表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/13

第6話 藁をもすがる元夫、コンニャク農園の門を叩く

第6話 藁をもすがる元夫、コンニャク農園の門を叩く


 最後の薪が燃え尽きてから三日目の朝、レイモンドは借家の床で目を覚ました。薄い毛布を二重に巻いて眠ったはずなのに、手足の先は石のように冷え、窓の内側には白い霜が張りついていた。台所の棚には燕麦も黒パンも残っておらず、欠けた木皿の上に塩が数粒落ちているだけだった。水差しの表面には薄い氷が浮き、息を吹きかけても簡単には解けなかった。


「今日こそ、仕事を見つけなければならない」


 レイモンドは黒い外套の襟を立て、麻布を首へ巻いた。灰色のシャツは三日前から同じもので、袖口には倉庫で働いたときの小麦粉が白く残っていた。鏡はすでに売ってしまったため、雨戸の金具へ映る歪んだ顔を見ながら、手櫛で髪を後ろへ整えた。腹が鳴ると、昨夜飲んだ湯の味と、雪の上へ落としたコンニャク煮込みの匂いが同時によみがえった。


 市場へ向かう途中、パン屋の裏口では、見習いが焦げたパンを木箱へ捨てていた。レイモンドは足を止め、もらえないかと声をかけようとしたが、見習いがこちらを向くと、道を尋ねるふりをして視線をそらした。少し先の野菜屋には、以前拾えなかったキャベツの外葉があり、今日は雪の上で半分凍っていた。手を伸ばしたものの、近くを歩く婦人たちの笑い声が聞こえると、彼は何も取らずに歩き出した。


「エルナ農園なら、働き手を増やしているらしいよ」


「コンニャクが売れすぎて、芋を洗う人まで足りないそうだ」


「昼には温かいスープも出るんだって。うちの弟も雇ってもらおうかしら」


 通りすがりの二人が話す声を聞き、レイモンドの足が止まった。エルナの前へ出れば、先日の市場で子どもの手を払ったことを思い出されるだろう。それでも借家へ戻ったところで、冷えた鍋と欠けた椅子が待っているだけだった。彼は外套の留め金をきつく締め、王都の北門へ向かう荷馬車の後ろを歩き始めた。


 エルナ農園までは、歩いて二時間ほどかかった。街道には昨夜の雪が残り、穴の開いた靴から染み込んだ水が靴下を濡らしていた。道の途中で何度か立ち止まり、凍った水たまりに張った氷を靴先で割ると、昔、伯爵家の庭園で使用人が雪を片づける様子を暖炉の前から眺めていたことを思い出した。そのころの彼は外出用の革靴へ泥が一滴ついただけで、従僕に磨き直させていた。


「こんな道くらい、馬車を走らせればよいものを」


 口にしてから、レイモンドは自分が馬車を持っていないことに気づいた。農園の門へ着いたころには昼近くなり、外套の裾には泥が跳ね、前髪は雪で濡れて額へ張りついていた。木製の門の向こうには広い畑と作業小屋があり、荷車を押す者、芋を運ぶ者、湯気の立つ桶をかき混ぜる者が忙しく行き来していた。空気には土と薪の煙が混じり、食堂らしい建物からは、炒めた玉ネギと鶏だしの匂いが流れてきた。


「そこで何をしている。納品なら荷札を見せておくれ」


 声をかけてきたのは、栗色の厚手の作業着を着た大柄な女だった。赤い毛糸の帽子から白髪交じりの髪がはみ出し、腰には麻縄と小さな木槌を下げている。彼女はマルタという現場責任者で、片手にはかじりかけの焼き芋を持っていた。レイモンドが名乗ると、マルタは焼き芋を噛んだまま、頭から濡れた靴までをゆっくり見た。


「私はレイモンドだ。農園主のエルナに会いたい。重要な話がある」


「農園主は帳簿の確認中だよ。重要ではない話なら、午後にしておくれ」


「私が重要だと言っている。以前は彼女の夫だった」


「以前の夫が芋を運んでくれるのかい。それなら、あの荷車から頼むよ」


「私は荷車を押しに来たのではない。経営について助言しに来たのだ」


「それなら、もっと役に立たなそうだね。まあ、事務所はあっちだよ。床を泥だらけにしたら、自分で拭くんだよ」


 事務所の中では、小さな鉄の暖炉が燃えていた。壁には農地の地図と作業予定表が貼られ、窓辺には誰かが洗った手袋が六組並べて干されていた。机の隅には冷めた香草茶と、半分だけ食べたチーズパンが置かれ、その横には土で汚れた帳面が何冊も積まれていた。エルナは深緑色の仕事着に茶色の毛織物の上着を重ね、羽根ペンを動かしながら、売上と栽培料を照合していた。


「何の用ですか」


 エルナは一度だけ顔を上げたが、レイモンドの返事を待たずに帳簿へ目を戻した。以前の屋敷では、彼が部屋へ入ればエルナは立ち上がり、使用人に紅茶を用意させていた。今は座るようにも言われず、濡れた外套から落ちた雫だけが床に黒い染みを作っている。レイモンドは咳払いをして背筋を伸ばし、机の向かいに立った。


「農園が急速に大きくなっていると聞いた。お前一人では、いずれ経営に行き詰まるだろう。私が手伝ってやってもよい」


「必要ありません」


「最後まで聞け。私は伯爵家の当主として領地を管理していた。農民や商人をまとめる方法も知っている」


「あなたは帳簿を他人へ任せ、契約書もろくに読まず、伯爵家を破綻させました。その経験を、私の農園で繰り返すつもりはありません」


「失敗は誰にでもある。私ほどの身分にあった者が申し出ているのだ。管理職として迎えれば、農園の信用にもなる」


「農園の信用は、品質を守る労働者と、約束どおりの栽培料を支払うことで得ています。元伯爵の肩書きは、コンニャク芋を一個も洗ってくれません」


 エルナは帳簿の数字へ印をつけ、次のページをめくった。羽根ペンが紙をこする音と、暖炉で薪がはぜる音だけが事務所に響いた。レイモンドは何か言い返そうとしたが、腹が大きく鳴り、机の上のチーズパンへ視線が動いた。乾きかけたパンの表面には香草が練り込まれ、端から黄色いチーズが少しはみ出していた。


「話がそれだけなら、お帰りください。私は午後の出荷数を確認しなければなりません」


「待て。外は雪だ。ここまで二時間も歩いてきた」


「頼んでいません」


「以前は私が、お前に住む場所と食事を与えていたではないか」


「その代わりに、私は領地経営も屋敷の管理も社交も引き受けました。何もせずに食事を与えられていたのは、あなたのほうです」


 エルナが呼び鈴へ手を伸ばすと、レイモンドは出口を振り返った。扉の向こうでは労働者たちが昼食の鐘を待ち、食堂からは焼いた黒パンと具だくさんのスープの匂いが漂っている。借家へ帰っても、薪も食べ物もなく、明日の朝まで寒さをしのげるかさえ分からなかった。レイモンドの肩から外套がずれ、その場で両膝が床へ落ちた。


「昔の情けにかけて、仕事をくれ」


 声は自分で思っていたよりも小さく、途中でかすれた。レイモンドは床に両手をつき、泥で汚れた指を握った。伯爵家の広間では、借金の返済を求める商人や助けを請う小作人を、顔も見ずに追い返したことがある。その自分が今は、かつて見下ろしていた者と同じ高さで、仕事と食事を求めていた。


 エルナは羽根ペンを置き、しばらくレイモンドを見つめていた。暖炉の上では濡れた布巾が乾き、隅に置かれたやかんが低い音を立てている。彼女は席を立つと、棚から一枚の紙を取り出し、机の中央へ置いた。そこには未経験労働者の賃金、労働時間、食事の支給、減給の条件が細かな文字で記されていた。


「先に言っておきます。復縁はありません。あなたを元夫として特別扱いすることもありません」


「分かっている。今は仕事だけでいい」


「賃金は、ほかの未経験労働者と同額です。遅刻、無断欠勤、作業放棄には規定どおりの減給があります。昼食は午前の仕事を終えた者に、夕食は一日の仕事を終えた者に支給します」


「食事くらい、先に出してもよいだろう。朝から何も食べていない」


「農園には、働くために食べる者が大勢います。働くつもりがあるなら、明日から同じ条件で食べられます」


「今日の分はないのか」


「今日の仕事をしていませんから」


 レイモンドは唇を押し結び、机に置かれた契約書を引き寄せた。文字を追う余裕などなく、早く署名すれば、せめて何か食べさせてもらえるかもしれないと考えた。エルナから羽根ペンを借りようと手を伸ばし、名前を書く欄へペン先を近づけた。その瞬間、エルナが彼の手から羽根ペンを取り上げた。


「何をする」


「契約を読まない人間を、私は雇いません」


「ただの労働契約だろう。お前が作ったものなら、問題はないはずだ」


「あなたは、それで領地も屋敷も失ったのです。誰が作った契約であっても、自分の名前を書く前に、自分で内容を確かめてください」


「私が契約書を読めないとでも思っているのか」


「読めるのに読まなかったから、こうなったのでしょう」


 レイモンドは紙を持ち上げ、最初の行から読み始めた。賃金は七日ごとに支払われ、作業着と道具は貸与されるが、故意に壊した場合は弁償する。病気やけがをした場合は責任者へ申し出ること、作業場の製法を外部へ漏らさないこと、身分や性別を理由に他の労働者へ命令しないことも書かれていた。彼は何度か読み飛ばそうとしたが、エルナが黙って見ているため、指で一行ずつたどった。


「この休憩時間というのは、鐘が鳴ってからか」


「そうです。勝手に手を止めて休憩を始めることはできません」


「作業が早く終わった場合はどうなる」


「責任者へ報告し、次の作業を確認します。自分の判断で帰れば作業放棄です」


「昼食のスープは、毎日同じなのか」


「豆、鶏肉、根菜など、材料によって変わります。味への希望があれば料理当番へ伝えられますが、作り直しはしません」


「卵の焼き加減は選べるのか」


「選べません。それが嫌なら、自分で買って焼いてください」


 契約書を最後まで読み終えたころ、レイモンドの指先は震えていた。空腹のためか、暖炉の熱で冷えた手が痛み始めたためか、自分でも分からなかった。彼はもう一度、賃金と食事の項目を確認してから、エルナに返された羽根ペンを握った。黒いインクが一滴、名前の横へ落ちたが、今度は文字を読み直してから署名した。


「契約します。明日から働く」


「始業は朝の鐘が鳴る前です。遅れた場合、事情がなければ遅刻として記録します」


「ここまで歩いて二時間かかる」


「労働者用の宿舎なら、空いている寝台が一つあります。使用料は賃金から差し引きますが、借家よりは安いはずです」


「最初から、それを言えばよかったではないか」


「契約を読む前に言えば、宿舎だけを目当てに署名したかもしれません。使用条件はこちらですから、今度も最後まで読んでください」


 その日の夕方、レイモンドは借家から薄い毛布と替えのシャツ、欠けた木皿を持ち出した。荷物は小さな布袋一つに収まり、片脚の欠けた椅子と小机は、家賃の代わりに家主へ置いていった。農園の宿舎には細い寝台が六つ並び、藁を詰めた敷布団と毛布が一枚ずつ用意されていた。隣の寝台では若い労働者が靴下を干しながら、夕食でもらったリンゴを布で磨いていた。


「新入りかい。俺はノルだ。いびきがうるさかったら、枕を投げてくれ」


「私はレイモンドだ。以前は伯爵だった」


「そうか。俺は以前、パン屋だった。向こうの爺さんは元漁師だ。でも朝になれば、みんな芋洗いだよ」


「私は経営の仕事をするのではないのか」


「それは農園主に聞いてくれ。まあ、上等な服を持っていないなら、明日の朝は早めに倉庫へ行ったほうがいい。作業着は大きいものからなくなるからな」


 翌朝、まだ空が薄暗いうちに鐘が鳴った。レイモンドは宿舎の固い寝台から起き上がり、食堂で薄い麦粥と黒パンを受け取った。麦粥には刻んだ人参と豆が入り、湯気には鶏の脂の匂いが混じっていた。以前なら塩が足りないと言ったはずだが、彼は器を両手で抱え、一滴も残さず飲んだ。


「そんなに急いで食べると、喉へ詰まらせるよ」


「仕事へ遅れるわけにはいかない」


「鐘はもう一度鳴る。それまでは大丈夫だ。それに、その黒パンはスープへ浸したほうが食べやすいよ」


「これは麦粥だろう」


「細かいことを言う元気があるなら、今日一日は持ちそうだな」


 作業倉庫へ行くと、マルタが厚手の焦げ茶色の作業着、膝まである長靴、革の手袋を差し出した。レイモンドはその後ろに上等な机や管理職の腕章があるのではないかと倉庫内を見回したが、並んでいるのは桶、麻袋、縄、箒ばかりだった。最後にマルタが渡したのは、泥のこびりついた、毛の硬い木製のブラシだった。ブラシの柄には、以前の持ち主が刻んだらしい小さな魚の模様があった。


「これは何に使う」


「芋を洗うに決まっているだろう。髪をとかしたければ、もう少し柔らかいものを探しな」


「私は経営を手伝うために雇われたはずだ」


「契約書には未経験労働者と書いてあっただろう。農園主から、最後まで読ませたと聞いているよ」


「読んだが、芋洗いをするとは書かれていなかった」


「担当する作業は現場責任者の指示に従う、と三枚目に書いてあった。読んだのなら覚えておきな」


 マルタは倉庫の裏にある洗い場へレイモンドを連れていった。そこには大きな水桶が三つ並び、その向こうには土の付いたコンニャク芋が、彼の背丈ほどの高さまで積まれていた。表面はごつごつと固く、くぼみには黒い泥が入り込み、湿った土と枯れた草の匂いが漂っていた。昨日までのレイモンドなら、その山を見ただけで使用人を呼びつけていただろう。


「日暮れまでに、全部です」


「全部とは、この山のことか」


「隣の畑まで洗えとは言っていないよ。目の前にある山だけだ」


「一人でできる量ではない」


「そっちの桶にはノルがいる。こちらには私もいる。誰も一人で全部やれとは言っていないが、自分の分まで人に押しつけたら、夕食はないと思いな」


「夕食は何だ」


「鶏肉と根菜のスープに、コンニャクの甘辛煮だよ。切り込みへ味が染みたやつさ」


 レイモンドの腹が小さく鳴った。マルタは笑いながら水桶へ芋を一つ放り込み、冷たい泥水を彼の作業着へ跳ねさせた。レイモンドは文句を言いかけたが、食堂で飲んだ温かな麦粥と、夕食の甘辛煮を思い浮かべ、硬いブラシを握り直した。元伯爵の白かった指は、最初の芋を半分も洗わないうちに赤くなった。


「手を止めない。泥は目で眺めても落ちないよ」


「分かっている。今、洗い方を確かめていたのだ」


「芋に挨拶でもしていたのかい」


「私は初日なのだ。少しくらい説明してもよいだろう」


「では説明するよ。右手でこすって、左手で回す。泥が残っていたら、もう一度こする。終わったら隣の籠へ入れる。以上だ」


 レイモンドは水桶の前へ腰を下ろし、芋のくぼみへブラシを押し込んだ。氷のような水が手袋へ染み、泥が頬へ跳ね、背中には早くも汗がにじんだ。隣ではノルが鼻歌を歌いながら芋を洗い、マルタは昼食に何を足すか、料理当番と大声で相談していた。レイモンドは山の頂上を見上げてから、目の前の一個へ視線を戻した。


「この芋が、あの灰色の板になるのか」


「そうだよ。きれいに洗わなければ、臭みも雑味も残る。市場で売れた料理は、ここから始まるんだ」


「私が洗ったと分かる印は付くのか」


「付かないよ。誰が洗っても、きれいな芋はきれいな芋だ」


「そうか」


 レイモンドはもう一度、ブラシを動かした。誰にも名前を呼ばれず、元伯爵だと頭を下げられることもない仕事だった。それでも泥を落とした芋を籠へ入れると、マルタが短くうなずき、ノルが次の芋を水へ転がしてよこした。こうしてレイモンドの農園生活は、上等な机でも管理職の腕章でもなく、冷たい泥水と一本の硬いブラシから始まった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ