第5話 元夫のプライドと、底冷えする借家
第5話 元夫のプライドと、底冷えする借家
冬の朝、レイモンドは頬へ落ちた冷たい雫で目を覚ました。借家の屋根には何か所も隙間があり、夜のうちに降った雪が解けると、黒ずんだ天井から薄い毛布へ水が落ちてきた。彼は毛布をずらし、下着の上から毛羽立った灰色のシャツと、肘の薄くなった黒い上着を着た。床へ足を下ろすと、板の冷たさが靴下の穴から入り込み、両足の指が縮こまった。
「家主には、春まで待てと言われたが……春まで、この屋根が残っているのか」
返事をする者はいなかった。部屋に残っている家具は、片脚の欠けた椅子と、引き出しの外れた小机だけだった。伯爵家から持ち出した銀食器、絹の上着、革靴、懐中時計はすでに売り、壁には絵を外した跡だけが四角く残っている。昔なら使用人を呼びつけたところだが、今は椅子の短い脚の下へ折った紙を挟み、自分でぐらつきを直した。
竈の横には小さな麻袋があり、底に燕麦がひと握りだけ残っていた。レイモンドは鍋へ水を多めに入れ、燕麦を指で一粒ずつ落とすと、塩を二つまみ加えた。出来上がった朝食は粥というより濁った湯に近く、木の匙ですくっても、燕麦が一粒しか乗らないことがあった。かつての屋敷では卵の黄身が少し固いだけで皿を下げさせ、焼きたてのパンの耳まで残していたことを思い出した。
「今日は少し煮すぎている。卵は半熟にしろと言ったはずだ」
昔の自分の声が耳に残り、レイモンドは匙を持ったまま動きを止めた。あのとき、エルナは向かいの席で紅茶を飲み、何も言わずに料理長へ目配せしていた。交換された卵を一口食べたあと、彼は礼も言わずに新聞を開いた。今なら皿に残った白身まで食べるだろうが、その朝の卵は使用人のまかないにも回せず、捨てられていたかもしれない。
粥を飲み終えると、レイモンドは市場へ仕事を探しに出た。色の褪せた外套には留め金が一つしか残っておらず、首元から入る風を防ぐため、古い麻布を細長く折って巻いていた。道の脇には昨夜の雪が寄せられ、その上には馬車の泥が黒い筋を作っている。パン屋の煙突から焼けた小麦の匂いが流れてくると、彼は口の中にたまった唾を飲み込んだ。
最初に訪ねた商会では、帳簿の写しを任された。レイモンドは読み書きなら誰にも負けないと思い、羽根ペンを持つ指を伸ばしたが、仕入れ値と販売額を別の欄へ書き写し、最後の合計も合わなかった。若い番頭が三度計算し直し、インクで汚れた帳面を彼の前へ置いた。机の端には番頭の昼食らしい黒パンと干し肉があり、レイモンドは視線を向けないようにしながら、間違った数字を指で追った。
「ここも違います。銀貨十二枚に銅貨八枚を足して、どうして銀貨二十枚になるんですか」
「伯爵家では、このような細かな計算は会計係がしていた」
「ここには会計係を雇う会計係などいません。読み書きができると聞いたから採ったのに、数字が扱えないのでは困ります」
「私は領地を管理していた男だ。計算の仕方さえ分かれば、こんな帳簿はすぐに覚えられる」
「三日間、同じところを説明しました。今日までにしましょう」
次に雇われた倉庫では、小麦粉の袋を馬車へ運ぶよう命じられた。紺色の作業着を借りて袋を肩へ担ごうとしたが、重さに耐えきれず、膝をついて床へ落とした。白い粉が縫い目からこぼれ、前髪と鼻の頭へ付着すると、周囲の労働者が笑いをこらえながら顔をそむけた。監督役の男は腰へ両手を当て、散らばった粉とレイモンドを交互に見た。
「持てないなら、二人で運べばよいではないか」
「皆、一人で運んでいます。二人使えば人件費が倍になるでしょう」
「私には管理や指示の仕事が向いている。作業の順番を決める役を任せてもらいたい」
「作業を知らない人に指示を出されると、荷物より迷惑です。まずは箒を持って、こぼした粉を掃いてください」
レイモンドは奥歯を噛み、壁へ立てかけられた箒を手に取った。穂先の擦り切れた箒では細かな粉を集めにくく、何度掃いても床へ白い筋が残った。昼になると労働者たちは木箱へ腰かけ、チーズを挟んだパンや豆の煮込みを食べ始めたが、彼には持参した昼食がなかった。水を一杯飲んで空腹をごまかしたものの、午後には袋を持つ腕へ力が入らず、その仕事も三日目で断られた。
「領主だった俺が、なぜ仕事一つ満足にできない」
帰り道、レイモンドは市場の隅に落ちていたキャベツの外葉を見つけた。泥が付いているだけで、洗えばスープに入れられそうだったが、彼は人目を気にして何度も周囲を見回した。手を伸ばしかけたところで、野菜売りの老婆が店の奥から出てきた。レイモンドは慌てて背筋を伸ばし、外葉には関心がなかったように靴先で雪を払った。
「それ、持っていっていいよ。どうせ鶏にやる葉だからね」
「私は拾おうとしたのではない。道に落ちていたから、邪魔だと思っただけだ」
「そうかい。それなら、そこへ寄せておいておくれ」
老婆はそれ以上何も言わず、しなびた大根を籠へ並べ直した。レイモンドは外葉を拾わず、腹を押さえながら市場の中央へ歩いた。風に乗って、甘辛い煮汁と焼けたバターの匂いが流れてきたためだった。大通りの先には長い行列ができ、湯気を立てる大鍋の上で、「エルナ農園のコンニャク料理」と書かれた赤い旗が揺れていた。
「灰色なのに美味しい、あのコンニャクだよ。今日は牛肉との煮込みだって」
「昨日の焼いたものもよかったわ。表面へ格子の切り込みを入れると、たれがよく染みるそうよ」
「うちの夫なんて、肉より先にコンニャクを拾って食べていたわ」
客たちの話を聞きながら列の先を見ると、木製の売り台の向こうにエルナが立っていた。深緑色の厚手のワンピースに生成り色の前掛けを着け、髪は飾りのない革紐で一つに束ねている。伯爵夫人だったころの絹や宝石は身につけていなかったが、背筋はまっすぐに伸び、商人や料理人の質問へ迷わず答えていた。頬は冬の風で赤くなり、袖口には煮汁が一滴ついていた。
「煮込み用は夕方までに三百枚追加してください。北門の店へ運ぶ分には、調理札を二十枚多く入れてください」
「農園主、東地区の食堂からも注文が来ています。毎週百枚ほしいそうです」
「分かりました。ただし、先に契約した職人街の食堂を減らしてはいけません。製造所へ相談して、無理のない数を知らせてください」
アフェクタ商会のバルドが、革表紙の帳面をエルナへ渡した。彼女は売上報告へ目を通し、数字を指で確かめながら、いくつか質問をしていた。少し離れた場所では、土の付いた長靴を履いた農家の代表が帽子を脱ぎ、エルナへ深く頭を下げた。男の後ろには芋を積んだ荷車があり、布の下から丸いコンニャク芋がのぞいていた。
「農園主、今月分の栽培料を受け取りました。去年より良い値で買っていただいて、村では屋根を直せた家もあります」
「こちらこそ、寒い中を運んでくださってありがとうございます。来年は作付けを増やせそうですか」
「村の若い者が二人、町から戻ってきました。畑で働きたいと言っています」
「では春になったら、私も村へ伺います。土の状態を一緒に確認しましょう」
レイモンドはその様子を、人垣の後ろから見つめていた。使用人も農民も、かつてはエルナを「伯爵夫人」や「奥様」と呼び、夫である自分の名に続けて頭を下げていた。今は誰もレイモンドの名を口にせず、彼女自身へ向かって「農園主」と呼びかけている。彼は外套の襟を立て直し、せめて姿勢だけは昔と変わらぬようにして、売り台へ近づこうとした。
「エルナ、少し話が――」
最後まで言う前に、腹が大きく鳴った。煮込みを買っていた客が振り返り、近くにいた子どもが目を丸くした。レイモンドは咳払いで音をごまかそうとしたが、その直後にもう一度、先ほどより長い音が外套の下から響いた。赤い帽子をかぶった少年は試食用の木皿を持ち、格子状の切り込みへ煮汁が染みたコンニャクを一つ残していた。
「おじさん、お腹が空いているの? これ、食べてもいいよ」
「子どもに恵んでもらうほど落ちぶれてはいない」
「でも、今、お腹が鳴ったよ」
「いらないと言っている!」
レイモンドが差し出された手を払うと、木皿が少年の指から落ちた。褐色のコンニャクが雪の上を転がり、甘辛い煮汁が赤い帽子の端へ飛んだ。少年は口を結び、汚れた皿を拾おうと腰をかがめた。エルナは売り台の中から出てくると、布で帽子の煮汁を拭き、少年と同じ高さまで膝を曲げた。
「やけどはしていない? 指を見せてください」
「大丈夫。ぼく、おじさんにも食べてもらいたかっただけなんだ」
「ありがとう。あなたは悪くありません。新しいものを一つ包みますから、お母さんと一緒に食べてください」
「子どもの手を払う必要はなかっただろう」
「私は施しを求めて来たのではない。お前と話をしようと思っただけだ」
「それなら、最初からそう言えばよかったでしょう。けれど今は仕事中です。用件があるなら、農園の事務所へ手紙を出してください」
エルナはそれ以上責めず、少年へ新しい煮込みと温かなスープを渡した。その声には怒鳴り声も皮肉もなかったため、レイモンドはかえって言葉を続けられなかった。バルドが黙ってこちらを見ており、農家の代表も帽子を胸へ抱えたまま立っている。レイモンドは雪の上のコンニャクを一度だけ見てから、人々の間を押し分けて市場を離れた。
その夜、借家の部屋は昼間よりも冷え込んだ。レイモンドは濡れた外套を椅子の背へ掛け、固くなったパンの欠片が残っていないか、空の棚をもう一度探した。見つかったのは、小麦粉の粉が底へ付いた袋と、萎びた香草の茎だけだった。市場で拾わなかったキャベツの外葉と、雪の上へ落としたコンニャクが、何度も頭に浮かんだ。
「私は施しを受けない。明日になれば、何か仕事が見つかる」
口に出しても、部屋の寒さは変わらなかった。竈には薪が一本しか残っておらず、燃やせば朝の分がなくなるため、レイモンドは鍋へ水だけを張った。炎を小さくして湯を沸かし、立ちのぼる湯気へ両手をかざすと、かじかんだ指がわずかに動くようになった。空の鍋からは食べ物の匂いなどしないはずなのに、彼の鼻には、昼間の甘辛いコンニャク煮込みの香りが残っていた。
「味が染みるように、切り込みを入れてあるのか……」
レイモンドは誰もいない部屋でつぶやき、湯を木の器へ注いだ。口へ含んでも味はなく、熱さだけが舌から喉へ落ちていった。伯爵家の食卓で残した卵、耳を切らせたパン、冷めたという理由で下げさせたスープが、空の机の上へ次々と並ぶようだった。彼は欠けた椅子へ座り、薄い毛布を肩へ巻いたまま、器の湯を最後の一滴まで飲んだ。
翌朝、窓の内側には白い霜が張り、吐く息が部屋の中で曇った。竈の灰をかき分けると、昨夜残しておいた薪は端まで黒くなり、赤い火が一筋だけ残っていた。レイモンドは細い枝を探したが、床にも棚にも燃やせるものはなかった。壁際の小机へ目を向け、引き出しの板なら薪になると考えたものの、それを壊せば、もう机として使えなくなる。
「まだだ。今日は仕事を見つける。それまで持てばいい」
火は返事をせず、最後に小さく音を立てて崩れた。赤かった部分が灰色へ変わり、竈から届いていたわずかな熱も消えた。レイモンドは穴の開いた靴下へ冷たい靴を履き、留め金が一つしかない外套を着た。扉を開けると雪混じりの風が部屋へ吹き込み、何も入っていない鍋の表面に、薄い氷が張り始めていた。




