ち尽くす、アレクシス卿の姿があった。




