知略の破綻
肩の傷から滴る血を抑えながら、ジャンは森の暗がりを必死に駆け抜けていた。背後にあるアイゼン砦からは夜空を赤く染め上げる篝火が立ち上り、地の底から響くような無数の太鼓の連打が森の木々を震わせている。
息を切らし、ようやく辿り着いた亜人連合の前線司令所へ転がり込んだジャンを待っていたのは、冷ややかな沈黙だった。
「……随分と無様な様だな、人間」
軍師ナディルが、水晶球に映る戦況を見つめたまま言った。
「砦の情報だ!」
ジャンは血に汚れた羊皮紙を机の上に叩きつけた。
「奴らはもう新月を待たない! スパイがバレたせいで、今夜全軍で集団連結陣を発動する気だ! 中継杭への細工は間に合わなかった! 今すぐセリアを連れて撤退しろ! 奴らの火炎嵐は、森を丸ごと焼き尽くすぞ!」
ナディルは嘲笑混じりに鼻を鳴らした。
「撤退? なぜ我らが逃げねばならんのだ。微弱な生活魔法を何千人で束ねる力技など、所詮は浅知恵。先頭の百人を弓で射殺せば、魔力は逆流して勝手に自滅する。……これが『知性』というものだ」
「違う! 人間は先頭の百人が死んだくらいじゃ止まらない! 後ろから次の千人が、死体を踏み越えて押し寄せてくるんだ! あいつらにとって、この戦争は理屈や計算じゃない!」
「黙れ、野蛮人。損得の計算もできぬ無駄死になど、ただの自滅だ」
ナディルの言葉が途切れた瞬間――大地が激しく鳴動した。
「報告! 報告ッ!」
血相を変えたエルフの斥候が天幕へ転がり込んできた。
「風上の第一防衛線が突破されました! 人間どもの前衛、およそ二千! 矢衾をものともせず突撃してきます!」
「何だと……? 迎撃の矢を浴びせれば、足を止めるはずだ!」
「足を止めません! 矢が胸に刺さったまま這いつくばって『点火』の魔法を木々に擦り付けています! 森が、燃えています!」
ドォォォォンッ!
遠くで凄まじい爆発音が轟き、夜空を真っ赤に染め上げる巨大な火柱が上がった。
エルフの軍師が「あり得ない」と切り捨てた人間たちの反復訓練の成果――何千人もの農民兵が命をすり潰しながら放った規格外の火炎嵐が、聖なる森を一瞬で呑み込んでいた。
「バカな……! なぜ命を惜しまん!?」
ナディルが蒼白な顔で叫ぶ。合理性を誇った亜人の知性は、自らの命を勘定に入れずに突っ込んでくる「狂信的な数の暴力」の前に、完全に破綻していた。
「セリア……!」
ジャンはナディルたちを突き飛ばし、燃え盛る森の中へと飛び出した。




