第3話 手ごわい芋と、初めての仲間
第3話 手ごわい芋と、初めての仲間
農園で最初の作業を終えた日の夜、エルナは傾いた倉庫の隅に置いた簡素な寝台へ腰を下ろした。茶色の作業用ドレスは膝まで泥に汚れ、白かった前掛けにはコンニャク芋の土が黒い筋になって残っている。マルタが大鍋で煮た豆と根菜のスープはすでに冷めかけ、木の卓には半分に切った黒パンと、塩漬け肉の薄切りが二枚ずつ並んでいた。昼間に嗅いだ土と芋の匂いが鼻の奥に残っていたが、湯気の向こうにいるマルタの顔を見ると、エルナは匙を取る前に背筋を伸ばした。
「マルタ。話しておきたいことがあります」
マルタは大鍋の底に残った豆をお玉ですくっていたが、エルナの声を聞くと手を止めた。彼女の灰色の服も泥だらけで、右の袖口には屋根を修理したときについた木屑が絡んでいる。朝から働き通しだったはずなのに、自分の器より先にエルナの器へ具の多い部分を入れていた。
「改まって何でしょう。明日の朝食を豪華にしてほしいという話なら、卵は一つしかありません。半分ずつにいたします」
「卵の話ではありません」
「では、寝台が硬いという苦情でしょうか。藁を詰め直すなら、食後にいたします」
「それでもありません。少しだけ、黙って聞いてください」
マルタは眉を上げたが、お玉を鍋の縁へ置いて椅子に座った。倉庫の窓には洗った手袋が干され、夜風に揺れるたび、革同士がこすれて小さな音を立てている。屋根の隙間からは細い月が見え、その近くを一匹の蛾が飛んでいた。
「今の私には、地位がありません。伯爵夫人という名も、社交界で使っていた席も失いました。名誉もありません。王都では、夫をつなぎ留められず、荒れ地へ追いやられた女だと笑われているでしょう」
「笑いたい者には笑わせておけばよいのです。笑うだけなら、顎しか使いません」
「お金もほとんどありません。今日、屋根板と手袋を買ったので、残っている金貨は十二枚です。作業員の賃金を支払えば、来月には底をつきます」
「正確には金貨十二枚と銀貨七枚です。干し肉の袋に、わたしの銀貨を三枚入れてあります」
「それはマルタのお金でしょう」
「ここで鼠に食べられるより、農園で使ったほうがましです」
エルナは匙の柄を親指でゆっくり撫でた。銀食器ではなく、近くの村で買った木の匙だった。縁の部分が少し厚く、口に入れると唇へ当たる。それでも、誰かが自分のために温めてくれたスープをすくうには十分だった。
「私は、あなたへ何も差し出せません。暖かい部屋も、安定した給金も、使用人としての名誉もありません。それなのに、ここまでついてきてくれました」
「衣装箱を持って馬車へ乗っただけです。大したことではありません」
「昨日は屋根へ上がり、今日は芋を運び、そのあと六人分の夕食まで作りました」
「エルナ様が作ると、豆が鍋の底に張りつきますから」
「一度だけです」
「三度です。伯爵家の台所で二度、こちらへ来てから一度です」
エルナは言い返そうとしたが、三度とも覚えていた。最初は十六歳のころで、祖母の家に滞在していたときだった。二度目は結婚した年にレイモンドへ手料理を作ろうとしたときで、三度目は昨日、マルタが屋根を直している間に火加減を誤った。鍋底についた焦げは、今も井戸の横へ置いたままである。
「本筋とは関係ありませんが、明日は焦げた鍋も磨きます」
「大切な生活の仕事です。本筋に含めてください」
「そうですね。では、その前に言わせてください。マルタ、地位も名誉もお金もない私へ寄り添ってくれて、ありがとうございます」
エルナは椅子から立ち、深く頭を下げた。伯爵夫人だったころ、使用人に礼を言うことはあっても、腰を折って頭を下げたことはない。社交界では、主人が使用人へそのような態度を取れば、威厳がなくなると教えられていたからである。
「あなたがいなければ、私はこの倉庫で最初の夜を迎えることもできませんでした。衣装箱を抱えたまま、屋根の穴を見上げていたと思います」
「そのうち雨が降ってきて、衣装箱の中まで濡らしていたでしょうね」
「否定できません。だからこそ、ありがとう。心から感謝しています」
マルタはしばらく何も言わなかった。大鍋の中で豆が一粒、残った汁へ沈んだ。外からは夜鳥の声が聞こえ、壁の隙間を通った風が蝋燭の火を細く揺らした。
「エルナ様、顔を上げてください。スープが冷めます」
「もう冷めています」
「では、なおさら急いで食べなければなりません。豆の皮が固くなります」
エルナが顔を上げると、マルタは前掛けの端で目元を一度だけ押さえた。そのまま何事もなかったように鍋を持ち上げ、残っていた豆をすべてエルナの器へ入れる。エルナが多すぎると抗議すると、マルタは自分は昼間に味見をしたから十分だと言った。
「わたしがついてきたのは、奥様だったからではありません。レイモンド様が酒宴を開く夜に、厨房の下働きへ残ったスープを運んでくださった方だからです。母が倒れたとき、休暇だけでなく薬代まで用意してくださった方だからです」
「それは、雇い主として当然のことです」
「当然だと思わない主人を、何人も見てきました。それに、わたしは誰かへ寄り添っているつもりはありません。自分が働きたい場所を選んだだけです」
「屋根の傾いた倉庫をですか」
「少なくとも、ここでは食べ物を捨てません。伯爵邸では、リリア様が一口かじっただけの焼き菓子を、毎日三つも捨てていました」
「四つの日もありましたね」
「数えていたのですか」
「帳簿へ記録していました。砂糖も小麦も無料ではありませんから」
二人は顔を見合わせ、今度は声を出して笑った。笑った拍子に、エルナの匙から豆が一粒、卓へ転がった。マルタが拾おうとしたが、エルナは自分の指でつまみ、器へ戻した。
「三秒以内なら食べられます」
「農園の作法を覚えましたね」
「農園主ですから」
冷めたスープには、昼間より塩味が強く感じられた。黒パンは硬かったが、汁へ浸すと噛める程度に柔らかくなった。窓辺の棚には、明日の朝に食べるための卵が一つだけ置かれている。エルナはそれを半分に分けるつもりだったが、マルタなら自分の分まで彼女の皿へ載せるだろうと思い、先に殻へ印をつけておくことにした。
翌朝、エルナが目を覚ますと、倉庫の中には薪の燃える匂いが漂っていた。昨夜の話とは反対に、卵はきれいに二つへ分けられ、薄く焼いたものが黒パンの上に載っている。マルタはすでに作業着へ着替え、手袋の点検をしながら山羊の乳を温めていた。
「卵を半分に切るのは難しかったでしょう」
「殻を割ってから混ぜ、薄く焼いて二等分しました。刃物で切るより公平です」
「私が殻へ印をつけておいたのですが」
「夜中に何をしているのかと思えば、それでしたか。卵を見張る暇があるなら眠ってください」
エルナは焼いた卵を挟んだ黒パンをかじった。端は少し焦げていたが、温かく、山羊の乳によく合った。昨日まで見知らぬ者同士だった作業員たちも、やがて倉庫へ集まり始めた。
リーネは灰色の上着に赤い頭巾を着け、手には古い籠を下げていた。籠の中には、母親が焼いた蕪と、塩を振った小さな魚が入っている。年長の作業員ダンは、妻から持たされたという厚い靴下を履き、歩くたび靴の中が窮屈だと文句を言っていた。
「妻は何でも厚くすれば暖かいと思っているんです。靴下を二枚重ねたら、長靴に足が入りませんよ」
「妻君がいなければ、今ごろ足の指を凍らせています」
マルタが答えると、ダンは鼻をこすりながら笑った。別の作業員は、朝に飼っている鶏が逃げたため、捕まえるのに半刻もかかったと話す。その鶏は卵をほとんど産まないのに、家族の誰よりも朝が早いらしい。
「今日はコンニャク芋の皮をむき、細かく切るところまで進めます。昨日お伝えしたとおり、必ず手袋を着けてください」
エルナが説明すると、作業員たちは木箱から自分の名前が書かれた手袋を取った。作業台には皮むき用の小刀、芋を入れる桶、流水で道具を洗うための水が用意されている。マルタは一つずつ配置を確かめ、近すぎる桶を指二本分だけ横へ動かした。
「昨日、母にコンニャク芋のことを聞きました」
リーネは赤い頭巾を結び直しながら、エルナの前へ進み出た。彼女の家では祖母の代までコンニャクを作っていたが、灰汁の加減が難しく、母親は製造をやめてしまったという。栽培だけを続けても買い手が少なく、畑の一部を手放したこともあった。
「母が、芋の皮は厚くむきすぎるなと言っていました。食べられるところまで捨てることになるからです。でも、薄すぎると黒い部分が残って、仕上がりが悪くなるそうです」
「貴重な知識です。お母様へ、教えていただいたお礼をお伝えください。それから、可能であれば農園へ来て、作業を見ていただけないでしょうか。もちろん、技術指導料をお支払いします」
「話を聞くだけなのに、お金を払うのですか」
「人が長い年月をかけて身につけた知識は、ただではありません。私の祖母も、同じことを申していました」
リーネは手袋をはめた両手を胸の前で握り、何度もうなずいた。王都から来た商人たちは、村の作り方を古くさいと笑いながら、役に立つ部分だけを聞き出そうとした。母親は何度も同じ目に遭い、もう誰にも教えないと言っていたらしい。
「エルナ様がそうおっしゃったと伝えます。母は頑固ですが、焼き林檎を持っていけば話を聞いてくれるかもしれません」
「焼き林檎がお好きなのですか」
「甘いものは何でも好きです。でも、歯が三本しかないので、硬いものは食べられません」
「では、柔らかく煮た林檎を用意しましょう。マルタ、砂糖は残っていますか」
「一瓶だけです。商談のためなら使います。ただし、エルナ様が夜中に味見をしないよう、わたしが管理します」
「一度しかしていません」
「伯爵邸で三度、この倉庫で一度です」
「あなたは鍋を焦がした回数だけでなく、味見の回数まで記憶しているのですね」
会話をしながらも、作業の手は止めなかった。最初のコンニャク芋が作業台へ置かれ、エルナは全員の前で皮のむき方を示す。手袋越しに芋をしっかり押さえ、小刀の刃を寝かせ、黒褐色の皮だけを削っていく。
皮がはがれると、中から淡い桃色を帯びた白い身が現れた。切り口は水分を含み、青い草と湿った土を混ぜたような匂いがする。見た目は普通の芋に近いが、細かな刺激を持つ成分が含まれているため、作業員たちは誰も油断しなかった。
「ずいぶん手ごわい芋ですね」
ダンが皮をむきながら言った。彼は力が強く、芋を押さえることには慣れていたが、小刀を深く入れすぎて食べられる部分まで削っている。マルタはすぐに隣へ立ち、手首を少し上げるよう指示した。
「手ごわい強敵です。力だけでは勝てません」
エルナが答えると、リーネが小さく笑った。
「農園主でも、芋を敵だと思うのですね」
「思います。石より重く、皮をむけば手を刺し、加工を急げば固まらない。しかも、畑で収穫できる大きさになるまで何年もかかります。これほど気の長い敵は、社交界にもいませんでした」
「レイモンド様より手ごわいですか」
作業員の一人が尋ねた途端、倉庫の中が静かになった。別れた夫の名を出したことを後悔したらしく、彼は手元の芋へ顔を伏せる。エルナは怒らず、小刀についた皮を桶へ落とした。
「コンニャク芋のほうが、ずっと誠実です。正しい時期に植え、必要な手間をかければ、かけた分だけ育ちますから」
作業員たちは笑い、張りつめていた空気がほどけた。マルタだけは笑わず、大鍋の水温を確かめていたが、口元がわずかに上がっている。ダンは笑った拍子に小刀を深く入れそうになり、今度はマルタから作業中に笑いすぎるなと叱られた。
午前中に皮をむき終えた芋は、大きさを揃えて切り分けられた。厚さが違えば火の通り方も変わるため、エルナは木の定規を使い、同じ大きさになるよう確認する。切り落とした端も捨てず、状態のよいものは別の桶へ集めた。
「ここまで小さい欠片も使うのですか」
「使える部分は使います。私たちは、この芋から命をいただくのです」
エルナは小さな欠片を手のひらへ載せた。厚手の手袋を着けているため、温度も感触も直接は伝わらない。それでも、一つの芋が食べられる大きさに育つまで、土の中で何度も季節を越えたことは分かった。
「芋に命があるのですか」
若い作業員が首をかしげた。エルナは作業台の端に落ちていた小さな芽を指し示した。まだ土へ植えれば伸びようとする力が、その芽には残っていた。
「動物のように声を上げるわけではありません。それでも、この芋は土から水と養分を受け取り、芽を出し、葉を広げて育ちました。私たちは、それを食べて働く力に変えます」
「だから、捨ててはいけないのですね」
「はい。ただし、傷んだ部分まで無理に食べることとは違います。命を大切にするとは、安全を無視することではありません。使えるところを見分け、正しく調理し、感謝していただくことです」
エルナは以前、伯爵邸で開かれた晩餐会を思い出した。レイモンドは肉の脂身が多いと皿を下げさせ、リリアは菓子の飾りが好みではないと一口も食べなかった。厨房では料理人たちが夜明け前から働き、農家では誰かが雨の中で野菜を収穫していたが、食卓に座る者はその姿を見ようとしなかった。
「わたしも、伯爵夫人だったころは、食材がどこから来たのかを忘れることがありました。献立と費用は確認しても、芋が土の中で何年過ごしたかまでは考えませんでした」
「エルナ様でも、忘れるのですか」
「忘れます。だから、思い出すために言葉にするのです。いただきます、という言葉は、料理を作った人だけでなく、食べ物そのものへ向けるものだと祖母から教わりました」
マルタが手を洗い、昼食の用意を始めた。今日の献立は、朝から煮込んでいた麦と豆の粥、塩漬け肉を少し入れたキャベツのスープ、リーネが持ってきた焼き蕪だった。窓辺には洗った前掛けが二枚干され、風でめくれるたび、壁へ軽く当たっている。
「食事にいたしましょう。コンニャク芋に敬意を払うのも結構ですが、目の前の粥を焦がしてはなりません」
「火を見ていたのはマルタでしょう」
「エルナ様が長い話を始めたので、聞いていたのです」
「私の責任ですか」
「農園で起きたことは、農園主の責任です」
エルナは言葉に詰まり、作業員たちが笑った。鍋の底を確認すると、幸い粥は焦げていなかった。ただし水分が少なくなり、匙を立てても倒れないほど固くなっている。
「これは粥ではなく、麦の壁ですね」
ダンが器をのぞき込み、マルタがお玉を構えた。
「食べる前から文句を言う方には、もっと固い部分を差し上げます」
「ありがたくいただきます。歯が丈夫になります」
全員が長卓を囲み、木の器を手に取った。椅子が足りないため、二人は裏返した木箱へ座り、一人は芋籠を重ねて腰掛けた。エルナも特別な席を作らず、マルタの隣に座った。
「いただきます」
エルナが言うと、作業員たちも続いた。麦の粥は確かに固かったが、豆の甘みと塩漬け肉の脂が混ざり、朝から働いた身体にはよく合った。焼き蕪は表面が少し焦げ、中は湯気が出るほど柔らかい。
「これを作ったのは、リーネのお母様ですか」
「はい。火のそばへ置いて、洗濯をしている間に焼いたそうです。今朝は父の靴下が片方なくなり、家中で捜したら、飼い犬が寝床へ持っていっていました」
「どうして犬は靴下を集めるのでしょう」
「父の足の匂いが好きなのではないでしょうか」
「食事中に話す内容ではありません」
マルタが眉を寄せると、リーネは口を押さえて笑った。エルナも匙を持ったまま肩を揺らした。伯爵家の晩餐では決して出なかった話題だが、銀器の音しか聞こえない食卓より、焼き蕪と靴下の話がある食卓のほうが、料理の味をよく覚えられそうだった。
午後からは、切り分けた芋を茹でる作業に入った。大鍋へ水を張り、マルタが薪の量を調整する。火が強すぎれば外側だけが崩れ、弱すぎれば作業時間が延びて薪を無駄にするため、沸騰を保ちながら芋の状態を見る必要があった。
湯が温まるにつれ、倉庫の中には芋の青臭さと薪の煙が広がった。窓を閉めれば息苦しくなり、開けすぎれば温度が下がる。ダンが煙を逃がそうと扉を全開にすると、突風が吹き込み、干していた前掛けの一枚が大鍋のほうへ飛んだ。
「前掛け!」
リーネが叫び、エルナが反射的に手を伸ばした。だがマルタのほうが早く、長いお玉で前掛けを空中からすくい上げる。前掛けは鍋へ落ちなかったものの、お玉に巻きつき、白い旗のように揺れた。
「見事です、マルタ」
「褒めている場合ではありません。干し綱を窓から離してください。ダン、扉は半分だけ開けます」
「申し訳ありません。しかし、そのお玉さばきなら、盗賊にも勝てそうですね」
「次に余計なことをしたら、試して差し上げます」
ダンはすぐに扉を半分閉めた。作業員たちは笑いをこらえながら、芋を入れた籠を大鍋へ沈める。湯気が一気に立ち上がり、エルナの頬と額を濡らした。
茹で上がった芋は十分に冷まし、次の工程ですり潰す。大きな石臼は借りられなかったため、今日は木のすりこぎと鉢を使うことになった。少量ずつ鉢へ入れ、粒が残らないよう、粘りのある状態まで潰していく。
最初にすりこぎを握ったダンは、力任せに芋を叩いた。白い芋が鉢の外へ飛び、彼の前掛けへ張りつく。マルタはすぐにお玉で卓を叩いた。
「叩くのではなく、押して潰します。食材を逃がしてどうするのです」
「芋のほうが逃げたのです」
「食べ物へ責任を押しつけないでください」
「どこかで聞いたような言い訳ですね」
エルナが言うと、マルタは一瞬だけ彼女を見た。二人とも同じ人物を思い浮かべたが、名前には出さなかった。エルナは別のすりこぎを取り、ダンの隣で芋を押し潰し始めた。
思った以上に力が必要だった。柔らかく茹でたはずの芋は粘りが強く、すりこぎを持ち上げるたび鉢まで動く。十回も押すと腕が重くなり、二十回を過ぎるころには肩から汗が流れた。
「エルナ様、交代します」
リーネが手を伸ばしたが、エルナは首を振った。
「もう少し続けます。自分で作業量を知らなければ、賃金も人数も決められません」
「無理をして倒れたら、農園主の賃金は誰が決めるのですか」
「マルタが決めます」
「最低額にいたしますよ」
「では、倒れないようにします」
エルナはすりこぎを握り直した。手袋の中で手のひらが汗ばみ、木の柄が滑る。腕が重くなるたび、伯爵邸でレイモンドが「農民の仕事は単純だ」と言っていたことを思い出した。
実際には、力だけでも知識だけでも足りなかった。芋の柔らかさを見て水分を調整し、粒が残らないよう手の角度を変え、同じ速さを保たなければならない。一つの商品ができるまで、いくつもの判断と作業が積み重なっている。
「手ごわいですね」
エルナが息を吐くと、リーネが笑った。
「まだ皮をむいて、茹でて、潰しただけです。このあと灰汁を加えて練り、固めて、もう一度茹でるのでしょう」
「まだ半分にも届いていませんね」
「だから村では、コンニャク作りの日は家族総出でした。子どもは薪を運び、男は芋を潰し、女は灰汁と鍋を見ました。誰か一人がさぼると、夕食までに終わらないのです」
「では、この農園も家族総出ですね」
エルナが言うと、作業員たちは手を止めた。誰かと血がつながっているわけではなく、知り合って二日目の者もいる。エルナは自分の言葉が軽すぎたかと考え、すりこぎを鉢へ置いた。
「申し訳ありません。家族のように働けと、都合のよいことを言うつもりではありません。皆さんには、契約どおりの賃金を支払います。家族だから無償で働けという考え方にはいたしません」
「分かっています」
リーネは赤い頭巾の端で額の汗を拭いた。
「わたしの父は、家族なのだから畑を手伝えと言います。でも、収穫物を売ったお金は全部父のものです。ここでは働いた時間を帳面につけてもらえるので、家族より公平かもしれません」
「今日の作業時間も、休憩時間も記録します。知識を提供してくださった方へも支払います」
「それなら、家族総出ではなく、仲間総出ですね」
「はい。その言い方がよいと思います」
作業が再開され、すりこぎが鉢へ当たる音が倉庫に続いた。日が傾くころ、ようやく最初の芋が滑らかな生地になった。白く粘りのある生地は、まだコンニャクと呼べる状態ではないが、誰も途中で投げ出さなかった。
エルナは一日の作業量を帳面へ記入した。表紙には泥がつき、頁の端には昼食の粥が一粒、押し潰されて乾いている。伯爵夫人時代なら汚れを気にしたかもしれないが、今はその染みさえ、実際に働いた記録に見えた。
「今日はここまでにいたします。残りは冷所で保存し、明日、灰汁を加える試験を行います」
「もう終わりですか。まだ日が残っています」
ダンが窓の外を見た。赤い夕日が畑を照らし、刈り残した雑草の影を長く伸ばしている。エルナは作業員たちの手元を見て、首を横に振った。
「皆さんの腕が疲れています。この状態で危険な作業を続ければ、事故が起きます。明日も働けるところで終えるのが、今日の仕事です」
「以前の領主様は、日が沈んでも働けとおっしゃいました」
「以前の領主様は、畑で鍬を握ったことがありません」
エルナの返事に、誰も反論しなかった。手袋と前掛けを洗い、道具を決めた場所へ戻す。マルタは大鍋の蓋を閉じ、明日の朝に使う薪の量を数えた。
作業員たちが帰ったあと、エルナとマルタは倉庫の前に並んで座った。夕食は昼の残りの固い麦粥へ水を足し、刻んだ蕪の葉を入れて煮直したものだった。マルタは塩を入れすぎたと言ったが、汗をかいた身体にはちょうどよかった。
「今日は、商品が一つもできませんでしたね」
「安全に芋をむき、誰もけがをせず、明日の材料を用意しました。十分な成果です」
「でも、金貨は一枚も増えていません」
「明日のために使った一日を、損失とは呼びません」
マルタは粥の器を両手で包み、湯気へ鼻を近づけた。エルナも一口食べたが、蕪の葉が少し筋張っていた。何度噛んでも口の中に残り、二人は同時に顔をしかめた。
「明日は、もう少し細かく刻みましょう」
「わたしも同じことを考えていました」
「コンニャク芋だけでなく、蕪の葉も手ごわいですね」
「こちらは煮込めば勝てます」
空になった器を置くと、エルナは倉庫の中に並ぶ芋籠を見た。まだ二百籠近く残っている。皮をむくだけでも何日かかるか分からず、試作品が成功する保証もない。
それでも、今朝は六人が集まり、一緒に手袋をはめ、同じ鍋を囲んだ。誰かが知識を持ち寄り、誰かが力を貸し、誰かが飛んだ前掛けをお玉ですくった。伯爵家にいたころのような地位も名誉も金もないが、自分の言葉を聞き、自分で選んで働いてくれる人たちがいた。
「マルタ、明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。ですが、感謝は一日に一度で十分です。何度も頭を下げられると、首を痛めますよ」
「私の首ではありませんか」
「見ているわたしの首まで重くなります」
「不思議な身体ですね」
「長く生きると、いろいろなところが重くなるのです」
マルタは立ち上がり、食器を重ねた。エルナも器を持ち、井戸へ向かう。冷たい水で器を洗うと、木の表面についた麦粥が少しずつ流れ落ちた。
倉庫の奥では、明日の試験に使うコンニャクの生地が静かに休んでいる。正しい量の灰汁を加えられるか、均一に練り上げられるか、無事に固まるか、まだ誰にも分からなかった。手ごわい強敵との本当の勝負は、これからだった。
「命をいただくのですから、失敗しても理由だけは残しましょう」
エルナは洗った器を布巾で拭き、帳面の横へ置いた。マルタは竈の火を確かめてから、蝋燭を一本だけ残して消していく。夜の匂いと芋の青臭さが混ざる倉庫で、二人は明日の灰汁の量をもう一度確認した。
「手間を惜しまない者には、冬を越す食べ物になる。お祖母様のお言葉でしたね」
「はい。私たちだけでなく、この土地で働く人たちが冬を越せる商品にします」
「では、今夜は眠ってください。寝不足の農園主は、灰汁より扱いが難しくなります」
「それほどではありません」
「今朝、卵の殻へ印をつけたことをお忘れですか」
エルナは反論せず、寝台へ向かった。地位も名誉も金もない夜だったが、窓辺には明日使う手袋が並び、卓には作業予定を書いた帳面があり、竈には朝まで残る熾火があった。何もないと思っていた荒れ地には、すでに新しい暮らしが始まっていた。




