第2話「北の冷酷な旦那様」
ゴウ、と低く唸る地鳴りのような風が、分厚い石壁を震わせていた。
吹き荒れる雪粒が乾いた音を立てて車窓を打ち据え、軋む車輪の下で凍結した雪がぎしぎしと悲鳴を上げる。
重厚な鉄の跳ね橋が下りる鈍い金属音とともに、馬車はようやくその歩みを止めた。
北方国境を守護する要塞――ヴォルフガング城。 王都を出発してから、駅逓を乗り継ぎ揺られること半月。
馬車の扉が開かれた瞬間、刃物のように鋭い寒気が車内に流れ込み、肺の奥まで凍りつくかのような痛烈な冷気が肌を刺した。
「セリア・オルディス様ですね。閣下がお待ちです」
毛皮の外套に身を包んだ無骨な兵士に促され、私は雪を踏みしめて城内へと足を踏み入れた。
外の酷寒とは対照的に、城の大広間には壁一面に巨大な暖炉が据えられ、太い薪が爆ぜる音と橙色の炎が空間を満たしていた。
その暖炉の前に、一人の男が立っていた。
夜の闇よりも深い漆黒の髪に、氷柱を思わせる鋭利な灰青色の瞳。
鍛え抜かれた頑強な体躯には、仕立ての良い黒の上衣と分厚い狼の毛皮が纏われ、帯剣した長剣の鞘が暖炉の光を鈍く照り返している。
北方守護卿、アレクシス・フォン・ヴォルフガング辺境伯。
彼がゆっくりと視線をこちらへ向けた瞬間、広間の空気が一段と張り詰めた。 値踏みするような、刺すような眼光。
王都から追放されてきた「稀代の悪女」を一目見ようと集まった家臣たちの間にも、冷ややかな沈黙が流れている。
私は歩みを止め、膝を折って完璧なカーテシーを捧げた。 長旅の疲れも、身に纏う粗末な旅装の乱れも一切感じさせない、寸分の狂いもない淑女の礼。
「初めまして、アレクシス卿。オルディス公爵家が長女、セリアと申します。王命に基づき、本日より貴家へ身を寄せさせていただきます」
顔を上げ、穏やかな視線を真っ直ぐに彼へと返した。 媚びることも、怯えることもなく、ただ事実のみを受け入れた契約者としての敬意を込めて。
アレクシス卿はわずかに眉を寄せ、低く威厳に満ちた声で口を開いた。
「……王都の毒婦と聞いていたが、ずいぶんと澄ました面をしているな」
広間の家臣たちが息を呑む。 無礼とも取れる挑発的な言葉だったが、私の心にはさざ波一つ立たなかった。
彼らにとって、私は王都の政争から送り込まれた厄介者であり、いつ寝首を掻くか分からない密偵候補なのだ。警戒されるのは至極当然のことだった。
「身に覚えのない悪名ではございますが、卿が警戒されるお気持ちは重々理解しております。私に過度な歓待や、正妻としての立場を要求する意思はございません。ただ、契約上の妻として、この地の掟に従い静かに過ごすことをお誓いいたします」
感情を交えず、理路整然と紡がれた私の言葉に、アレクシス卿の灰青色の瞳がわずかに揺れた。 彼は腕を組み、冷徹な声音のまま告げる。
「生憎だが、俺は王都貴族の舌先三寸を信じない。父を陥れた奸計の数々を、この北の地で再現させるつもりは毛頭ない。……王命に背けば、王都は我が領を叩く口実を得る。お前を受け入れたのは、それだけのことだ。お前をこの本館に置く気はない」
「承知しております」
「城の東側、中庭を抜けた先に古い離宮がある。かつて使われていた工房が併設された別棟だ。お前の生活圏はそこだけに限定する。専属の護衛を外に配置し、無断での本館立ち入りや敷地外への外出は一切禁じる。……不満はあるか」
隔離。 事実上の軟禁宣告だった。
家臣たちは「これで悪女も泣き崩れるだろう」とでも言いたげな視線を向けていたが、私の胸に湧き上がったのはまったく逆の感情だった。
(古い工房付きの離宮……!)
思わず口元が緩みそうになるのを、懸命に淑女の微笑みの下に隠す。
本館で常に誰かの監視の目に晒されながら暮らすよりも、離れで完全に生活を分けられる方がどれほど気楽か。
しかも、工房まで付いているという。
「寛大なお取り計らいに感謝申し上げます、閣下。喜んでその離宮へ移らせていただきます」 「……」
アレクシス卿は、私の迷いのない返答に毒気を抜かれたように押し黙った。 何かしらの不満や哀訴を予想していたのだろう。彼は不審そうに目を細めると、身を翻した。
「ついてこい。案内する」
◇
半月前、セリアが追放された翌朝。王都の内廷官房では、早くも亀裂が走り始めていた。
前夜の夜会の余韻に浸りながら登城したエリックの執務机の上には、未決の決済書類が四十通も山積みになっていたのだ。
「これは何の真似だ! 僕がこんな雑務を処理するわけがないだろう!」 激昂するエリックに、側近官僚は青ざめて震え上がる。
「は、はい……ですが殿下、これまでこれらの直轄領会計は、すべてセリア様が翌朝までに承認を終えておいででしたので……」
忌々しそうに書類を払いのけたエリックだったが、羊皮紙に並ぶ難解な数字の意味は、一行たりとも理解できなかった。
◇
本館を出て、中庭へと続く外廊下を進む。 風は依然として強く、渡り廊下の屋根から舞い散る雪が吹き込んできていた。
敷き詰められた黒い石畳は、外気によって完全に凍りつき、薄い氷の膜が張っている。
前を行くアレクシス卿は、雪国の歩法に慣れているのか、分厚い革ブーツで安定した足取りを保っていた。
だが、王都仕様の底の薄い靴を履いた私には、あまりにも滑りやすい路面だった。
慎重に足を運んでいたものの、角を曲がろうとした瞬間、ツルリと右足の爪先が滑った。
「っ……!」
身体の重心が後ろへと崩れる。 冷たい石畳に背中から叩きつけられることを覚悟し、目をぎゅっと閉じた。
だが、衝撃は訪れなかった。
ガシッ、と強い力で腰を引き寄せられた。 厚手の狼の毛皮と、逞しい腕の温もりが、私の背中と腰を完璧に受け止めていた。
「――っ」
鼻腔をくすぐったのは、雪の結晶のように冷涼な空気と、乾いた針葉樹、そして微かな革の匂いだった。 驚いて目を開けると、すぐ目の前にアレクシス卿の顔があった。
間近で見る灰青色の瞳は、冷徹な奥に、驚きと微かな狼狽を孕んで揺れている。
彼の大きな手骨が、私の細い腰をしっかりと抱き留めていた。布越しに、熱い体温が伝わってくる。
「……あ」
視線が絡み合ったのは、ほんの二秒か三秒のことだった。 アレクシス卿はハッとしたように我に返ると、弾かれたように私の腰から手を離した。
「足元を見ろ。北の氷を甘く見るな」
彼は顔を背け、咳払いを一つ落とした。 耳の先端が寒さのせいか、それとも別の理由からか、ほんの少し赤らんでいるように見えた。
「……助けていただき、ありがとうございます、アレクシス卿」
私が礼を言うと、彼はそれ以上何も答えず、大股で歩き出してしまった。 ただ、その歩幅は、先ほどよりも明らかに小さく、私の歩調に合わせるように緩められていた。
◇
案内された離宮は、苔むした頑丈な灰色の石で組まれた、簡素ながらも美しい平屋の建物だった。
本館からは適度に離れており、周囲を高い石壁と針葉樹の並木に囲まれている。
「ここだ。掃除は最低限しかさせていない。寒さ対策の薪は裏手に積んである。……何かあれば、扉の外の衛兵に言え」
アレクシス卿はぶっきらぼうにそう言い捨てると、家臣を引き連れて本館へと戻っていった。
残された私は、手提げ鞄を抱えて中へと入る。 居間には小さなベッドと簡素な机があるだけだったが、室内は思いのほか暖かかった。
不思議に思いながら、居住スペースの奥にある重い木製扉を押し開ける。
そこは、天井の高い半地下構造の工房だった。
「……まあ」
私は思わず歓声を上げ、駆け寄った。 部屋の最奥に鎮座していたのは、耐火煉瓦で組まれた堂々たる円形の窯だった。
そして驚くべきことに、焚き口の隙間から、赤い微かな光が漏れ出している。
しゃがみ込んで覗き込むと、良質な木炭が灰の中で静かに熱を保ち、種火として維持されていたのだ。
北方領では、窯の完全な冷却は煉瓦のひび割れや凍結破壊を招く。
そのため、炭焼き職人や暖房管理係が、使われていない窯であっても定期的に種火を維持するのが鉄則なのだ。前世の知識とこの地の理が合致した瞬間だった。
「種火が生きているわ……! これなら、送風を工夫して炭を足せば、すぐにでも温度を上げられる!」
隔離された軟禁生活? 王都からの追放? そんなことは、今の私にとってどうでもよかった。
誰にも邪魔されず、国家財政の帳簿に追われることもなく、心ゆくまで炎と向き合える場所がここにあるのだ。
湧き上がるワクワク感に、胸が激しく高鳴った。
立ち上がり、工房の壁際にある頑丈な木棚を検分する。
そこには、前の使用者が残していったのであろう、青黒く濁った鉱滓混じりのガラス屑――カレットが、木箱に山積みになって眠っていた。
鉄分や不純物のせいで透明度は皆無だが、原料としてのガラスそのものは豊富にある。
さらに工房の裏窓を開けると、雪に埋もれた小さな中庭が見えた。
雪の下には、寒さに耐えて青い葉を縮こまらせている薬草たちの姿がある。かつてここでハーブの栽培が行われていた名残だ。
不純物混じりのガラス屑と、凍てつく薬草園。 私はそっと冷たいガラスの破片を指先で撫で、静かに微笑んだ。
(ここから、始めましょう)
冷酷と恐れられる旦那様への恩返しも兼ねて、私の新しい生活の幕が上がろうとしていた。




