第04話 ここに立つ人
婚礼衣装の袖は、朝にはぴったりになっていた。
ベスはミラの前で両腕を組み、細めた目で出来栄えを確かめた。胸元に足された白いレースは、砦の蔵にあった古い帳の端だという。
「花に見えるところを取った。元は葡萄の蔓だけどね」
「きれいです」
「腹が減らない柄だ。長い式にはちょうどいい」
エダが吹き出し、リネが髪を結う手を止めた。
ミラは鏡の中を見た。知らない部屋、知らないレース、昨日知ったばかりの人々。なのに、実家の鏡の前より、自分の顔がよくわかった。
姉に似せるため、髪は高く結うはずだった。リネは今朝、その髪を低くまとめ、小さな白花を差した。
「よろしいですか」
「ええ。こちらが好き」
母の声で返事をする必要はなかった。
外壁の上には風が吹いていた。
ミラは裾を押さえ、狭い石段を上った。先にいたルーカスが手を差し出す。白い手袋ではなく、薄い鹿革の手袋をしていた。
「滑らないように」
「よい花婿の条件ですね」
「今朝、追加された」
下の広場には大勢の人がいた。パンを焼く人、幼い子を肩車した人、杖をついた老人。誰もが白い花や布を持っている。
期待が怖かった。
昨夜、七人に打ち明けたからといって、この全員が許してくれたわけではない。
ミラの手に力が入ると、ルーカスが少しだけ握り返した。
「名前のほかは、何も偽らなくていい」
小さな声だった。
「できないことは、できないと言おう。俺もそうする」
「できるように見せるのが、癖になっています」
「では、失敗したら俺に教えてくれ。二人で驚こう」
ミラは肩の力を抜いた。
石段の上には、腰ほどの高さの白石があった。左右に浅い窪みがあり、片方は北の山、片方は谷の道へ向いている。
バルトが古い文言を読んだ。
「ここに立つ二人は、閉ざすことのみを守りと思わず、開くことのみを慈しみと思わず」
ルーカスは北を向いた窪みに掌を置く。
ミラはもう片方へ手を置いた。
冷たいと思った石は、触れるとほんのり温かかった。
「互いの手を離すときは、去る先を伝えよ。戻れぬときは、待つ者を欺くな」
初めて聞く婚礼の誓いだった。
永遠に離れないと誓わせるより、ずっと厳しい気がした。
「この者と共に立つか」
「立ちます」
ルーカスが答えた。
ミラを見ていた。
姉の肖像ではなく、昨日泥の中から引き上げた女を。
「この者と共に立つか」
「立ちます」
ミラも答えた。
石へ息を吹きかけると、白い面に二本の細い光が走った。光は名前も紋章も描かなかった。ただ二つの掌の下を通り、外壁へ伸びた。
広場から歓声が上がる。
「おめでとう、若様!」
「奥様、寒かったら言ってくださいよ!」
最後の声はエダだった。隣のリネがその袖を引いている。
ルーカスが身をかがめた。
「頬に」
何が、と聞く前に、彼の唇がミラの頬へ触れた。
短い口づけだった。
けれど広場の音が、遠くなった。
「……先に、おっしゃってください」
「言った」
「もう少し、先に」
彼は困ったように笑った。耳が赤い。自分だけではないと思うと、恥ずかしさに少し嬉しさが混じった。
婚礼の宴は城の中庭で行われた。
ミラの席へ次々に人が来て、名前を言った。覚えきれず、途中から率直にそう告げると、粉屋の娘が紙片を持ってきた。
「父の名はユストです。顔は丸いほうです」
「丸くない粉屋もいるの?」
「祖母です」
ベスが遠くからこちらを睨んだ。
思わず笑ったとき、近くの男児が汁の入った椀を倒した。熱い汁が敷物へ広がり、子どもの顔が真っ白になる。
ミラは膝をついた。
「手は?」
「ご、ごめんなさい」
「手にかかった?」
首を振ったので、ようやく息をつく。濡れた敷物を畳み、エダに水を頼んだ。
子どもの母親が駆けてきて頭を下げる。
「お衣装まで、申し訳ございません」
「染みは下のほうです。立っていれば、私からは見えません」
母親は泣きそうになった。子どもは本当に泣き始めた。
ミラは少し困り、卓のパンを一つ渡した。
「これを持っていて。次の椀が来るまで」
「怒らない?」
「熱いものをこぼしたときは、最初に手を見せて。怒るか考えるのは、その後にします」
男児は両手を見せた。小さくて、指の間に土が入っていた。
その隣に、大きな手が出てきた。
ルーカスだった。
「俺も、いいだろうか」
彼の袖には赤い酒が染みていた。後ろでノアが青くなっている。
ミラは彼の手を両面ひっくり返した。
「お怪我はありませんね」
「ない」
「では、次の一杯が来るまで、パンを持っていてください」
ルーカスは従った。
卓の周りで笑いが起き、ノアもようやく息を吐いた。
ミラは姉の衣装の裾を見た。
戻ったら怒られるだろう。
でも、今はこの染みを、急いで隠さなくてもよかった。
宴の終わりに、ガレスが二人を壁へ呼んだ。
「試しておきましょう。明日、吹雪になるかもしれません」
石は薄く光っていた。ルーカスが北の掌印に触れると、遠くの外門の上に白い膜が現れる。ミラも手を置いた。
「道を開く側は、行き先をよく見るんだ。閉じたいところでなく、通したいところを」
ミラは橋の向こうの道を見た。昨日馬車が傾いた場所だ。
白い膜に細い切れ目が生まれ、そこだけ風の流れが変わった。
「できた」
ルーカスの声が嬉しそうで、ミラも微笑んだ。
だが次の瞬間、掌がぴりっと熱くなった。驚いて手を離すと、光は消えた。
「大丈夫か」
「熱くなって」
「長く続けるとそうなる。無理をすれば火傷をする。石が足りない力を体から取るんだ」
ガレスが水を差し出した。
「お二人だけで谷全部は守れません。門ごとの番人が風を逃がし、合図を送ります。あくまで、その助けです」
ミラは水を掌に垂らした。
魔法があれば、何もかも簡単になるわけではない。
ルーカスの手にも古い火傷の痕があった。
「一人で、試したことが?」
「昔、一度だけ」
「そのときは、誰に手を見せましたか」
彼は黙った。
ガレスが咳払いしたので、答えはわかった。
ミラは夫の手をつかみ、水をかけた。
「今度からは、見せてください」
「……承知した」
石の光はもう消えていたが、つないだ掌は温かかった。
夜、二人の寝室の前には、バルトが立っていた。
「お部屋を二つ、整えてございます」
「ありがとう」
ルーカスが答える。
「廊下の端同士ですとご不便でしょうから、隣へ」
不便の意味を考え、ミラは顔を上げられなくなった。
バルトはいつもと同じ顔で下がった。
「困ったら、壁を叩いてくれ」
ルーカスが言う。
「夜中でも?」
「いつでも」
「お水が欲しいときも?」
「それくらいなら、運べる」
冗談に、本気で答えられた。
ミラは扉の取っ手を握ったまま、振り返った。
「今日、あちらに立ったのがあなたで、よかったです」
彼の顔から、言葉を用意していたような表情が消えた。
しばらくして、静かに笑う。
「俺も、君でよかった」
部屋へ入ると、寝台の上に小さな包みがあった。
中身は、初めて会った日に食べ損ねた昼食の代わりだという、焼き菓子だった。添えられた紙には、窓枠の代わりにはならないが、とあった。
名前は、ルーカス。
ミラは包みを持って隣室の扉を叩いた。
出てきた夫が、心配そうに眉を寄せる。
「何かあったか」
「今後の不足分です」
焼き菓子を一つ差し出した。
二人で廊下に立って食べると、少しだけ塩がきいていた。
婚礼の一日は、そこでようやく終わった。




