第8話 試される忠誠と、隠し味の汗
第8話 試される忠誠と、隠し味の汗
農園で働き始めて十日が過ぎても、レイモンドの体は朝の鐘を嫌っていた。宿舎の寝台から起き上がるたびに腰が軋み、手のひらの水ぶくれは硬い皮へ変わっていた。焦げ茶色の作業着には洗っても落ちない泥の染みが残り、長靴の片方にはノルが貸してくれた黄色い紐が結ばれている。食堂では豆とカブのスープが湯気を立てていたが、彼は匙を握ったまま、製造小屋の大鍋を思い浮かべていた。
「今日は腰が痛む。芋の選別くらいにしてもらえないか」
「俺に言われても困るよ。マルタに頼んでみろ」
「現場の仕事は、体の丈夫な者へ任せるべきだ。私は別のところで能力を使ったほうが、農園のためになる」
「昨日も同じ話をしていたな。ところで、その黒パンを食べないなら、俺がもらっていいか」
「これは食べる。話をそらすな」
製造小屋へ入ると、レイモンドは腰へ手を当て、マルタの前でわざとゆっくり歩いた。マルタは栗色の作業着に青い前掛けを着け、朝食で食べきれなかったゆで卵を布へ包んでいた。彼女はレイモンドの歩き方を一度見ただけで、洗い場の横に積まれた芋を指さした。外では雪解け水が屋根から落ち、桶へ一定の間隔で音を立てていた。
「腰が痛い。今日は休ませてもらいたい」
「医務室へ行っておいで。本当に傷めているなら、治るまで別の仕事へ回すよ」
「そこまでではない。少し休めば治る」
「なら、午前中は軽い芋の選別だ。腐ったものと傷のあるものを分けるんだよ」
「いや、今日は昔の知人が農園へ来ると聞いた。こんな格好を見られれば、商談に悪い影響が出る」
「あんたは商談に参加しないから心配はいらないよ。帽子を深くかぶって働きな」
レイモンドは布帽子を眉まで下げ、不満を口の中で転がしながら作業台へ向かった。しかし昼前になると、選別した芋の数を帳面へ多めに記し、空の麻袋を運ぶふりをして倉庫へ入った。倉庫の奥には藁束が積まれ、その陰には壊れた木箱が一つ置かれていた。彼は木箱へ腰かけ、外套の内側に隠していた固いチーズをかじった。
「少しくらい休んでも、全体の作業には影響しない。人数は大勢いるのだからな」
倉庫には乾いた藁と土の匂いが満ち、屋根裏ではネズミが走る音がした。レイモンドは壁へ背を預け、午後の鐘までここにいようと考えた。そこへ扉が開き、芋の入った籠を抱えたリーネが入ってきた。彼女は薄茶色の作業着の上へ灰色の毛糸の肩掛けを羽織り、額には細かな汗を浮かべていた。
「ここで何をしているんですか」
「倉庫の在庫を確認していた」
「何をいくつ確認したのですか」
「麻袋と木箱だ。お前たちには分からないだろうが、在庫の管理も重要な仕事だ」
「そのチーズも在庫ですか。食堂から持ち出したものなら、明日の分から引いてもらいます」
「これは自分で買ったものだ。いちいち私へ指図するな」
リーネは返事をせず、籠を床へ下ろした。彼女の手袋には泥が染み込み、右の袖口はほつれた糸で何度も縫い直されていた。製造小屋ではレイモンドが選別するはずだった芋が足りず、リーネが自分の練り作業を止めて探しに来たのだった。彼女は木箱に座るレイモンドを見たあと、壁へ掛けられた作業表を外した。
「あなたの欄には、選別済み十五籠と書いてあります。でも、運ばれてきたのは九籠です」
「帳面の記録が間違っているのだろう」
「その数字を書いたのは、あなたです」
「残りは誰かが別の場所へ運んだのかもしれない。六籠くらい、ほかの者がすぐに選べるだろう」
「その『ほかの者』とは誰ですか。マルタですか、ノルですか、それとも私ですか」
レイモンドは残ったチーズを布へ包み、外套の内側へ戻した。六籠程度で大げさに騒ぐなと言いかけたが、リーネの目の下には濃い影があり、唇は冬の乾燥で切れていた。彼女は毎朝、農園から歩いて三十分の家を出て、病気で働けない父親と七歳の弟のために働いている。今夜は弟の誕生日で、夕食に卵入りのパン粥を作ると、朝から何度も話していた。
「あなたがいなくなったせいで、作業が遅れています。私は帰る前に、残りの芋を選別しなければなりません」
「明日の朝に回せばよい」
「明日の原料に使います。今夜のうちに洗っておかなければ、朝の製造に間に合いません」
「それなら、残業の賃金が増える。損ではないだろう」
「弟が一人で待っているんです。お金を皿に盛っても、七歳の子どもの夕食にはなりません」
リーネの声が製造小屋まで届き、マルタとノルが倉庫へ入ってきた。マルタはレイモンドの作業帳を確かめ、実際の籠を一つずつ数えた。数字をごまかしたことが分かると、彼女は今週の賃金から規定分を減らすと告げた。レイモンドは立ち上がり、埃の付いた上着を手で払った。
「たった六籠ではないか。伯爵家では、その程度の間違いで騒ぐ者はいなかった」
「伯爵家では、誰かが黙って後始末をしていたんだろうね」
「私には領地を動かす仕事があった。細かな作業まで見ていられるわけがない」
「あなたは、何も見なかったのでしょう」
リーネは作業表を握ったまま、レイモンドを見た。倉庫の小窓から入る冬の日差しが彼女の頬を照らし、ほつれた袖から細い手首がのぞいていた。彼女は十一年前、自分の家族がレイモンドの領地にある小さな畑で暮らしていたと話し始めた。長雨が二か月も続き、畑の麦と豆が腐った年のことだった。
「父は納税を待ってほしいと、役所へ何度も願い出ました。母は病気で寝たきりでしたし、弟はまだ生まれたばかりでした」
「そのような家族は、ほかにも大勢いた。私は一件ずつ覚えていない」
「でしょうね。あなたは書類に署名しただけですから」
「領地を守るには規則が必要だ。納税を免除すれば、ほかの者まで払わなくなる」
「あなたは事情を調べませんでした。役人が持ってきた紙へ、『働かない者が悪い』と書き、畑を取り上げる命令へ署名したんです」
レイモンドの指が外套の留め金へ触れた。確かに、同じような文言を何度も書いた記憶はあったが、リーネの名前も家族の顔も思い出せなかった。机の上にはいつも香りのよい紅茶があり、会計係が書類を右から左へ並べ、彼は内容を数行だけ読んで署名していた。昼食には鴨肉のパイが出され、食べ終わるころには、どの家から畑を取り上げたのか忘れていた。
「畑を失ったあと、父は王都の工事場へ出ました。無理をして足を傷め、今も杖がなければ歩けません。母は薬を買えなくなり、その冬を越せませんでした」
「私は、知らなかった」
「知ろうとしなかったんです。あなたにとっては、帳面の一行だったのでしょう。でも、私たちには畑しかありませんでした」
「役人が適切に調べたものだと思っていた」
「それなら今度は、あなたが働かない分を誰が引き受けるのか、自分の目で見てください」
リーネは籠を持ち上げ、倉庫を出ていった。マルタも何も言わず、作業帳をレイモンドの胸へ押しつけた。ノルは床に落ちていたチーズの欠片を拾い、窓辺に置くと、ネズミにやるには塩が強いと小さくつぶやいた。倉庫に残されたレイモンドは、自分が多く記した六籠分の数字を指でなぞった。
その日の午後、レイモンドは黙って作業場へ戻った。選別されていない芋を籠から出し、腐った部分を切り落とし、傷の深いものを別の桶へ移した。腰は痛み、午前中に休んだ分だけ日暮れ後まで作業が続いたが、彼は帰ろうとしなかった。最後の籠を運び終えると、リーネは弟の待つ家へ走っていった。
「謝らなくていいんですか」
ノルに聞かれ、レイモンドは汚れた手袋を洗いながら首を振った。謝罪の言葉を口にして許してもらえば、胸の奥に残る重いものを早く下ろせるかもしれない。しかし、母親も畑も戻らないリーネに、その重さまで引き受けさせるのは違う気がした。水桶へ落ちた泥が渦を巻き、灰色の水になって排水溝へ流れていった。
「今、私が謝れば、彼女に許すか許さないかを選ばせることになる」
「謝るのは悪いことではないだろう」
「私が楽になるためだけなら、それも命令と変わらない。まず、明日の仕事をする」
「ずいぶん遠回りな考え方だな」
「これまで近道ばかり選んで、ここへ来たからな」
それからレイモンドは、朝の鐘が鳴る前に作業場へ立つようになった。腰が痛む日はマルタへ申告して軽い作業へ移ったが、倉庫へ隠れたり、帳面の数字をごまかしたりはしなかった。休憩になると冷めた香草茶を飲み、自分の黒パンの端を農園へ住みついた三毛猫へ少しだけ分けた。リーネは必要な指示以外の言葉をかけなかったが、レイモンドも無理に話しかけなかった。
二週間後、アフェクタ商会から千枚の板コンニャクを三日以内に納品してほしいという注文が届いた。王都で冬祭りが開かれ、職人街の食堂と貴族街の料理店から注文が重なったのだった。製造小屋には芋を蒸す匂いと白い湯気が満ち、昼から休まず大鍋が使われた。エルナは白いブラウスの上へ紺色の作業着を着て、事務所と製造小屋を何度も往復した。
「無理な注文なら断るべきではないか」
「農園主は、できる数を計算して引き受けています。今夜だけ全員で残れば間に合います」
「徹夜になるぞ」
「弟にはノルの母親が夕食を食べさせてくれます。私は残ります」
「そうか。では、私も残る」
夜が深くなると、製造小屋の窓は湯気で真っ白になった。労働者たちは交代で食堂へ行き、冷めたチーズパンと玉ネギのスープを腹へ入れた。レイモンドは前掛けの胸元を汗で濡らし、鍋の底から原料を返すように木べらを動かした。顎から落ちた汗は首へ巻いた布で拭き、鍋へ入らないように何度も布を交換した。
「汗は隠し味になりません。きちんと拭いてください」
「分かっている。お前は自分の鍋を見ていろ」
「速すぎます。温度が下がってきたので、もう少しゆっくりです」
「このくらいか」
「今度は遅すぎます。ほんの少しだけ速くしてください」
「注文が多いな」
「注文に応えられなければ、商品になりません」
真夜中を過ぎたころ、新人の少年が鍋の横へ座り込んだ。顔は青く、木べらを握る指にも力が入っていなかった。古いレイモンドなら、監督役を呼んで持ち場へ戻らせただろう。しかし彼は自分の鍋をリーネへ頼むと、少年の木べらを受け取った。
「食堂へ行って、温かいスープを飲め。戻れそうなら戻ればいい」
「でも、僕の鍋です。途中で離れたら減給されます」
「具合が悪いと申告して交代するのは、作業放棄ではない。契約書の三枚目に書いてある」
「覚えているんですか」
「一度、読まずに署名しようとして、農園主に取り上げられたからな。今度は覚えた」
少年が食堂へ向かうと、レイモンドは二つの鍋の間を行き来した。右の鍋を底から三度返し、左の鍋の温度を確かめ、気泡が入らないように木べらの角度を変えた。腕の感覚は薄れ、腰へ熱した鉄の棒を当てられたような痛みが走ったが、誰かへ押しつけて帰ろうとはしなかった。マルタが交代を申し出ても、少年が戻るまでは自分がやると答えた。
「無理をして倒れたら、余計に人手を取るよ」
「倒れる前に言う。今はまだ動ける」
「元伯爵の意地かい」
「そうではない。私が離れれば、また誰かの帰る時間が遅くなる」
「なら、木べらを少し寝かせな。肩の力も抜くんだよ」
空が白み始めるころ、最後の原料が木枠へ流し込まれた。レイモンドは鍋を洗い、木べらを元の場所へ戻すと、壁際の小さな椅子へ腰を下ろした。濡れた作業着からは汗と薪の煙の匂いがし、足元には誰かが置いた半分の冬リンゴがあった。彼はリンゴを一口かじったが、顎まで疲れていて、なかなか噛み切れなかった。
固まったコンニャクを、マルタが一枚ずつ確認した。表面はなめらかで、切った断面には大きな気泡がなく、指で押すと均一な弾力が返ってきた。リーネも端を薄く切り、湯へ通してから歯応えを確かめた。レイモンドは椅子から立ち上がり、結果を待った。
「今回だけは、売り物になります」
マルタの言葉は短く、拍手も歓声もなかった。レイモンドの名も、昔の身分も呼ばれず、ただ目の前のコンニャクが商品になると認められただけだった。それでも彼は、伯爵と呼ばれていたころより深く頭を下げた。額から落ちた汗が床へ一滴落ちたが、今度は誰かに拭かせず、自分で布を取りに行った。




