第01話 花嫁の余りもの
姉の婚礼衣装を着せられた朝、ミラのために用意されたのは、針と糸と、小さな鋏だった。
「袖が余っているわ。自分で直せるでしょう」
鏡の中で、姉のセレーネが紅を引く。ついさっきまで白い絹の袖に入っていた腕は、今は薄桃色の夜会服に収まっていた。
白より似合う、とミラは思った。白い絹が似合わないのではない。姉には、自分の意思で選んだものがよく似合った。
「出発は正午と聞きました」
「そう。だから急いで。お父様を待たせると機嫌が悪くなるもの」
その父は、廊下の向こうで客と笑っている。北のアーレンス辺境伯家へ花嫁を送る日にしては、軽やかな笑い声だった。
カーレン伯爵家の長女が、名誉ある縁談を受けた。
先月まで、家の誰もがそう言っていた。
辺境伯家の嫡男は、王都でも名を知られた美男だという。騎馬競技では王弟を負かし、夜会に立てば人の輪ができる。伯爵は婚約状を銀盆に載せて客に見せ、母は宝石箱を幾度も開けた。セレーネは嫁入り用の衣装を十二着誂えた。
ところが十日前、嫡男のヴァレリウスが重い病を患い、国境の砦で静養しているとの知らせが来た。
妻は砦で暮らすこと。婚礼は領民の前で行うこと。来春まで王都には戻れないこと。
その夜から、姉は花嫁でなくなった。
「ミラ。針目が曲がるわよ」
鏡を見たまま姉が言う。
ミラは膝に広げた袖をつまみ直した。姉の背丈に合わせた衣装は肩も腰も大きく、いくら丁寧に縫っても、どこか借り物のように見えた。
借り物なのだから、正しかった。
「あなたには願ってもないことよ。何も持たずに修道院へ入るより、ずっといいでしょう?」
「私は修道院に入るとは申し上げていません」
「お父様がそうお決めになっていたの」
初めて聞いた話だった。
ミラは二十一歳だった。家の帳簿を読み、客の食事を決め、姉の衣装を取りに行き、病気の使用人の代わりに薬屋へ走る間に、その歳になっていた。
自分の将来が会議にかけられたことは知らなかった。会議に出す菓子なら、選んだかもしれない。
「顔を曇らせないで。連れていく女中もつけたのよ」
「リネは私の乳母です」
「だから安心でしょう」
乳母という歳ではもうなかったが、姉にとって使用人の年月は、あまり増えないらしい。
扉が開き、母が入ってきた。
「まだできないの? セレーネの馬車が先に出るのよ」
「お姉様も出かけるのですか」
「王妃殿下の慈善音楽会よ。欠席なんてできないでしょう」
母はミラを頭から足まで眺め、首飾りへ手を伸ばした。大粒の真珠が三つ並んだものだ。
「これは置いていきなさい。道中でなくされては困るわ」
婚礼衣装に、首飾りの影だけが残った。
代わりに渡されたのは、小さな乳白色の石のついた鎖だった。ミラが十五のとき、故祖母にもらった品である。家を出る前に返してもらえただけでも幸運だった。
「お相手が快復なさったら、取り決めを考え直すこともできる。それまでは余計なことを言わず、セレーネとして振る舞いなさい」
母の口調は、雨が降ったら洗濯物を取り入れろというときと変わらない。
「相手のお家は、ご存じなのですか」
「親族の事情を、いちいち先方にお知らせする必要はないわ。肖像画は三年前のものだし、姉妹なのだから似ているでしょう」
「似ているのは髪だけです」
「では、よく髪を見せていればいいわ」
セレーネが吹き出した。
ミラも、危うく笑いそうになった。
笑えたら楽だった。こんなばかばかしい話を真顔で受け入れず、姉と一緒に、何をおっしゃるのと笑えたら。
けれど姉は、笑い終えるとミラの縫った袖を引いた。
「痛っ」
「針を残さないでよ。私の服なんだから」
姉の指先には、何も刺さっていなかった。針が刺さったのはミラの親指だった。
赤い珠が、白い絹の上に落ちる。
母が顔をしかめるより早く、ミラは袖を裏返した。
「隠します」
慣れた言葉だった。
家の中で起きた不都合は、ミラが隠すことになっている。
正午、花嫁の馬車には、熱い茶も昼食も載っていなかった。
先に出た姉の馬車へ、間違えて積んだという。取りに戻るには時間がない。御者が申し訳なさそうに言うので、ミラは大丈夫だと答えた。
リネだけが大丈夫ではない顔をしていた。
「奥様の部屋にございました焼き菓子を、いくつか」
膝掛けの下から包みを出す。
「盗んだの?」
「ミラ様の朝のお食事の不足分です」
「不足していないものまで入っているわ」
「今後の不足分です」
包みの中には干し杏と、硬いチーズと、小さな林檎が二つあった。
ミラは林檎を一つ、リネに渡した。古い門が遠ざかる。父は門まで来なかった。母は窓辺に立っていたが、手を振っていた相手が自分か、庭師か、ミラにはわからなかった。
「泣いてもよろしいんですよ」
「今泣くと、昼食がしょっぱくなるわ」
林檎をかじると、少し青かった。
知らない男と結婚する。
しかも、姉の名前で。
怖くないはずがなかった。偽物と知られたら罰せられるかもしれない。先方が怒って兵を出せば、父はきっと、娘が勝手にしたと言うだろう。
馬車が街道を曲がったとき、ようやくミラは息を吐いた。
「でも、昼食を二人で分けるかどうかは、私が決めていいのね」
リネが、林檎を持つ手を止めた。
それきり、帰ることを口にしなかった。
北へ進むほど、花嫁の風貌は礼儀から遠ざかった。
五日目には裾に泥がつき、七日目には道が崩れて、ミラも馬車を押した。式服は箱へしまい、普段着で旅をしているのは賢明だったと、御者が褒めてくれた。
八日目の夕方、山と山の間に灰色の城が見えた。
尖塔よりも外壁が目立つ城だった。町の屋根は低く、煙突から上がる煙が、夕空に細く並んでいる。
「グラント砦です」
御者が言った。
遠くで鐘が鳴り始めた。祝福の音にしては速く、続いて、道の脇にいた羊飼いが杖を振った。
「止まるな! 橋を渡れ!」
右手の山腹を、白い筋が走っていた。
雪ではない。石だった。
どっと音がして、馬が跳ねた。御者が手綱を引く。馬車は橋へ入ったが、後輪が欄干にぶつかり、箱の中の体が斜めに投げ出された。
リネの額が壁を打つ。
「リネ!」
返事がない。
扉を押すと下側が何かに引っかかった。外で御者が叫び、馬がいなないている。ミラは肩で扉を押した。重い。もう一度押す。
「中にいるか!」
男の声がした。
「二人です! 一人、頭を打っています!」
「窓から出られるか」
「先に、この人を!」
窓に外から短剣が差し込まれ、留め金が切られた。黒い手袋が枠をつかむ。次の瞬間、窓枠ごと外れた。
男は泥のついた外套を着ていた。髪は濃い褐色で、目は晴れる直前の空に似た灰青色だった。
「受ける。肩をこちらへ」
ミラはリネを抱き起こし、その肩を窓へ押した。男の後ろにもう一人来て、二人がかりで引き出してくれる。
橋の下で、石が水へ落ちる音がした。
「次は君だ」
差し出された手へ、ミラは手を伸ばした。
親指の傷に手袋が触れ、少し痛んだ。
「足を窓枠に。怖かったら俺だけ見ろ」
「怖くなくても、ほかに見られるものがありません」
男が一瞬、目を丸くした。
「それは責任重大だ」
引き上げられた勢いで、彼の胸に額がぶつかる。硬かった。鎧の下に人がいるという当たり前の事実が、なぜかひどくありがたかった。
岸へ降ろされると、ミラはすぐリネのところへ膝をついた。乳母は目を開けていた。額が切れていたが、ミラの名を呼ぶことはできた。
「大丈夫。大丈夫だから」
「ミラ様、お召し物が」
「今後の泥汚れを先に済ませたの」
今度は男が、はっきり笑った。
そのとき城から来た騎士が、彼へ叫んだ。
「ルー……閣下! 奥方のお迎えに、こんなところまで!」
男の笑みが消えた。
ミラも、動きを止めた。
閣下。
奥方。
視線が合った。彼はミラの普段着と、馬車の伯爵家の紋を見た。
「カーレン家の?」
「はい」
「セレーネ嬢か」
さっき、リネが本名を呼んだ。
聞こえていただろうか。
ミラは立ち上がった。泥のついた裾をつまみ、知っているいちばん丁寧なお辞儀をした。
「セレーネ・カーレンでございます」
親指の傷が、また痛んだ。
男は少しのあいだ黙っていた。それから、彼も礼をした。
「ヴァレリウス・アーレンスです。遠いところを、よくお越しくださった」
重病で静養しているはずの花婿は、馬車の窓枠を片手で持っていた。
ミラはその窓枠を見た。
男も、自分の手元を見た。
「……今日は、比較的具合がいい」
辺境へ来て初めて、ミラは家を出たことを後悔しなかった。
この人にも、たぶん何かある。
そしてどうやら、自分より少しだけ、嘘が下手だった。




