泥と熱狂の砦
鼻をつくのは、腐った脂と汗、そして乾燥させた家畜の糞を燃やす煙の臭いだった。
保護区の清涼な空気とはあまりに対照的な悪臭の中、ジャンは足を引きずりながら、アイゼン砦の巨大な木製跳ね橋を渡った。外套は引き裂かれ、皮膚には小石で擦りつけた生傷が赤く滲んでいる。エルフの追手を振り切って逃げ延びた「奇跡の生還者」を演じるための偽装だった。
「誰だ! 止まれ!」
物見櫓からの怒号とともに、粗末な鉄槍が何本もジャンの喉元へ突きつけられる。
「……第十四小隊、前哨兵のジャンだ……」
認識票を差し出すと、門番の顔色が変わった。奥から駆け寄ってきたのは、同じ小隊で泥水を啜り合ってきた戦友の青年・リュカだった。
「ジャン! 生きてたのか……! 全滅したって聞いて、もう……!」
リュカは槍を取り落とさんばかりにしてジャンの肩を抱きしめた。その目には大粒の涙が浮かんでいる。かつて寒村の開拓地で隣り合わせの畑を耕していた頃と変わらない、愚直で温かい男の涙だった。
「セリアちゃんは……輜重隊にいた妹さんはどうなった? 一緒じゃなかったのか?」
「……森の奥で、散り散りになった。エルフの矢に追われて……俺が逃げるのが、精一杯だった」
「そうか……くそっ、あの耳の尖った化け物どもめ……!」
リュカの顔から安堵が消え去り、凄まじい憎悪の色が浮かび上がった。その変貌ぶりに、ジャンは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
リュカに連れられて砦の内部へと進むにつれ、異様な熱気が押し寄せてきた。広場では、数百人もの新兵たちが規則正しい号令に合わせて整列していた。彼らが手にしているのは刀剣ではなく、ただの乾いた木片だ。
「吸って――吐く! 意識を指先に集中しろ! 畑の枯れ草を燃やす時の要領だ!」
教官の怒号が響く。新兵たちは額に青筋を浮かべ、必死の形相で生活魔法の「点火」を繰り返していた。知恵も才能もない農民兵たちだ。エルフのように優雅に術式を編むことなどできない。だからこそ、彼らは同じ姿勢、同じ呼吸、同じ手の角度を何万回も反復し、身体に無理やり叩き込んでいた。
「点火!」の号令とともに、数百の指先から一斉に小さな赤い火種が灯る。
それ単体では煙草に火をつける程度の微弱な熱量に過ぎない。しかし、それが数百、数千と隙間なく並んだとき、砦の広場全体が陽炎のように歪み、息苦しいほどの熱風が巻き起こった。
知恵がないなら、数で埋める。才能がないなら、血の滲むような反復訓練で均一な規格になればいい。
「見ろよ、ジャン」
リュカが広場を見下ろしながら、狂信的な光を宿した瞳で笑った。
「もうすぐだ。あの広大な森を、俺たち人間の数で丸ごと焼き尽くすんだ。高い知能を鼻にかけて、肥沃な土地を独占してきたあの害獣どもを根絶やしにする。セリアちゃんの仇も、絶対に取ってやるからな」
砦の壁には、粗末な墨で殴り書きされたスローガンが至る所に掲げられている。
『努力せぬ知恵者に、神の業火を』
『一匹の亜人も生かして返すな』
熱狂と憎悪に満ちたこの場所で、ジャンはたった一人、同胞を地獄へ突き落とすためのスパイとして、深く息を潜めるしかなかった。




