表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/13

第10話 ざまぁの果てに、それぞれの新しい朝

第10話 ざまぁの果てに、それぞれの新しい朝


 離縁から五年後、エルナ農園の朝は、荷車の車輪が石畳を鳴らす音から始まるようになった。まだ薄暗いうちから、山間部の村で収穫されたコンニャク芋が運び込まれ、加工場の煙突からは白い煙が立ちのぼった。農園の周囲には、大きな加工場、労働者の食堂、品種改良を行う研究所、幼い子どもを預かる託児所が建っている。五年前には腰まで伸びた雑草と石しかなかった荒れ地を、今では何百人もの足が毎日行き来していた。


「北の村から芋が二十籠届きました。栽培記録も一緒です」


「傷みのあるものは研究所へ回してください。新しい保存方法を試すそうです」


「託児所から、昼食用のコンニャクをもう十枚ほしいと連絡が来ました。子どもたちがおかわりするそうです」


「小さく切って、よく煮るように伝えてください。急いで食べる子がいるでしょうから」


 朝の事務所で、エルナは生成り色のブラウスに深緑色の仕事着を重ね、次々と報告を受けていた。机には王国各地の販売記録と、隣国の商会から届いた契約書が積まれ、その横には食べかけの干しリンゴが三切れ残っていた。窓辺の花瓶には託児所の子どもが摘んだ黄色い野花が挿され、一本だけ茎が短いため、器の縁へ引っかかるように浮いていた。エルナはその花を指で直してから、農家へ支払う今月分の栽培料を確かめた。


「農園主、今年は若い苗の買い取り額を上げるのですか」


「病気に強い品種を育てた農家には、研究協力の対価を別に支払います。芋の代金だけでは、費やした時間に見合いません」


「女性たちが持っている加工技術については、どうしますか」


「製法を教えた人へ指導料を支払い、商品化された場合は売上の一部を還元します。家の台所で受け継がれた技術だから無料、という扱いはしません」


 かつて名も記録も残らなかった山村の女性たちは、今では正式な技術指導者として農園へ招かれていた。灰汁の抜き方、芋の乾かし方、季節に応じた水加減など、長年の経験から生まれた知恵が帳面へ記録され、その一つ一つに対価が支払われている。農園から届いた銀貨で屋根を直した家があり、冬用の靴を子どもへ買った母親もいた。食堂の掲示板には、孫が生まれたという報告や、飼っていた山羊が逃げたという知らせまで、仕事とは少し関係のない紙が何枚も貼られていた。


「農園主、おはようございます」


 事務所へ入ってきたリーネは、白いブラウスに濃紺の上着を着て、腰へ栽培記録の帳面を下げていた。五年前には袖口を何度も縫った作業着を着ていたが、今は栽培部門の責任者として、十二の村と契約農家をまとめている。手には新しい畑の権利証があり、布で包んだ弁当からは、焼いたチーズと香草の匂いがした。弟が早起きして作ってくれたため、パンの厚さが一枚ずつ違うのだと、彼女は少し笑った。


「例の畑は、どうなりましたか」


「昨日、正式に買い戻しました。父と母が耕していた畑です」


「お父様はご覧になりましたか」


「杖をついて、一番奥まで歩きました。土を一握り持ち帰って、暖炉の横へ置いています」


「そこで、またコンニャク芋を育てるのですか」


「いいえ。最初の年は豆を植えます。父が、芋ばかり見ていると夢にまで灰色の板が出てくると言うので」


 リーネの家族から畑を取り上げた命令は、なかったことにはできない。母親は帰らず、父親の傷めた足も元には戻らなかった。それでもリーネは自分の賃金を貯め、誰かに与えてもらうのではなく、自分の名義で土地を買い戻した。エルナは祝いの言葉を伝え、春の作付けに必要な種について相談する日を帳面へ記した。リーネも頭を下げるだけではなく、栽培責任者として午後の会議に遅れないよう念を押した。


「王都の晩餐会から戻った翌日でも、会議はありますからね」


「分かっています。朝一番で戻ります」


「以前、一度だけ寝坊しました」


「あれは馬車の車輪が壊れたのです。寝坊ではありません」


「農園主も言い訳をするんですね」


「必要な説明です。言い訳とは違います」


 昼前、アフェクタ商会のバルドが事務所へ到着した。上等な黒い外套を着ていたが、道の泥が裾へ跳ね、右の靴には荷馬車から落ちた藁が一本ついていた。彼は挨拶より先に、隣国の三つの都市へコンニャクを輸出する計画書を机へ広げた。保存期間、輸送費、現地の食文化、販売価格まで細かく記されていたが、試食会の欄だけは空白だった。


「隣国では、灰色の食べ物を葬儀料理だと思う地域がある。板のまま売れば、王都で最初に売ったときと同じ失敗をするぞ」


「現地の料理人と一緒に食べ方を考えましょう。魚の煮汁を使う地域なら、コンニャクへ味を染み込ませられます」


「香辛料の強い地域では、細く切って炒めてもいい。まず料理人を三人招く」


「農家と製造担当者も同行させてください。売る人だけでなく、作る人が説明できるようにします」


「費用が増えるぞ」


「失敗して全商品を持ち帰るより安いでしょう」


 バルドは眉を上げたあと、計画書へ同行者の費用を書き加えた。五年前のエルナは、夫の許可がなければ契約書へ署名することもできなかった。今夜は王国を代表する実業家として、王宮の晩餐会へ招かれている。誰かの妻として夫の隣へ座るのではなく、自分の商会と、そこで働く人々を代表して席へ着くのだった。


「馬車は午後に出る。泥のついた仕事着で晩餐会へ行くつもりではないだろうな」


「着替えは用意しています。ただし、その前に加工場を見ていきます」


「王宮では香油の匂いがする貴族に囲まれるぞ。芋の匂いを落としてから来い」


「バルドこそ、靴の藁を取ったほうがいいですよ」


「これは商会主の威厳だ」


「山羊小屋の威厳に見えます」


 そのころ、加工場ではマルタが新しい製造主任たちを指導していた。白髪の増えた髪を赤い布で包み、栗色の作業着の上へ黄色い前掛けを着けている。以前と変わらず大きなお玉を持っていたが、自分で鍋を練る時間より、若い職人の手元を見る時間のほうが長くなっていた。休憩台には冷めた香草茶と干し肉が置かれ、三毛猫が干し肉を狙って前脚を伸ばしていた。


「力任せに混ぜない! 底から返すんだよ。五年前にも同じことを言った男がいたね」


「それは私のことか」


 隣の鍋に立っていたレイモンドが、汗拭き布で額を拭きながら振り返った。彼は紺色の作業着に白い前掛けを着け、手には使い込んだ木べらを握っていた。爵位も屋敷も戻っていないが、今では加工場の熟練職人として、新人へコンニャクの練り方を教えている。腰を守るための幅広い布を巻き、温度と水分量を記録する帳面を胸のポケットへ入れていた。


「自覚があるなら、返事をせずに手本を見せな」


「新人の鍋は温度が高すぎる。窓を少し開けよう」


「外気は冷たいです。どのくらい開ければいいですか」


「指二本分だ。開けすぎると、今度は急に温度が下がる。木べらを持つ手も止めるな」


「二つ同時には難しいです」


「私も最初は、温度を見れば手が止まり、手を動かせば泡を入れた。最初からできる者はいない」


 新人の青年が木べらを動かす横で、レイモンドは原料の艶と粘りを確かめた。以前なら失敗した者を怒鳴り、後始末を命じただろうが、今は失敗の原因を一つずつ説明していた。新人が昼の鐘を気にすると、休憩まであと何回混ぜるかを一緒に数えた。食堂ではコンニャク入りの鶏スープと、ゆで卵を挟んだ黒パンが待っていた。


「この鍋が終われば、昼食だ。今日は卵がつくらしい」


「焼き加減は選べますか」


「選べない。農園主に聞いたら、自分で買って焼けと言われるぞ」


「誰がそんなことを聞いたんですか」


「五年前の、仕事を始めたばかりの愚かな男だ」


 午後になると、王都へ向かうエルナの馬車が事務所前へ着いた。エルナは深い青色のドレスを着て、その上から薄灰色の外套を羽織っていた。耳には小さな銀の飾りを着けていたが、膝の上に置いた手袋には畑でついた泥が残っている。新品へ替えるようミラに言われたものの、手になじんでいるからと、そのまま持ってきたものだった。


 レイモンドは加工場から出て、馬車の横まで見送りに来た。五年前なら、晩餐会へ出席するのは自分であり、エルナは装飾品の一つのように隣へ座っていた。今では彼女のもとへ貴族や商人が集まり、意見と契約を求めている。レイモンドは馬車の車輪へ付いた泥を見ながら、両手を体の前で重ねた。


「王都へ行くそうだな」


「ええ。隣国との交易について、宰相とも話す予定です」


「昔なら、私も一緒に行くと言っただろう。お前の成功に、自分の名を載せるために」


「今は言わないのですか」


「私には、午後の鍋がある」


 エルナは馬車へ乗り込まず、レイモンドの次の言葉を待った。春の風が二人の間を通り、加工場から薪の煙と煮た芋の匂いが流れてきた。託児所の庭では子どもたちが泥団子を作り、一人だけ靴を左右逆に履いた子が、先生に追いかけられていた。レイモンドはその様子へ一度目を向けてから、エルナへ向き直った。


「あなたに認めてもらうために、働いていた時期があった」


「知っています」


「いつか許されたら、以前の暮らしへ戻れるとも考えていた。だが、私が働いたからといって、失わせたものが戻るわけではない」


「そうですね」


「今は、明日の自分が今日の自分を恥じずに済むように働いている。失敗すれば片づけ、分からなければ聞き、受け取った賃金で暮らす。それだけだ」


 エルナは黙ってレイモンドの顔を見た。そこには貴族用の香油も整えられた口ひげもなく、目尻には五年前より深い皺が刻まれていた。作業着の胸元にはコンニャクの白い原料が一滴乾き、爪の間には朝の芋洗いで入った土が残っている。エルナは泥のついた手袋を持ち直し、静かにうなずいた。


「それなら、もう私の許しは必要ありません」


「ああ。あなたが許さなくても、明日の仕事はする」


「復縁もありませんよ」


「分かっている。自分が手放したものを、働いた褒美として返せとは言わない」


「では、体に気をつけて。無理をして倒れれば、周りの仕事が増えます」


「相変わらず、言い方が厳しいな」


「必要な説明です。言い訳とは違います」


 レイモンドは口元をわずかに緩め、深く頭を下げた。伯爵だったころ、彼へ頭を下げる者は大勢いたが、自分から誰かへこれほど丁寧に頭を下げたことはなかった。エルナも貴族夫人の作法ではなく、仕事仲間へするように軽く頭を下げた。それから馬車へ乗り込み、隣国との契約書を膝の上へ広げた。


 御者が手綱を動かすと、馬車はゆっくり農園を離れた。レイモンドは門の外まで見送ったが、やがて加工場から、かん、かん、と聞き慣れた音が響いた。マルタが大きなお玉で鍋の縁を打ち鳴らしているのだった。鳥たちが驚いて屋根から飛び立ち、託児所の子どもまで同じ音をまねて、木の匙で桶をたたき始めた。


「レイモンド! 見送りは勤務時間に含まれませんよ!」


「五年間、一度も遅刻していないだろう!」


「今日が一度目になりそうだね!」


「今行く!」


 レイモンドは外套の裾を持ち上げ、加工場へ向かって走り出した。途中で長靴がぬかるみにはまり、片足だけ靴下で二歩進んだため、近くにいた新人たちが声を上げて笑った。彼は怒鳴り返さず、泥から長靴を引き抜くと、片足で跳ねながら履き直した。加工場には洗い終えた芋と、火にかけられた大鍋と、今日も自分の手で賃金を得る一日が待っていた。


 一方、馬車の窓から農園を振り返ったエルナは、泥のついた手袋を膝へ置いた。加工場の煙突、食堂の赤い屋根、研究所の大きな窓、託児所で干されている小さな靴下が、春の日差しの中で少しずつ遠ざかっていった。慰謝料代わりに押しつけられた荒れ地は、今では農家、職人、料理人、研究者、その家族の暮らしを支える土地になっている。価値がないと言われた芋も、不要だと扱われた妻も、正しく育て、磨き、世へ届ければ、誰にも奪えない価値を持つことを、エルナは自分の手で証明した。


「農園主、王都まで三時間ほどかかります。少しお休みになりますか」


 向かいに座るミラは、桃色の上着を着て、布包みから蜂蜜菓子を二つ取り出した。五年前に約束した菓子と同じ店で買ったもので、片方だけ焼き色が少し濃かった。エルナは新しい契約書を開きながら、濃い色のほうを自分の分として受け取った。馬車の中には蜂蜜とバターの甘い匂いが広がった。


「契約書を確認してからにします」


「また冷めて固くなりますよ」


「では、食べながら読みましょう。半分ずつにしますか」


「今日は一人一つです。農園主になって五年もたつのですから、それくらいの贅沢は許されます」


「そうね。では、いただきます」


 エルナは蜂蜜菓子を一口食べ、指についた欠片を白い布で拭いた。窓の外には、まだ耕されていない土地と、コンニャクを待つ新しい町が続いている。彼女は隣国の商会が提示した条件へ目を通し、農家と技術者へ支払う対価の欄に赤い印をつけた。その顔には、伯爵夫人だったころには一度も浮かべられなかった、自分の人生を生きる者の笑みがあった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ