第02話 たいへん丈夫な病人
砦の客室には、暖炉の火と、熱いスープがあった。
それだけのことで泣きそうになった自分を、ミラは誰にも見られたくなかった。だが城付きの医師がリネの額に包帯を巻いているあいだ、給仕の娘は遠慮なく彼女の顔をのぞき込んだ。
「薄かったですか?」
「いいえ。とても、おいしいです」
「よかった。料理長が塩を入れたか自信がないと言っていて」
娘は安心したように扉へ向かい、廊下へ顔を出した。
「入ってたって!」
向こうから、男の返事がした。
伯爵家なら叱られる振る舞いだった。けれど、聞こえてきた声はひどく嬉しそうで、ミラは匙を持ったまま笑った。
「失礼しました。わたし、エダです。奥様のお世話をします」
「まだ奥様では……」
「明日からです。予習です」
リネが寝台の上で、よく言ったという顔をした。
医師は安静にしていればよいと言った。荷物も引き上げられ、御者も馬も無事だった。馬車の窓だけが戻らない。
ミラがそのことを言うと、エダは小声になった。
「閣下が壊した物は、皆で壊したことにしております」
「頻繁にあるの?」
「階段の手すりを一度」
「それはお体の具合がよい日に?」
「とても」
話はそこで終わった。明らかに、終わらされた。
ミラはスープの上の湯気を見た。立派な砦で、従順に暮らしていればよいという母の言葉が蘇る。どの家にも、外へ出してはいけない事情があるらしかった。
夕食は花婿と二人だと聞かされていた。
ミラは長い食卓の片端に座った。向かいまで、蝋燭が七本あった。病人は七本の向こうに現れ、椅子を見て、眉を寄せた。
「もう少し近くではいけないのか」
家令らしい年配の男が、目を閉じた。
「正式なお迎えのお席でございますので」
「向こうで倒れられても気づかない」
「私は倒れません」
ミラが言うと、彼は口元を緩めた。
「では、俺が倒れたときに困る」
家令は諦めたように、隣り合った二脚に席を整え直した。
花婿は濃紺の上着を着ていた。襟には銀糸の模様があり、胸元には小さな白石の留め具がある。よく似合っていたが、左の袖口から見える擦り傷は、正装には似合わなかった。
「乳母殿は」
「大丈夫だそうです。助けていただき、ありがとうございました」
「俺だけではない。橋番のノアが、馬を静めてくれた」
「では、ノアさんにもお礼を」
「伝える。馬車の修繕は、こちらで」
「窓枠は返していただけますか」
「あれを持って挨拶したことは、忘れてくれないか」
「たいへん印象的でしたので」
彼は困ったように鼻の横をかいた。
目の前の皿に切り分けられた肉が載っている。ミラが姉に教えられた通り、小さく口へ運ぶと、隣の男は一切れを三つに分け、黙って付け合わせと順番に食べた。素早いが乱暴ではない。野営をする人の食べ方だと、父の猟師たちを思い出した。
「ここでの生活について、何か聞いているか」
「来春まで王都へ戻れない、と」
「戻りたいか」
「王都には、一度しか行ったことがありません」
言ってから、ミラはしまったと思った。
セレーネは毎月のように王都に滞在していた。
花婿の手が止まる。
「……あまり、外へ出ることを好まれないのだな」
「ええ」
嘘に嘘を塗ると、薄いところが余計に見える気がした。
彼も話題を変えた。
「明日の婚礼は、少し変わっている。祭壇ではなく、外壁の上で行う」
「病み上がりのお体に、障りませんか」
「ない。いや、少しはあるかもしれないが、休めば」
「お薬は?」
「苦い」
ミラは彼を見た。
彼は皿を見た。
「たいへん」
肩が震えそうになるのを、スープを飲む動作で抑えた。
だめだ。笑ってはいけない。
本人が何を隠していても、自分が偽物であることは変わらないのだから。
食後、家令が婚礼の手順を説明した。名はバルト。花婿が幼い頃から仕えているという。
新郎新婦は東西の門を一つずつ開き、壁上で手を合わせる。町の人々が見届け、古い守り石へ息を吹きかける。石には北風を受け流す力があり、婚礼を境に次の一組へ預けられるのだという。
「なぜ夫婦なのでしょう」
「昔、砦の主と谷の娘が結ばれたからでございます。片方は門を守り、片方は村々への道を開いた。それを忘れぬために」
「一人ではできないのですか」
「守り石を動かすには二人要ります。ただし、夫婦でないと光らぬわけではありません。長年務める者を選ぶ都合、婚礼と重ねているのです」
ミラは安心しかけ、すぐ困った。
長年務める。
自分は、返すかもしれないと言われた衣装を着てきただけなのに。
「もし片方が、別の人になったら?」
バルトの視線が一瞬、鋭くなった。
「選び直しには、前の組の立会いと、町の者の承認が要ります。死別の場合だけは別ですが」
「……そうですか」
「お嬢様」
家令は少し身をかがめた。
「ご不安がございましたら、今宵のうちに閣下へ。明日、人前にお立ちになってからでは、お話しにくいこともあるでしょう」
その声は脅しではなかった。
逃げ道を示されたように、ミラには聞こえた。
寝室へ戻る途中、開いた扉から声が聞こえた。
「兄上から、まだ返事は?」
花婿の声だった。
「ございません」
「王都にいるのは確かなんだな」
「伯爵夫人のお屋敷で、お姿を見た者がおります」
「病人が夜会とは、元気な話だ」
自嘲するような笑い。
ミラの足が止まった。
花婿は嫡男のはずだった。兄がいるなら、話が合わない。
「ルーカス様」
「その名で呼ぶな。どこで誰が聞くか」
もう、聞いていた。
ミラはそっと後ずさった。薄絨毯の上に、小さな留め金が落ちた。エダが渡してくれた、髪を留めるための銀の金具だった。
扉が開いた。
灰青色の目が、彼女を捉える。
「……何か用か」
「廊下を、歩いておりました」
「聞こえたか」
「どのあたりから、という意味でしょうか」
男は目を閉じた。
ミラは逃げなかった。逃げれば自分も、また何も言えないまま誰かの名前で生きることになる。
「お話がございます」
「俺にもある」
扉の内側には、小さな卓と、二人分の椅子があった。
今度は蝋燭が一本しかなかった。




