第9話 極上の刺身コンニャクに、完敗を知る夜
第9話 極上の刺身コンニャクに、完敗を知る夜
雪解け水が畑の脇を流れ、農園の土から若い草が顔を出すころ、王都から食品品評会の案内が届いた。エルナは生成り色のブラウスに紺色の仕事着を重ね、朝食の黒パンを片手に持ったまま、事務所で封書を読んだ。机には昨夜の香草茶と、土の付いた栽培帳が残り、窓辺では洗った白い前掛けが春の風に揺れていた。王都一の料理人や商会主が集まる品評会であり、最高賞を取れば、コンニャクを知らない地方へも名を広められる。
「出品するなら、煮込みではなく刺身コンニャクにします」
「味をごまかせない品を選ぶのかい。農園主も意地が悪いね」
「味をつけなくても美味しいと証明したいのです。滑らかさ、透明感、弾力のすべてを見てもらいます」
「それなら、担当者はレイモンドだね」
マルタがそう言うと、事務所にいた全員が彼女を見た。レイモンド自身も、飲みかけていた麦茶の器を口元で止めた。彼は焦げ茶色の作業着の袖をまくり、腰には温度を記録する小さな帳面を下げていた。以前より肩と腕は太くなったが、手の甲には古い火傷と新しい傷が残っていた。
「私でよいのか」
「嫌なら、リーネに頼むよ」
「嫌だとは言っていない。なぜ私なのかと尋ねている」
「あんたは失敗した数が一番多い。原料がどうなれば失敗するか、誰よりも知っているからね」
「褒められている気がしない」
「半分は褒めているよ。残り半分は事実だ」
刺身コンニャクには、煮汁や香辛料で隠せる部分がなかった。芋の繊維が粗ければ舌へ残り、水が多ければ弾力が弱くなり、練り方が乱れれば気泡で透明感が失われる。マルタは収穫した芋を一つずつ割り、色、香り、水分を確かめた。作業台の隅には昼食用のゆで卵が三つ並んでいたが、ノルが一つ持っていこうとすると、彼女は芋を見たまま手の甲を軽くたたいた。
「その卵は私の昼食だよ。欲しければ自分のをゆでな」
「一つくらい増えても減っても同じだと思ったんだ」
「レイモンドと同じことを言うんじゃない。一つの違いを見分けるのが今日の仕事だよ」
「私を悪い見本に使うな」
「役に立っているんだから、胸を張りな」
レイモンドは選ばれた芋の重さを量り、切った断面の色を帳面へ記録した。朝と昼の室温、水の冷たさ、蒸した芋の柔らかさ、練り始めてから粘りが出るまでの時間も、細かな文字で書き込んだ。最初のころは帳簿の合計さえ他人任せだった男が、今では窓を一枚開けただけで室温がどう変わるかまで気にしていた。リーネは横から帳面をのぞき込み、同じ数字が二度書かれている箇所を指で示した。
「ここは十六度ですか、それとも十八度ですか」
「最初が十六度で、竈へ薪を足したあとが十八度だ。書く場所が狭くなった」
「それなら、別の行へ書いてください。後から読んだ人が分かりません」
「私が分かればよいだろう」
「農園の記録です。あなたがいなくても作れるように残すんです」
「分かった。書き直す」
試作は一度で成功しなかった。最初の一鍋は水が少なく、弾力が強すぎて、噛むと顎が疲れた。二度目は原料の温度が下がりすぎ、表面に細かなむらが出た。三度目は滑らかに仕上がったものの、乳白色の中に小さな気泡が残り、光へかざすと曇った冬空のように見えた。
「これでも十分に売れる品質ではないか」
「品評会へ出すものは、十分では駄目です」
「食べれば味は同じだろう」
「舌触りが違います。もう一枚、薄く切って食べ比べてください」
リーネは二種類のコンニャクを同じ厚さに切り、冷水へさらしてから木皿へ並べた。片方は舌へ乗せたときにわずかなざらつきがあり、もう片方は水の膜をまとったように滑らかだった。以前のレイモンドなら、どちらも灰色の安い食材だと言って皿を遠ざけただろう。今は目を閉じて何度も噛み、弾力が戻る速さまで確かめた。
「二枚目のほうが、噛んだあとに形が戻るのが早い」
「そうです。それから、一枚目には芋の匂いが少し残っています」
「水へさらす時間を延ばすべきか」
「その前に、練るときの温度を見直したほうがいいと思います」
「では、明日は窓を閉めて試そう」
四度目から、レイモンドは自分から失敗の原因を探すようになった。原料が木べらへ絡む重さを確かめ、水を半杯ずつ調整し、同じ速度を保てるよう砂時計を作業台へ置いた。夕食の鐘が鳴っても帳面から顔を上げず、マルタに耳を引っ張られて食堂へ連れていかれる日もあった。食堂では鶏肉とキャベツのスープが冷め始め、黒パンの上に置かれたチーズの端が乾いていた。
「食べずに良い仕事はできないよ」
「あと一行だけ書く」
「その台詞は十行前にも聞いた。スープへ顔を突っ込む前に、匙を持ちな」
「昔は食事を待たせても、料理人が温め直した」
「ここでは鍋を洗ったら終わりだよ。冷めたものを自分で食べな」
「分かっている。だから急いで書いている」
品評会へ出す製造日には、夜明け前から選別作業が始まった。レイモンドは洗いたての白いシャツに紺色の厚手の作業着を重ね、髪を布の中へ入れた。リーネは水を量り、マルタは芋の状態を確かめ、ノルは竈の火を一定に保った。作業台の片隅には夜食用の豆パンと冬リンゴが置かれ、湯気の向こうでは三毛猫が扉の隙間から中をのぞいていた。
「猫まで見物に来たぞ」
「入れてはいけないよ。毛が商品へ入ったら、猫にも責任を取らせるからね」
「猫は契約書を読まないだろう」
「読まずに署名しようとした誰かより、慎重かもしれないよ」
「いつまで昔の話をするつもりだ」
「品評会で賞を取るまでさ。手を動かしな」
粉砕した原料を大鍋へ移すと、レイモンドは長い木べらを握った。最初は底からゆっくり返し、粘りが出るにつれて腕の動きを調整した。室温が下がるとノルへ薪を一本足すよう頼み、水分が足りないと感じると、リーネへ量を確認してから少しずつ加えた。誰かに命令して任せるのではなく、四人が同じ鍋の状態を見ながら動いた。
「温度は」
「二十一度です。先ほどより一度上がりました」
「薪はもう足さないでくれ。マルタ、粘りを見てほしい」
「まだ少し早い。あと百回、底から返すんだ」
「百回も必要なのか」
「九十九回で止めたいなら、その理由を説明してみな」
「百回やる」
夜が深まると、レイモンドの腕は鉛のように重くなった。木べらの柄が手のひらの硬い皮へ食い込み、古い水ぶくれの下から新しい血がにじんだ。リーネが布を巻き、交代すると申し出たが、彼は首を横へ振った。途中で力加減が変われば、せっかく整った原料にむらが出ると思ったからだった。
「手の皮がむけています。ここからは私がやります」
「速度を変えたくない。この鍋は最後まで私が練る」
「無理をして失敗したら、全部やり直しです」
「無理になる前に言う。今はまだ、木べらを同じ角度で動かせる」
「倒れたら、鍋より先にあなたを運び出しますからね」
「そのときは頼む。だが、できれば原料を先に木枠へ移してくれ」
「人間よりコンニャクを優先しないでください」
夜食には、玉ネギと豆の温かなスープが配られた。レイモンドは木べらから片手を離せないため、ノルが黒パンを小さくちぎり、口元へ差し出した。最初は自分で食べられると断ったが、片手から木べらが滑りそうになり、結局、口を開けた。固い黒パンには香草バターが薄く塗られ、塩気が汗をかいた体へ染み込んだ。
「元伯爵様へパンを食べさせる日が来るとは思わなかった」
「余計なことを言わず、もう一切れよこせ」
「はいはい。次はリンゴにしますか」
「今はパンだ。リンゴを噛む余裕はない」
「注文の多い職人だな」
「職人と呼ぶには、まだ早いよ」
マルタが鍋をのぞき込みながら言うと、レイモンドは返事をせず、木べらを動かし続けた。やがて原料は均一な艶を持ち、持ち上げると途切れずに滑らかに落ちるようになった。凝固剤を加える瞬間には全員が持ち場につき、気泡を入れない速さで混ぜ、温度が変わる前に木枠へ流し込んだ。表面をならし終えたころ、東の窓が淡い桃色に染まり始めた。
湯を通してから一晩冷やすと、乳白色に透き通った刺身コンニャクが完成した。光へかざすと内部に大きな気泡はなく、切った断面は濡れた絹のように滑らかだった。指で押せば柔らかく沈み、離すとゆっくり元の形へ戻った。マルタは一片を口へ入れ、十分に噛んでから、ようやくうなずいた。
「これなら王都へ持っていける」
「最高賞を取れるか」
「審査員に聞きな。私はコンニャクは作れても、未来までは作れないよ」
「駄目な点はないのか」
「今のところはね。あんたの顔がひどいこと以外は、問題ない」
春の食品品評会は、王都中央広場の大きな石造りの会館で開かれた。赤や黄色の天幕の下には、熟成チーズ、燻製肉、蜂蜜菓子、果実酒などが並び、香辛料と焼いた肉の匂いが広い会場を満たしていた。エルナは深緑色のドレスに生成り色の上着を合わせ、胸元へ小さな銀色の芋の飾りを着けていた。レイモンドは新しい紺色の作業着を着たが、手袋はせず、荒れた手をそのまま膝の上へ置いていた。
「なぜ私は、客席の後ろなのだ」
「製造担当者の席です。前列は審査員と出品責任者の席です」
「昔なら、私は最前列に座っていた」
「昔の話をするなら、昔はコンニャクを灰色の石と呼んでいたでしょう」
「そこまで言ってはいない」
「似たようなことは言ったはずです。黙って審査を見てください」
審査員は刺身コンニャクを薄く切り、まず何もつけずに口へ運んだ。次に香草酢味噌を少量添え、舌触り、香り、弾力を確かめた。レイモンドは自分が食べるときよりも口元へ力を入れ、審査員の眉や指先の動きを見つめた。隣のノルが蜂蜜菓子の試食をもらってきても、手を出さなかった。
「極上食品部門、最高賞は、エルナ農園の刺身コンニャクです」
名が読み上げられると、会場に拍手が響いた。エルナが壇上へ上がり、銀色の記念皿と賞状を受け取った。マルタは腕を組んだまま大きくうなずき、ノルは自分が受賞したように両手を上げた。リーネは拍手をしながら、隣に座るレイモンドを一度だけ見た。
「取りましたね」
「ああ」
「もう少し、うれしそうな顔をしたらどうですか」
「顔の動かし方を忘れた。今はそれどころではない」
祝宴が終わった夜、農園の食堂には受賞を祝う鶏の丸焼きと、豆や根菜を入れたスープが並んだ。誰かが赤い布を壁へ飾り、三毛猫には特別に鶏肉の端が与えられていた。労働者たちは蜂蜜酒を飲み、ノルは三度も同じ自慢話を繰り返したが、レイモンドは食堂の隅で水を飲んでいた。自分で作った刺身コンニャクは、品評会へすべて運んだため、まだ味見をしていなかった。
「こちらへ来てください」
エルナは残しておいた端の一切れを、よく研いだ包丁で薄く切った。白い木皿へ扇のように並べ、刻んだ香草を混ぜた酢味噌を小さな器に添えた。刺身コンニャクは灯火の下で乳白色に透き通り、表面には冷たい水の粒が光っていた。エルナはその一皿を、レイモンドの前へ静かに置いた。
「製造担当者の確認用です。食べてください」
「私が食べてもよいのか」
「そのために残しました。酢味噌はつけすぎないでください」
「それくらい分かっている」
「昔のあなたなら、全部かけたあとで味が濃いと文句を言いました」
「……少しだけにする」
レイモンドは薄い一切れを木の箸でつまみ、酢味噌を端へ少しだけつけた。口へ入れると、冷たい舌触りのあとに、柔らかく歯を押し返す弾力があった。噛むほどに香草の青い香り、酢味噌の酸味、蜂蜜のほのかな甘みが広がり、そのすべてを滑らかなコンニャクが受け止めていた。喉を通ったあとも、芋の雑味は残らなかった。
レイモンドは二切れ目をつまんだが、すぐには口へ入れなかった。この一皿のために、農家が土を耕し、長い月日をかけて芋を育てた。荷車を引いて運んだ者がいて、冷たい水で泥を落とした者がいて、薪を割り、火を守り、夜通し大鍋を練った者がいる。白い皿の上にあるのは安い灰色の板ではなく、それぞれの労働時間を重ねた食べ物だった。
「昔の私は、これを食べても、皿の値段しか尋ねなかっただろう」
レイモンドは荒れた手の甲で目元を拭った。むけた手の皮には薬草を塗った跡が残り、爪の間には洗っても落ちなかった黒い汚れがあった。エルナは慰める言葉も、過去を許す言葉も口にしなかった。空になりかけた皿へ視線を落とし、製造責任者として評価を告げた。
「よい仕事でした。賃金に特別手当を加えておきます」
「それだけか」
「ほかに何かありますか」
「いや、それでいい」
復縁の約束も、もう十分に償ったという言葉もなかった。レイモンドは最後の一切れをゆっくり噛み、皿に残った酢味噌まで黒パンで拭って食べた。食事のあと、エルナから渡された小さな賃金袋には、通常の賃金と銀貨の特別手当が入っていた。彼は袋を何度も開けたり閉じたりしてから、作業着の内側へ大切にしまった。
「何に使うんですか」
帰り支度をしていたリーネが尋ねた。彼女は白いブラウスに灰色のスカートをはき、弟への土産に蜂蜜菓子を二つ包んでいた。レイモンドは賃金袋を握り、食堂の壁に掛けられた古い時計を見上げた。伯爵だったころには銀貨一枚の行方も知らなかったが、今は袋の重さが何時間分の労働なのか分かった。
「新しい手袋を買う。残りは貯める」
「昔の借金を返すためですか」
「まず、誰に何を返さなければならないのか、自分で調べる。そのための帳面も買う」
「そうですか」
「リーネ、今日の製造記録で抜けているところがあれば、明日教えてくれ」
「自分で確かめてから持ってきてください。間違っていたら指摘します」
「分かった。そうする」
リーネは頭を下げず、蜂蜜菓子の包みを抱えて食堂を出ていった。レイモンドも誰かに外套を着せてもらうことなく、自分で袖を通し、床へ落ちたパン屑を箒で集めた。外には柔らかな春の雨が降り、畑の土から湿った匂いが立ちのぼっていた。彼の手元には、自分で作った一皿の味と、自分で働いて得た賃金が、確かな重さを持って残っていた。




