第03話 偽物は二人いました
「先に俺から話す」
男は扉を閉めると、椅子を引いた。
ミラが座ってから、自分も向かいに腰を下ろす。その順序にさえ、嘘をついている人の礼儀があるのだと、変な感心をした。
「ヴァレリウスは兄だ。俺は次男のルーカス。二十五歳で、病気もしていない」
「それは、存じております」
「……どこまで?」
「ご病気でないことは」
彼は少し肩を落とした。
「兄は来なかった。父は、家の恥を表へ出すなと命じた。昔からここで働いている俺が代わりに式へ出れば、町は落ち着くと。君の家には、病が残っているので姿が変わったと説明するつもりだった」
「肖像画は?」
「七年前の物だっただろう。まだ兄弟で似ていた頃だ」
片方は三年前、片方は七年前。
両家の親たちは、肖像画にたいへんな期待をかけている。
「なぜ、お兄様は?」
「わからない。婚約が決まったときは喜んでいた。ここへ来る支度もしていたのに、三週間前から返事が途絶えた。父は理由を知っているらしいが、俺には話さない」
蝋燭の炎が揺れた。
「君には、断る権利がある。こちらの非だ。帰りたいなら護衛をつける。ご実家へは、俺の責任で説明する」
ミラは、自分の親指を見た。
針の傷はもう閉じていた。姉の衣装を直したことまで、なかったことにはならない。
「私は、セレーネではありません」
言えた。
ただ一度、自分の口で言っただけで、空気が違って感じられた。
「妹のミラです。二十一歳です。姉は砦で暮らすことを嫌がりました。病気の方を看るのも嫌だと。それで、父と母が私を」
ルーカスは瞬きをした。
それから卓へ肘をつき、額を手で押さえた。
怒られる、とミラは思った。
だが聞こえてきたのは、ひどく抑えた笑い声だった。
「すまない。笑うところじゃない」
「いいえ。私も先ほどから」
「二軒とも、同じことを?」
「そのようです」
「親たちを、向かい合わせに座らせたい」
「きっと、相手にだけ怒ります」
「間違いない」
目が合い、今度は二人とも笑った。
ひどいことだった。ひどいことなのに、片方だけが偽物だと思っていたときには見えなかった、ばかばかしさがあった。
そしてミラは、ひどくほっとしていた。
ルーカスが悪いことをしたからではない。
今この部屋で、自分をミラと知っている人が、一人増えたからだった。
「では、明日の式は中止だな」
彼が言う。
ミラの笑いが止まった。
「そう、ですね」
「君を巻き込むわけにはいかない」
正しいことを言う人だった。
だからこそ、言いにくかった。
「……帰る場所が、あまりありません」
彼は口を開かなかった。
「家はあります。でも帰ったら、今度は修道院へ入れられるそうです。私が何かを選ぶ話ではなくて。姉の服を汚さずに帰ったかどうかの話になると思います」
「ここにいていい」
返事は早かった。
「客として。嫁がなくていい。リネ殿の傷が治るまででも、その後でも」
ミラは彼を見た。
親切にされると、何を渡せば釣り合うのか考えてしまう。今、自分が渡せるものは、姉の名のついた婚約だけだった。
それを差し出そうとした言葉を、飲み込んだ。
「あなたは、どうなりますか」
「父に怒られる」
「それだけですか」
「……この砦から外されるだろう。父は最初から、兄をここの主にしたがっていた。ここは王国から直接預けられた土地だ。継ぐのに町の承認が要る。俺が断れば、別の親族を据えるはずだ」
「あなたは、ここにいたいのですね」
彼は蝋燭の向こうを見た。
「十二の頃から、半分はここで育った。冬の風で門が鳴る音も、誰の家の煙が細ければ薪を運ぶべきかも知っている。まだ、ここでやりたいことがある」
ミラは窓へ目を向けた。暗くて町は見えない。けれど煙突の煙を思い出すことはできた。
「偽物だと知っても、二人で式に出たら、もっと悪いことになりますね」
「なる」
「でも、誰にも話さなければ、結局また親の決めたことになります」
ルーカスが姿勢を正した。
「町の方には、話せませんか」
「明日の立会人には話せる。全員の賛成をもらえるとは限らない」
「全員が嫌だと言ったら、やめましょう」
「一人でも強く反対するなら、式は延ばす」
ミラは頷いた。
彼のほうへ少し近づいた気がした。
深夜の食堂には、六人が集まった。
家令のバルト、医師のマルタ、橋番のノア、粉屋の老女ベス、守備隊長のガレス、そしてリネだった。エダは茶を持ってきて、出ていこうとして、ベスにつかまった。
「お前も明日、鐘を鳴らすんだろう。聞いときな」
事情を話し終えると、最初に口を開いたのはノアだった。
「つまり、いつもの若様が、そのまま主になるんですね」
「偽名でだ」
「名前で橋を直すわけじゃないんで」
ガレスが咳払いした。
「そう簡単にはいかん。王都から問われたとき、我々まで虚偽を述べたことになる」
「では、式では名前を呼ばないというのはいかがでしょう」
ミラが言うと、全員が彼女を見た。
「誓う相手の名前は、必要ですか」
バルトは考え込み、それから首を振った。
「古い式次第では、ここに立つ者、と呼びかけます」
「なら、その通りに。私は姉の経歴も、姉の功績も名乗りません。セレーネ様と呼ばれたら、すぐには訂正できないかもしれません。でも、この席では、私の名前を知っていてください」
膝で指を握った。
「ミラです。できることは多くありません。でも、人の手柄を自分のものだとは言いません」
ベスが、彼女の指を見た。
「あんた、縫物をするね」
「はい」
「その親指は?」
「衣装を直していて」
「明日着る分?」
頷くと、老女は立ち上がった。
「持ってきな。寝不足の花嫁に針を持たせちゃ、血染めの婚礼になる」
リネが、初めて声を上げて笑った。
ガレスは最後まで渋い顔だったが、ルーカスを見て言った。
「隠し続けるつもりなら反対です」
「春までに、王国へ事実を申し立てる。その責任は俺が負う」
「私もです」
ミラが言うと、彼は止めなかった。
「二人で負う」
それが、その夜の最初の約束になった。
部屋へ戻る廊下で、ルーカスが足を止めた。
「まだ断っていい」
「あなたもです」
「俺は、君となら結婚したいと思っている」
ミラは呼吸を忘れた。
彼は慌てて続けた。
「その、今のは、困っている者同士だから、というだけじゃない」
言い直したあと、彼はかえって困った顔になった。
「橋で、乳母殿を先にと叫んだだろう。岸へ着いたら、自分も震えているのに、あの人を笑わせた」
「泥汚れの話ですか」
「ああ。夕食でも、窓枠のことを言われて、また笑った。明日も君と話せたらと思っていた。名前を聞く前から」
ミラは廊下の灯りを見た。見ていないと、顔に出てしまいそうだった。
姉に似ていたところは、一つも挙がらなかった。
「お姉様なら、もっと上手にお話しできます」
「君の続きが聞きたいんだ」
返事が近かった。
顔を戻すと、ルーカスは目を逸らさずにいた。
「もちろん、客として残ってくれても嬉しい。でも、明日、俺の隣に立ってくれるなら、もっと嬉しい」
「……そのようにおっしゃると、断りにくくなります」
「すまない」
「嫌だからでは、ありません」
ようやく言うと、彼の口元が緩んだ。その顔を見て、ミラの頬まで熱くなった。
「寝室は別に用意させる」
「……まだ、その心配まではしておりませんでした」
ルーカスの耳が赤くなった。
それを見ているうち、ミラまで顔が熱くなった。
「私も、あなたとなら。少なくとも、窓枠を持ってきた方を、間違って好きになる心配はありませんから」
「忘れてくれないんだな」
「たいへん印象的でしたので」
彼は笑って、初めて彼女を名前で呼んだ。
「おやすみ、ミラ」
借り物の衣装を脱いでも残るものが、一つできた。
「おやすみなさい、ルーカス様」
自分の部屋へ入ってから、ミラは胸元の小さな石を握った。
明日、結婚する。
姉の代わりに来た場所で、姉が選ばなかった男と。
けれど今夜、その人と結婚すると決めたのは、ミラ自身だった。




