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第2話 素手で触ると地獄を見る

第2話 素手で触ると地獄を見る


 離縁から一か月後、クロフォード伯爵家の大広間には、百合の香油ではなく、冷えた蝋と古い酒の匂いが漂っていた。銀の燭台が置かれていた長卓には、空になった葡萄酒の瓶、割れた胡桃の殻、封を切られていない請求書が積み上がっている。桃色に塗り替えられた壁は華やかだったが、床には昨夜リリアが脱いだ絹の室内履きが片方だけ転がっていた。レイモンドは真珠色の上着のまま長椅子へ寝そべり、朝食が運ばれてくるのを待っていた。


「おい、まだ朝食はできないのか。卵は半熟にしろと言ったはずだぞ」


 返事はなく、廊下を歩く音もしなかった。レイモンドは舌打ちし、呼び鈴の紐を三度引いたが、使用人は一人も現れない。昨日、給金を三か月分受け取っていない料理長が辞め、その前日には台所女中二人と下男も出ていった。それでも彼は、誰かが空腹に気づいて食事を持ってくるものだと思っていた。


「まったく、最近の使用人は責任感がない。エルナが甘やかしたせいだな」


 レイモンドはそう言いながら立ち上がり、上着の皺を両手で伸ばした。袖口には昨夜の葡萄酒が染み、白かった刺繍が薄紫色になっている。以前なら朝一番に従僕が染みを見つけ、着替えを用意していただろう。今は寝室の椅子に脱いだ服が積み上がり、清潔な靴下を探すだけでも一苦労だった。


 食堂へ入ると、長い食卓には何も並んでいなかった。果物籠には萎びた林檎が一つ残り、窓辺の花瓶では桃色の薔薇が茶色く縮れている。レイモンドは厨房へ向かったが、食糧庫の棚には、小麦粉をすくったあとの白い粉と、鼠にかじられた玉ねぎしかなかった。


「昨日まで、肉も卵もあったではないか」


「昨日の朝食で最後だったそうよ」


 背後から答えたリリアは、淡い水色の寝間着に白い毛皮を羽織り、髪をほどいたまま立っていた。手には空の蜂蜜瓶を持ち、銀の匙で底を何度もこすっている。甘いものがないと朝から頭が働かないのだと、彼女は不満そうに唇を尖らせた。


「ならば料理長に買いに行かせればよい」


「料理長は辞めたでしょう。食材商も、未払いを清算するまで何も売らないと言っていたわ。昨日はパン屋の主人が玄関で大声を出して、近所の人がみんな見ていたのよ」


「伯爵家に向かって、何という無礼な男だ。あとで営業許可を取り消してやる」


「その前に、朝食をどうにかしてくださらない?」


 リリアは蜂蜜瓶を卓上へ置いた。瓶の底が銀盆に当たり、乾いた音が広間へ響く。レイモンドは空腹よりも、彼女に頼りない男だと思われることのほうが気に入らなかった。上着の内側を探り、金貨を渡そうとしたが、出てきたのは劇場の半券と、酒場でもらった木札だけだった。


「金庫から金を持ってこよう。少し待っていろ」


「昨日、金庫を開けたけれど、銅貨が七枚しかなかったわ」


「勝手に私の金庫を開けたのか」


「婚約する仲でしょう。これからは二人の財産なのだから、確認してもよいはずよ」


「まだ婚約などしていない。それに、エルナと違って、君に金のことを任せるつもりはない」


 リリアの匙を持つ手が止まった。レイモンドは言ってからまずかったと思ったが、謝る代わりに萎びた林檎を取り、袖で磨いた。半分に割ろうとして爪を立てると、柔らかくなった皮から酸っぱい汁がにじんだ。


「エルナと違って、とはどういう意味かしら。あの方には任せていたの?」


「帳簿のようなつまらない仕事をさせていただけだ。金を稼いでいたのは私だ」


「なら、今日中に稼いできて。わたし、林檎の腐ったところを避けながら食べる生活なんて嫌よ」


「腐ってなどいない。少し熟しているだけだ」


「レイモンド様が召し上がればよいわ」


 リリアは毛皮の裾を翻し、食堂から出ていった。床に落ちていた干からびた豆を踏み、足の裏へくっついたらしく、廊下で短い声を上げている。レイモンドは林檎を一口かじったが、中まで茶色く変色していたため、吐き出して皿へ戻した。


 朝食を諦めて書斎へ向かうと、扉の前に執事が立っていた。黒い制服はきちんと整えられていたが、襟元は少し擦れ、白髪も一か月前より増えている。彼は帳簿と請求書の束を抱え、レイモンドが椅子へ座るのを待ってから一礼した。


「伯爵様、本日までに返済しなければならない借入金がございます」


「その話は後にしろ。まず食材商に、肉と卵と蜂蜜を届けさせろ」


「代金を前払いしなければ、取引には応じないとのことです。また、石炭商、酒屋、仕立屋、馬具商からも支払いを求められております」


「エルナに払わせればよい。あの女は十年間、そうしてきた」


「エルナ様は、すでにクロフォード伯爵家の方ではございません。お持ちになったのは私物の衣装箱一つと、御自身の調理帳、領地経営に関する帳簿の写しだけです」


「ならば帳簿がないから払えないと、商人どもに説明しろ」


「帳簿がなくなっても、借金はなくなりません」


 執事は一番上の請求書を開いた。そこには、レイモンドがリリアへ贈った青い宝石の指輪、南向きの部屋の改装費、三日間続いた離縁祝いの酒宴、楽団への謝礼が記されている。レイモンドは細かな数字を見ると頭が痛くなるため、紙を押し返した。


「君は執事なのだから、何とかするのが仕事だろう」


「わたくしの仕事は、伯爵様へ状況を報告することです。金貨を作り出すことではございません」


「言い訳をするな。給金を払っているのは私だぞ」


「最後に給金をいただいたのは、四か月前でございます」


 執事は胸元から小さな鍵束を取り出し、机の上へ置いた。食糧庫、酒蔵、使用人棟、正門の鍵が、触れ合って小さな音を立てる。レイモンドは意味が分からず、その鍵束を見つめた。


「何のまねだ」


「本日をもって、お暇をいただきます。長年お世話になりました」


「待て。今辞めたら、誰が商人どもを追い返すのだ」


「伯爵様が御自身でなさってください。エルナ様は、いつもそうしておられました」


 執事が出ていった直後、玄関の扉が激しく叩かれた。レイモンドは戻ってこいと叫んだが、廊下の向こうから返事はない。代わりに扉が開き、黒い外套を着た男たちが書類を手に屋敷へ入ってきた。


「クロフォード伯爵レイモンド様。返済期限を過ぎた債務について、担保となっている財産を差し押さえます」


「私は伯爵だぞ。許可なく屋敷へ入るな」


「この屋敷は、すでにアフェクタ商会の担保となっております。こちらが契約書です」


「そんな契約をした覚えはない」


「署名も印章も、レイモンド様のものです」


 男が差し出した書類には、確かに自分の署名があった。リリアとの別邸を購入するため、細かな条件を読まずに署名した契約だった。金を貸したバルド・アフェクタは、いずれ領地の収穫で返せばよいと言っていたはずである。だがその収穫を管理し、商会と価格交渉をしていたエルナはもういない。


 差し押さえは、その日のうちに始まった。銀の燭台、絵画、長卓、客間の絨毯、馬車、厩舎の馬まで、次々と札が貼られていく。昼食を食べる場所がなくなり、レイモンドは厨房の踏み台へ座って、料理人が置いていった硬い黒パンをかじった。


「この絵は持っていくな。祖父の代からあるものだぞ」


「財産目録に含まれています」


「では、あちらの花瓶にしろ。あれは趣味が悪い」


「花瓶だけでは、借金の利息にも足りません」


「何でも金額で決めるな。物には格というものがある」


「格で借金は返せません」


 差し押さえ人の返事は短く、レイモンドがどれほど声を荒らげても手は止まらなかった。夕方には、大広間から椅子まで運び出され、桃色の壁だけが残った。取り外された絵の裏から、掃除されていない灰色の埃が現れ、そこに四角い跡を作っている。


 日が沈むころ、レイモンドは寝室へリリアを捜しに行った。部屋の扉は開いたままで、衣装棚の中は空になっている。化粧台には使いかけの白粉と、毛のついた櫛が残されていたが、青い指輪、母から受け継いだ首飾り、宝石箱はすべて消えていた。


「リリア?」


 呼んでも返事はなく、窓辺のカーテンが揺れるだけだった。寝台の上には、蜂蜜を買いに行くと書かれた紙が一枚置かれている。文字の横には蜂蜜の染みがつき、紙の端が指に張りついた。


「蜂蜜を買うのに、宝石箱は必要ないだろう」


 誰も聞いていない部屋で、レイモンドはそうつぶやいた。紙を丸めて床へ投げたが、絨毯はすでに運び出されていたため、紙玉は思ったより遠くまで転がった。拾う者はいないと気づいても、彼はそのままにした。


 翌朝、レイモンドは屋敷から退去させられた。持ち出せたのは、古い衣装が入った鞄一つと、革袋へ詰めた身の回りの品だけだった。差し押さえ人の一人から、これ以上玄関に座り込まれては困ると、王都の外れにある借家を紹介された。


 借家は、染物職人や荷運び人が暮らす路地の奥にあった。壁には雨染みが広がり、窓は小さく、戸を閉めても隙間風が入ってくる。部屋には藁を詰めた寝台、脚の長さが揃っていない卓、欠けた水差し、煤で黒くなった小さな暖炉しかなかった。


「ここへ私が住むのか」


「家賃は一週間分、先に支払われています。それ以降は御自分でお願いします」


「浴室はどこだ」


「共同井戸なら、路地を出たところにあります」


「浴室を聞いているのだ」


「その桶で身体を拭いてください」


 案内した男はそれだけ言い、扉を閉めて帰っていった。レイモンドは鞄を床へ置き、藁の寝台を指で押した。小さな虫が一匹飛び出したため、上着の袖で何度も払った。


 その夜、雨が降った。屋根を打つ音が近く、天井の隅から落ちた水滴が、置かれていた金属の鉢へ一定の間隔で落ちる。レイモンドは真珠色の上着を毛布代わりにして寝たが、隙間風が足元へ入り、何度も目を覚ました。


「こんなところに長くいるつもりはない。明日には、知り合いが助けに来る」


 自分へ言い聞かせるように声を出した。だが翌日訪ねた貴族仲間は、会議中、外出中、病気療養中という理由で、誰一人として面会しなかった。以前は酒場でレイモンドの肩を抱いていた男まで、使用人を通じて不在だと告げてきた。


 一週間が過ぎるころ、レイモンドの服装は大きく変わっていた。真珠色の上着は雨と泥で灰色になり、金糸の刺繍は何か所もほつれている。白いシャツは洗い方が分からず、襟と袖口が黒ずんだ。長靴の片方には穴が開き、雨の日には中へ水が入った。


 借家の卓には、硬いパンが一切れ残っていた。昨日買ったものではなく、三日前に買い、少しずつ削るように食べていたものだ。水へ浸しても中心まで柔らかくならず、歯を立てるたび顎が痛んだ。


「伯爵である私が、なぜこんなものを食べなければならない」


 レイモンドはパンを卓へ置き、空になった暖炉を見た。薪は一本もなく、火打ち石だけが煤の中に転がっている。隣の家からは、玉ねぎと豆を煮る匂いが漂ってきた。腹が鳴ったため、彼は誰かに聞かれたのではないかと壁をにらんだ。


 鞄の中に食べ物が残っていないか探すと、底から黒い塊が転がり出た。クロフォード家の倉庫から持ち出したコンニャク芋である。離縁協議の日、エルナが熱心に調べていたのを見て、何か価値があるかもしれないと思い、従僕へ命じて鞄へ入れさせていた。


「そうか。これがあった」


 レイモンドは芋を持ち上げた。表面には乾いた土がつき、形は歪んでいるが、大きさだけなら二食分になりそうだった。普通の芋より硬く、鼻を近づけても香りはほとんどない。


「エルナは、この芋を商品にするつもりだった。あの女にできて、私にできないはずがない」


 暖炉には薪がなかったが、路地で拾った木箱の破片が少し残っていた。レイモンドはそれを折って火をつけ、欠けた鍋へ井戸水を入れる。芋を丸ごと煮ようとしたものの、鍋に入らなかったため、皮をむくことにした。


 包丁は錆び、刃こぼれしていた。厚い皮へ刃を押し込んでも滑るため、レイモンドは芋を両手で押さえ、力任せに削った。湿った切り口から白い汁がにじみ、指先へ付着した。


「ひどく切りにくい芋だ。これだから農民の食べ物は困る」


 皮を半分ほどむいたところで、指先がむずむずし始めた。最初は土か細い毛がついたのだと思い、ズボンへ手をこすりつける。しかし、むずむずした感覚はすぐに強くなり、細い針を何本も刺されたような刺激へ変わった。


「何だ、これは」


 レイモンドは両手を見た。切り傷は見当たらないが、指の間と手首が赤くなっている。気にせず包丁を握り直すと、今度は手のひらまで刺激が広がった。


「うっ……痛い。何をした」


 芋へ問いかけても答えはない。手首から腕へ細かな針が這い上がるようで、レイモンドは包丁を取り落とした。冷たい水で洗えば治まると思い、水差しの中身を両手へかけたが、刺激は消えなかった。


「痛い! かゆい! 何だ、この芋は!」


 彼は布巾で手を強くこすった。こするたび赤みが増し、指の間へ刺激が食い込んでくる。布巾にも芋の汁がつき、それを握り直したことで、手首まで同じ状態になった。


「誰か! 誰か来い! 医者を呼べ!」


 レイモンドの叫び声が、薄い壁と戸の隙間から路地へ響いた。向かいの家で洗濯物を取り込んでいた女性が、濡れた前掛けのまま走ってくる。五十歳ほどの彼女は、茶色い仕事着の袖を肘までまくり、手には片方だけ靴下を持っていた。


「何の騒ぎです。火事ですか」


「この芋が私を刺した! 毒だ、暗殺だ!」


「芋が暗殺するものですか。見せてください」


「触るな! 呪われている!」


 女性は卓の上に転がった芋を見ると、すぐに顔色を変えた。自分の前掛けで手を包み、直接触れないよう芋を鍋から遠ざける。続いてレイモンドの腕をつかみ、井戸へ連れていこうとした。


「コンニャク芋ではありませんか。素手で皮をむいたのですか」


「知っているのか。ならば早く治せ!」


「こすってはいけません。汁が広がります。冷たい流水で、しばらく洗い続けてください」


「さっき水をかけたが、治らなかったぞ」


「水差し一杯で治るなら、誰も手袋などしません。いいから井戸へ来てください」


 女性は路地の共同井戸までレイモンドを引っ張った。夕方の洗濯をしていた住人たちが、何事かと振り返る。濡れた肌着、子どもの靴下、色の褪せた布おむつが縄に並び、その下で元伯爵は両手を突き出して声を上げていた。


「見世物ではない! 向こうへ行け!」


「大声を出したのは、そちらでしょう」


「水を流しますよ。手を動かさないでください」


「冷たい! もっと温かい水はないのか」


「共同井戸に温水があると思いますか」


 女性は桶から水を少しずつ流し、レイモンドの手を洗わせた。刺激はすぐには治まらず、彼は何度も腕を引こうとした。そのたびに女性が手首をつかみ、周囲の住人が桶を運んでくる。


「顔には触らないでください。目に入ったら、手より大変です」


「額に汗が流れている。拭きたい」


「わたしが拭きます。自分で触らないで」


「もっと柔らかい布を使え。私の肌は繊細なのだ」


「その注文ができるなら、まだ元気ですね」


 女性は持っていた靴下を洗濯籠へ戻し、乾いた布でレイモンドの額を拭いた。布には石鹸と干した草の匂いが残っている。かつて香油を染み込ませた絹布しか使わなかったレイモンドは文句を言いかけたが、手の刺激が強まり、代わりに歯を食いしばった。


 しばらく洗うと、赤みは残ったものの、刺激は少しずつ弱くなった。女性は近くに住む薬師を呼び、レイモンドの両手へ薬草を煮出した液を含ませた布を巻かせた。薬師は黒い外套の下に寝間着を着たままで、夕食の途中だったらしく、口元にパン屑がついていた。


「命に関わるような状態ではありませんが、今夜は手をこすらないでください。痛みが強くなったり、目や口へ入ったりした場合は、すぐ治療院へ行くように」


「この程度も、すぐ治せないのか。薬師だろう」


「素手で触らないというのが、一番よい治療でした」


「それを先に言え」


「触ったあとに呼ばれたので、先には言えません」


 薬師は平然と答え、代金を要求した。レイモンドが伯爵家へ請求書を回せと言うと、周囲の住人たちが顔を見合わせる。向かいの女性は腰へ手を当て、包帯の巻かれた彼の手と、穴の開いた長靴を順番に見た。


「伯爵家というのは、取り上げられた大きなお屋敷のことですか」


「一時的に商会へ管理を任せているだけだ」


「では、その商会へ請求してもらいましょうか」


「待て。私が払う」


 レイモンドは上着の内側から、残り少ない銅貨を取り出そうとした。しかし両手に包帯が巻かれ、指をうまく動かせない。結局、女性に銅貨入れを取り出してもらい、薬師へ支払った。


 借家へ戻るころには、鍋の水がすべて蒸発し、底が黒く焦げていた。部屋には焦げた木と芋の青臭い匂いが充満している。卓には皮をむきかけたコンニャク芋が残り、その白い切り口が、蝋燭の火を受けて湿って光っていた。


「その芋は、どうするのです」


 向かいの女性は戸口に立ち、持ってきた豆のスープを卓へ置いた。中には刻んだ玉ねぎと小さな人参が入り、湯気と一緒に胡椒の香りが立っている。レイモンドは礼を言う代わりに、芋を顎で示した。


「窓から捨てろ。二度と見たくない」


「路地に捨てたら、子どもが触るでしょう。手袋をして、袋へ入れておきます」


「なぜ食べられないものが、食用の倉庫にあったのだ」


「食べられますよ。毒抜きと加工をすれば」


「これを食べるのか」


「昔、母が作っていました。木灰から取った灰汁を使い、何度も練って、茹でて固めるのです。手間がかかるので、今では作れる人も減りましたけれど」


 女性は厚い布で芋を包み、レイモンドが使った包丁と布巾にも直接触れないよう注意して片づけた。レイモンドは豆のスープを飲もうとしたが、包帯のせいで匙を握れない。皿の縁へ口を近づけると、髪が汁へ入りそうになった。


「食べさせろ」


「嫌です。両手で器を挟めば飲めるでしょう」


「私はけが人だぞ」


「わたしはあなたの使用人ではありません。それから、スープの器は明日の朝に返してください」


「味が薄いな」


「では返してください」


「いや、食べる」


 レイモンドは両手首で器を挟み、少しずつスープを飲んだ。豆は柔らかく煮えていたが、肉も高価な香辛料も入っていない。ところが昼から何も食べていなかった腹には、温かい汁がゆっくり染み込んだ。最後に残った人参を食べようとして器を傾けすぎ、鼻先へ汁をつけたところで、女性は笑いをこらえながら帰っていった。


 夜中、レイモンドは手のむずむずする感覚で何度も目を覚ました。掻こうとしても包帯が邪魔になり、布団の上で両腕を振る。屋根から落ちる水滴は相変わらず金属の鉢を鳴らし、隣の部屋からは男の大きないびきが聞こえてきた。


「エルナめ。危険な芋だと知っていて、私に押しつけたのだな」


 実際には、自分が勝手に持ち出した芋だったが、レイモンドはその部分を考えないことにした。エルナは倉庫で革手袋を借り、所有権まで契約書へ追記させていた。あのとき彼女が何を考えていたのか、思い返すほど腹が立った。


「あの女がこれを商品にできるはずがない。こんなもの、誰も買わん」


 レイモンドは包帯の両手を胸の上へ置き、目を閉じた。豆のスープの器は洗わないまま卓に残り、底に張りついた豆の皮が乾き始めている。以前なら朝になれば誰かが片づけたが、この部屋には誰も来なかった。


 翌朝、窓の隙間から差し込む光で目を覚ますと、両手は包帯で丸く膨らんでいた。刺激はかなり治まっていたものの、指を曲げるたび布が引っ張られる。寝台から起きようとして、上着の裾を足で踏み、危うく床へ転びかけた。


「まったく、どこまで私を苦しめれば気が済むのだ」


 卓の下には、昨日の女性が袋へ入れたコンニャク芋が置かれていた。捨てておけと言ったのに残されていることが気に入らず、レイモンドは足で蹴り飛ばそうとした。ところが長靴は脱いでおり、裸足のまま卓の脚を強く蹴ってしまった。


「うわあああっ!」


 包帯を巻いた両手を振り上げ、片足で跳ねた拍子に、今度は寝台の角へ膝をぶつけた。水差しが倒れ、昨日返すよう言われたスープ皿まで床へ落ちる。幸い皿は割れなかったが、乾いた豆の皮が床を転がった。


「今度は何ですか!」


 向かいの女性が戸を開け、髪に洗濯ばさみを一つつけたまま飛び込んできた。レイモンドが床に座って足の指を押さえている姿を見ると、彼女は天井を仰いだ。手には朝食用らしい焼いた小魚があり、香ばしい匂いが部屋へ広がった。


「芋に襲われた」


「卓の脚にぶつけたのでしょう」


「なぜ分かる」


「卓の下に足を入れて、芋を蹴ろうとした跡があるからです。その芋が自分から走ってきたなら、わたしも見てみたいですよ」


「笑うな。私は元クロフォード伯爵だぞ」


「元、なのですね」


「そこだけ聞き取るな」


 女性は焼いた小魚を口にくわえ、倒れた水差しを立てた。床を布で拭き、スープ皿を拾うと、レイモンドの前へ差し出す。彼が包帯の手を見せると、女性はため息をついて皿を持ち直した。


「お名前を聞いていませんでしたね。わたしはヘルガです。染物職人の夫と、向かいの家に住んでいます」


「レイモンド・クロフォードだ」


「では、レイモンドさん。昨日の器をお返しいただきます」


「伯爵様と呼べ」


「家賃を払えなくなったら追い出される借家に、伯爵様は住みません。朝食は、その硬いパンを食べてください」


「この手では食べられない」


「水に浸して、器から飲めばよいでしょう。昨夜、スープで練習しましたね」


 ヘルガは袋に入ったコンニャク芋を持ち上げた。捨てる場所を探しているのではなく、興味深そうに重さを確かめている。レイモンドは、エルナが同じように芋の表面を調べていたことを思い出した。


「その芋に、本当に価値があるのか」


「わたしには分かりません。母が作ったものは美味しかったですが、手間がかかりすぎました。灰汁の量を間違えれば固まりませんし、芋の扱いを知らなければ、昨日のあなたのようになります」


「私なら、もっと簡単な方法を考えられる」


「昨日、皮をむいただけで路地中を起こした方がですか」


「昨日は道具が悪かった」


「今日は両手が使えませんね」


 ヘルガは小魚の残りを食べ、頭と骨だけを紙へ包んだ。骨は乾燥させて畑の肥料にするのだという。本筋とは関係のない話を長々と説明してから、彼女は芋の袋を卓の下へ戻した。


「悔しいなら、まず正しい作り方を覚えることです。食べ物は、爵位を見て安全になってくれませんから」


「もう帰れ。朝から説教を聞く趣味はない」


「では、夕方まで騒がないでください。今日は白い布を染める日なので、手が離せません」


 扉が閉まると、レイモンドは硬いパンをにらんだ。包帯の両手で持つこともできず、水差しへ落として柔らかくする。ふやけたパンは形を失い、薄い粥のようになった。


「エルナなら、今ごろ芋を眺めて途方に暮れているだろう」


 そう口にしてみたが、自分の声は以前ほど確かなものに聞こえなかった。コンニャク芋が危険だと知っていたエルナは、同時に加工法も知っているはずである。レイモンドは水に浸したパンをすすりながら、卓の下の袋を何度も見た。


 一方、同じ朝、エルナの農園には近隣の村から集まった六人の作業員が立っていた。倉庫の屋根には新しい板が打ちつけられ、雨漏りを受けていた金属の鉢は、豆を洗うための道具として使われている。窓辺にはマルタが洗った白い布巾が並び、外では修理を終えた竈から細い煙が上がっていた。


 エルナは茶色の作業用ドレスに厚い前掛けを重ね、髪を白い布で覆っていた。足元には泥のついた革靴を履き、両手には肘近くまである厚手の手袋を着けている。伯爵夫人だったころの服装を知る作業員たちは、最初こそ落ち着かない様子だったが、エルナが自分で芋籠を運ぶと、少しずつ肩の力を抜いた。


「作業を始める前に、必ず守っていただきたいことがあります。この芋には、皮膚を強く刺激する成分が含まれています。決して素手で触らないでください」


「水で洗えば大丈夫なのですか」


 若い作業員のリーネが尋ねた。彼女は灰色の上着に赤い頭巾を合わせ、腰には母親から譲られた小刀を下げている。朝食に焼いた蕪を食べてきたらしく、近くに立つと炭と土の匂いがした。


「少し付着したからといって、慌てて手をこすってはいけません。広い範囲に汁を伸ばしてしまいます。すぐに作業を止め、手袋を外し、流水で十分に洗ってください。目や口には絶対に触れず、異常が強ければ薬師の診察を受けます」


「そこまで危ない芋を、食べ物にできるのでしょうか」


 別の作業員が不安そうに後ずさった。マルタは大鍋へ水を張りながら、その足元へ木箱を置いた。木箱の中には、一人ずつ名前を書いた手袋と前掛けが入っている。


「危ないからこそ、手順を守るのです。井戸水だって、泥や虫が入ったままでは飲めません。肉も生のまま何日も置けば腐ります。食べ物というものは、人の知恵と手間があって初めて、安全に食卓へ上がるのです」


「マルタの言うとおりです。知らずに触れれば危険です。けれど、正しい知識があれば、人を養う商品になります」


 エルナは木の卓へ祖母の調理帳を置いた。頁には何度も開かれた跡があり、灰汁の量を記した箇所には、祖母が落としたと思われる茶色い染みが残っている。余白には幼いエルナの字で、「まぜるのはたいへん」「おばあさまはつよい」と書かれていた。


「まず今日は、傷んだ芋と使える芋を分けます。皮をむく作業は、手袋の扱いに慣れてからです。急いで商品を作り、誰かを傷つけてしまえば、この農園は始まる前に終わります」


「売ることより、安全が先なのですね」


「はい。お客様だけでなく、ここで働く人の安全も同じです。納期や利益のために、誰かの身体を使い潰す商売にはいたしません」


 作業員たちは手袋を受け取り、自分の手に合うか確かめた。一番大きな手袋はマルタのものだったが、本人は指先が余ると言って交換を求めた。エルナが以前、マルタの手を「熊の手のようだ」と言って叱られた話をすると、作業場に小さな笑いが起きた。


「今の話は、作業手順に必要でしたか」


「生活の痕跡と、少し無駄な会話も必要だそうです」


「誰がおっしゃったのです」


「祖母です。作業ばかりでは腕も心も固くなると、よく申していました」


 マルタは納得したような、していないような顔で大鍋の蓋を開けた。鍋の中には、休憩時間に食べる豆と根菜のスープが煮えている。肉は少ししか入っていなかったが、炒めた玉ねぎと乾燥茸の香りが倉庫へ広がり、作業員たちの腹を鳴らした。


「説明が終わったら、朝のスープにしましょう。ただし、手袋を外して手を洗ってからです」


「まだ働いていませんが、もう休憩なのですか」


「空腹の人に危険な作業をさせてはいけません。手元が狂います」


「それも祖母の教えですか」


「いいえ。マルタが空腹だと、機嫌が悪くなるからです」


 作業員たちが笑い、マルタは無言でお玉を持ち上げた。エルナは叩かれる前に調理帳を閉じ、食器を並べ始める。厚手の手袋を外した手には、土の汚れが爪の近くまで入り込んでいた。


 同じコンニャク芋を前にして、レイモンドは自分の知識不足を認めず、芋と道具へ責任を押しつけた。エルナは芋の危険を隠さず、働く人々と知識を分け合った。一人が手に入れたのは包帯と焦げた鍋であり、もう一人が手に入れようとしているのは、誰もが安全に働ける製造法だった。


 農園の窓から朝日が差し込み、黒ずんだ芋の表面を照らした。エルナはスープの器を作業員へ渡しながら、今日の作業予定を読み上げる。王都ではまだ誰も、この不格好な芋が食卓へ並ぶ日を想像していなかった。


「食べ終わったら、最初の一籠を選別します。焦らず、一つずつ始めましょう」


「はい、農園主」


 リーネが初めてそう呼び、エルナは匙を持ったまま顔を上げた。伯爵夫人という名で呼ばれたときより、その言葉は重く聞こえた。彼女は温かいスープを一口飲み、立ち上る湯気の向こうに並ぶ芋を見つめた。



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