第1話「役目終了の笑顔」
「セリア・オルディス! 貴様との婚約を、これより破棄する!」
大広間の高い天井に吊るされた水晶のシャンデリアが、激しい怒声に震えた。 王宮で催された夜会の喧騒が、潮が引くように静まり返る。
楽団の演奏は途切れ、広間の中央を囲む貴族たちの視線が一斉に突き刺さった。 私――セリア・オルディスの正面には、第二王子であるエリック殿下が立っている。
その隣には、胸元を大きく開いた薄桃色のドレスを身にまとい、小刻みに肩を震わせる少女が寄り添っていた。新興貴族の娘、マリア・ノエル男爵令嬢だ。
「エリック殿下……わたくし、恐ろしくて……」 「大丈夫だ、マリア。悪毒な女の好きにはさせない。僕が君を守る」
エリック殿下はマリア嬢の腰を抱き寄せ、勝ち誇ったような視線を私に向けた。
周囲の壁際には、佩刀を許された近衛兵が整然と立ち並んでいる。彼らは微動だにせず、ただ儀礼的な無表情を保っていた。
エリック殿下の手には、一枚の厚手の公文書が握られている。 そこには、鮮やかな朱色で押印された印影があった。
国王陛下が病臥の折、内廷の事務を代行するために預けられたはずの「内廷管理用代理委任印」だ。
「セリア。貴様が嫉妬に狂い、罪もなきマリアの紅茶に毒草を混入させ、陰湿な精神的迫害を繰り返してきた動かぬ証拠がここにある!」
広間にさざ波のような囁きが広がった。 貴族たちの瞳に宿るのは、好奇と嘲弄だ。
誰も事実の真偽など気にしていない。オルディス公爵家の長女であり、次期王妃と目されていた私が引きずり落とされる瞬間を、ただ娯楽として消費しようとしている。
毒殺未遂。 あまりに杜撰で、滑稽な言いがかりだった。
マリア嬢の茶会の日程も、彼女が口にするものの管理も、私には一切関わりのない領域だ。それに、内廷の財政管理や条約折衝の実務で連日執務室に缶詰になっていた私に、そんな無駄な工作をする時間などあるはずもない。
だが、事態は極めて冷徹に進んでいた。 父であるオルディス公爵は、領地の治水工事の指揮を執るため王都を離れている。
ここ数週間、父へ送ったはずの私信の返信が途絶えていた。
内務省の官房――エリック殿下の側近官僚たちが、書簡を検閲し、握り潰していたのだ。
国王陛下は伏せり、王太子殿下は隣国での外交折衝と療養のため不在。 この場には、私を擁護する力を持つ上位者は一人もいない。
ここで私が「事実無根です」と声を荒らげ、偽造された告発状の矛盾を突けばどうなるか。 エリック殿下は激昂し、公爵家そのものに反逆の疑いをかけるだろう。
王家の代理印が押された文書が存在する以上、公の場で王子に恥をかかせれば、父や領民にまで火の粉が降りかかる。
(……ああ、そうか)
張り詰めた空気の中、頭の奥で何かが弾けた。 激しい衝撃とともに、まるで分厚い氷が解け落ちるように、記憶の奔流が脳裏を満たしていく。
幼い頃から課された、息の詰まるような王妃教育。 感情を殺し、背筋を伸ばし、完璧な微笑みを貼り付ける日々の記憶。
そのさらに奥――私ではない、もう一つの人生の記憶。
立ち上る精油の澄んだ芳香。 千度を超える窯から吹き竿で巻き取る、水飴のように赤く溶けたガラスの重み。
灰汁を使って不純物を取り除き、透明な輝きを追求した、あの静かな工房の光景。
私は、前世を思い出した。 かつて日本という国で、ガラス職人として、そしてアロマセラピストとして生きていた記憶を。
(私……どうして今まで、こんな不毛なことに命を削っていたのかしら)
エリック殿下が投げ捨てるように放置した内廷の決算書。 近隣国との複雑な通商条約の条文。 傲慢な王子が威厳を保つため、夜を徹して代筆し続けた政策文書の数々。
私がすべてを整え、彼が自分の手柄として国王に提出していたのだ。
それなのに、得られたものは浮気相手を庇うための冤罪と、公衆の面前での糾弾。 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
胸を締め付けていた重苦しい責任感が、ふっと霧散していくのを感じた。
「貴様の悪逆非道、本来ならば貴族籍剥奪の上、断頭台へ送るべきところだ!」
エリック殿下は得意満面に胸を張り、従者から別の書面を受け取った。
「だが王家の慈悲として、命だけは助けてやる。貴様には、北方国境防衛の要であるヴォルフガング辺境伯家へ輿入れを命じる。あの冷酷無比な『氷の魔物』の元で、一生己の罪を悔いるがいい!」
広間から、息を呑む気配が伝わってきた。 ヴォルフガング辺境伯――アレクシス・フォン・ヴォルフガング卿。
二十四歳にして北方守護軍を率い、王都の宮廷貴族を激しく忌み嫌う軍事貴族の重鎮。
笑顔を見た者はなく、情け容赦のない冷徹な男として、王都では恐れられている。
厄介払いの人質。 寒冷で不毛な北の果てへ、邪魔者を体よく追放するための口実。 それが彼らの用意した筋書きだった。
エリック殿下の従者が歩み寄り、銀のトレイを差し出す。
そこには、王家との婚約破棄を承認する離縁状と、ヴォルフガング辺境伯家への婚姻承諾書が並んでいた。すでに王家の代理委任印が押されている。
マリア嬢が、扇の陰から嘲るような笑みを漏らした。 私が青ざめ、涙を流して足元に縋り付くとでも思っているのだろう。
周囲の貴族たちも、私が屈辱に震え、絶望に打ちひしがれる姿を期待して息を潜めている。
私は静かに息を整えた。 オルディス公爵家の令嬢として叩き込まれた、完璧な所作でドレスの裾を引く。 そして――。
心からの笑みを浮かべた。
「承知いたしました、エリック殿下」
透き通るような声で告げると、トレイから羽ペンを取り上げる。 迷うことなく、流麗な筆致で二枚の書類の末尾に自らの名を署名した。
インクを吸い取らせるための砂を振り、静かにペンを戻す。
我が身の保身も、言い訳も、未練の欠片もない。 ただただ、清々しい動作だった。
「はい、私の役目は終了しましたので、どうぞお幸せに!」
淑女の規範とされる角度を完璧に保ち、深々と、優雅にカーテシーを捧げる。 顔を上げた私の表情には、一点の翳りも、悔恨の色もなかった。
泣き叫び、許しを乞うはずだった女が、心底から解放されたような歓喜の笑みを浮かべている。
その異様な光景に、勝ち誇っていたエリック殿下の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
思わず後ずさった殿下の喉が引き攣り、何の言葉も紡がれないまま、唇だけがわなないていた。
「では、皆様。ごきげんよう」
私は振り返り、一度も足を止めることなく、静寂に包まれた大広間を後にした。 誰一人として、私を呼び止める声は上がらなかった。
◇
王宮を出て用意された粗末な馬車に乗り込むと、車輪が軋んだ音を立てて動き出した。
持参を許されたのは、身の回りの最低限の衣装と、私財である小さな手提げ鞄だけだ。
だが、私にとっては十分すぎる。
「ふふっ……」
思わず、口元から笑みがこぼれた。 両手を伸ばし、深く息を吐き出す。 肩に食い込んでいた重い鉄の鎖が、跡形もなく消え去ったような心地だった。
二度目の人生。 これまでは家のために、国の威信のために、自分を押し殺して公務に捧げてきた。
けれど、もう誰かの顔色を窺って帳簿の辻褄を合わせる必要も、見栄と虚飾にまみれた夜会で愛想笑いを浮かべる必要もないのだ。
北のヴォルフガング領。 王都の人間は「不毛の極寒地」「野蛮人の巣窟」と忌み嫌うが、私にとっては好都合極まりない。
冷涼な気候は、香料やハーブの保存に適している。 それに、寒冷地ならば暖を取るための窯や燃料の管理が日常的に行われているはずだ。
ガラスを吹くための窯を維持する環境としては、むしろ恵まれているかもしれない。
(アレクシス卿、だったかしら)
冷酷無比、人を人とも思わぬ氷の守護卿。 王都に流れる噂がどこまで真実かは分からない。
だが、私を厄介払いとして押し付けられた彼にとっては、王都の公爵令嬢など警戒すべき密偵に見えるだろう。
歓迎されるはずもない。
「契約上の妻として、邪魔にならないよう静かにしていればいいわ」
城の隅にでも小さな工房をあてがってもらえれば、それでいい。 前世で培ったガラスの調合技術、灰汁を用いた不純物の除去、そしてハーブの蒸留。
好きなものをつくり、静かに、気ままに暮らすのだ。 考えただけで、胸の奥が温かい熱で満たされていく。
馬車は石畳の街道を抜け、やがて舗装の途絶えた北への山道へと入っていった。 車窓を叩く風の音が、徐々に冷たさを増していく。
革のカーテンを少しだけ押し開け、外の景色を覗き込んだ。 王都の人工的な灯りはとうに消え失せ、見渡す限りの雪原が広がっている。 そしてその上には――。
息を呑むほどに澄み切った、濃紺の夜空。 凍てつく空気の中で、無数の星々が針の先のように鋭く、清らかに瞬いていた。
私の新しい人生が、今、ここから始まるのだ。




