第1話 華麗なる離婚と、手元に残った謎の芋
第1話 華麗なる離婚と、手元に残った謎の芋
クロフォード伯爵家の大広間には、朝から百合の香油が漂っていた。磨き上げられた長卓には銀の燭台が並び、その中央には、離縁合意書と財産目録が置かれている。エルナの前には冷めた紅茶と、手をつけていない杏の焼き菓子があった。朝食を取る時間もなく呼び出されたため、空腹で胃が縮んでいたが、向かいに座る夫の顔を見ながら食べる気にはなれなかった。
エルナは濃紺のドレスを着て、十年間使い続けた銀の髪留めで栗色の髪をまとめていた。袖口は少し擦れていたが、昨夜のうちに自分で糸を通し、目立たないように繕ってある。対するレイモンドは、真珠色の上着に金糸の刺繍が入った新しい衣装を着ていた。その衣装一着で、使用人十二人分の冬の薪が買えることを、彼は知らない。
「それでは、離縁の条件を確認しよう。君には領地の南西にある土地を与える。建物も一棟ついているから、住む場所には困らないはずだ」
レイモンドは羽根ペンを指先で回し、慈悲深い夫を演じるように顎を上げた。彼の右手には、これまで見たことのない青い宝石の指輪が光っている。愛人のリリアと揃いで作らせたものだろうと察したエルナは、その購入記録を帳簿の中で見たことを思い出した。宝石商への支払いは三か月も滞っているのに、レイモンドは指輪を隠そうともしなかった。
「南西の土地とは、旧石切り場に隣接する七ヘクタールの荒れ地ですね。三年前の長雨で道が崩れ、荷馬車が通れなくなった場所です。建物というのは、二十年前に使われなくなった農具倉庫でしょうか」
「細かいことをよく覚えているな。土地であることに変わりはない。離縁された妻に、これほどのものを与える夫はめったにいないぞ」
「井戸はありますか」
「井戸?」
「人が暮らす建物だとおっしゃったので、確認しております。井戸と竈と便所は使用できますか」
レイモンドは答えず、財産目録をめくった。紙が二枚、床へ落ちたが、拾おうとはしない。壁際に控えていた執事が腰をかがめようとすると、エルナは目で制した。今後も誰かが落としたものを別の誰かが拾い続ける屋敷になるのだろうが、それはもう自分が整える暮らしではなかった。
「井戸くらい、掘ればよいだろう。伯爵家から土地を受け取っておきながら、まだ不満を言うつもりか」
「不満ではなく、資産価値を確認しているだけです。土地には未払いの税や抵当権があります。口約束だけで受け取るわけにはまいりません」
「君は昔から可愛げがない。リリアなら、私が贈り物をすれば素直に喜ぶ」
その名前が出ると、レイモンドの声は一段柔らかくなった。広間の隅に置かれた小卓には、薄桃色の手袋と、食べかけの砂糖菓子が残されている。昨夜、リリアがここで離縁協議の準備を見物していたらしい。砂糖の粉が絨毯に落ち、蟻が一匹、椅子の脚を上っていた。
「リリア様は、屋根の傾いた倉庫や枯れた井戸を贈られたことがないのでしょう」
「君は最後まで彼女を悪く言うのだな」
「いいえ。悪く申し上げているのは、資産価値を偽って説明するあなたのことです」
レイモンドの指から羽根ペンが落ち、白い卓布に黒いインクの染みが広がった。彼は舌打ちをして、染みの上へ財産目録を重ねる。エルナは結婚してから何度も、夫が起こした問題を同じように覆い隠してきた。領民への支払いが遅れれば自分の持参金から補い、晩餐会の費用が足りなければ料理人と相談して献立を変更し、夫が忘れた約束には謝罪状を書いた。
「その態度が、私をリリアへ向かわせたのだ。妻ならば、夫を立てるものだろう」
「私は十年間、あなたを立ててまいりました。その結果、あなたは一人で立てなくなったようですね」
「何だと?」
「何でもございません。続きをお願いいたします」
エルナは冷めた紅茶を一口飲んだ。渋みが舌に残り、百合の香油と混ざって妙な味がした。それでもカップを置く手は震えていなかった。夫が愛人を選んだ夜も、離縁を告げた朝も、エルナは泣かなかったが、それは強かったからではない。支払い、食糧庫、使用人の給金を考えているうちに、泣く時間がなくなっただけだった。
「ほかには、倉庫に残っている農作物をすべて君へ譲る。これで十分だろう」
「農作物とは、何でしょう」
「私が知るものか。黒くて大きな芋だそうだ。料理長は食用に向かないと言っていた。家畜も食べないらしいが、君なら何かに使えるのではないか」
レイモンドは口元をゆがめ、椅子の背へ深くもたれた。価値のないものを押しつけ、慰謝料を支払った形にするつもりなのだろう。弁護士も気まずそうに咳払いをし、財産目録の端を指で撫でた。エルナは目録に記された数量を読み、ゆっくりと顔を上げた。
「およそ二百籠とありますが、実物を確認できますか」
「そんなものを見てどうする。受け取るのか、受け取らないのか、ここで決めろ」
「価値がないとお考えなら、確認されても困らないはずです」
「伯爵夫人だった君に、土を掘る暮らしができるものか。芋の一つや二つを見たところで、何も変わらん」
レイモンドは勝ち誇ったように笑い、砂糖壺から角砂糖を三つ取って紅茶へ落とした。混ぜ方が足りず、最後の一口には溶け残った砂糖がたまる。その癖を知っているエルナは、以前なら何も言わずに銀匙を差し出していた。今日は手を動かさず、弁護士へ倉庫の鍵を求めた。
古い倉庫は、屋敷の裏手にある厩舎のさらに奥に建っていた。扉を開けると、湿った藁と土の匂いが流れ出し、レイモンドは刺繍入りの袖で鼻を覆った。天井には蜘蛛の巣が垂れ、壁際には欠けた鉢や折れた鋤が積み上げられている。昼食前の料理番が干したらしい布巾が、窓辺で風に揺れていた。
「こんな場所まで来る必要があったのか。靴が汚れたではないか」
「あなたの靴より、離縁後の私の暮らしのほうが重要です」
「君は本当に、冗談が通じない女だな」
「冗談をおっしゃっていたのですか。十年間、気づきませんでした」
レイモンドが顔をしかめる横で、エルナは籠に掛けられた麻布を持ち上げた。中には、黒褐色の皮に覆われた大人の拳ほどの芋が詰まっている。いくつかは傷んでいたが、固く締まったものも多い。鼻を近づけると、乾いた土の中に、幼いころ祖母の家で嗅いだ匂いが残っていた。
夏の終わり、祖母は木綿の手袋をはめ、決して素手で芋に触れてはいけないと繰り返した。台所の隅では木灰から取った灰汁が甕に入り、大鍋では白っぽい生地がゆっくり固まっていた。子どものエルナが味見を急かすと、祖母は干していた豆を選り分けながら笑った。
「手間を嫌う人には、ただの厄介な芋だよ。でもね、手間を惜しまない人には、冬を越す食べ物になる」
エルナは無意識に芋へ伸ばしかけた手を止め、近くにあった革手袋を借りた。表面の固さと芽の状態を確かめ、別の籠も順番に調べていく。二百籠すべてが使えるわけではないが、種芋として残せるものと、すぐ加工できるものに分ければ、事業を始めるだけの量はある。
「どうした。泥だらけの芋が、それほど珍しいか」
「レイモンド様、この芋は本当にすべて私へ譲ってくださるのですね」
「好きなだけ持っていけ。屋敷に置いておけば、処分費がかかるだけだ」
「処分費も含めて、私が引き受けます。ただし、土地と倉庫内の農作物に関する所有権を、離縁後に取り消せない旨を契約書へ追記してください」
「そんなものを取り戻しに行くほど、私は暇ではない」
「では、問題ありませんね」
エルナが弁護士を見ると、彼はすぐに追記を始めた。レイモンドは退屈そうに欠伸をし、靴底についた泥を倉庫の柱へこすりつけている。自分が何を手放したのか、少しも考えていないらしい。その様子を見たエルナは、芋を籠へ戻し、麻布を丁寧に掛け直した。
大広間へ戻ると、昼食の鐘が鳴っていた。扉の外から、焼いた鴨肉と玉ねぎの甘い匂いが漂ってくる。レイモンドは離縁協議を早く終わらせ、リリアと食事をしたいのだろう。椅子へ座るなり、契約書の末尾を指で叩いた。
「これで満足だろう。早く署名しろ」
「確認いたします。南西の土地七ヘクタール、土地に付属する倉庫一棟、倉庫内の農具と農作物一式。いずれも抵当権はなく、離縁成立後、クロフォード伯爵家は所有権を主張できない。間違いございませんね」
「何度も言わせるな。すべて君のものだ」
「承知いたしました」
エルナは契約書を最後まで読み、インクの状態を確かめてから署名した。十年間、領地の書類には「クロフォード伯爵夫人エルナ」と記してきたが、今日は結婚前の姓を使った。書き終えた自分の名前は見慣れないほど短く、それでも紙の上にまっすぐ収まっていた。
レイモンドもろくに読まず、離縁合意書へ署名した。使用人が新しい紅茶を運んできたが、彼はエルナには勧めず、自分のカップだけを満たさせる。これからリリアと新しい暮らしを始めるのだと語り、南向きの夫人の部屋を彼女好みの桃色に塗り替えるつもりだと笑った。
「そうだ。リリアは朝が弱いから、朝食は十一時にさせる。君のように日の出前から帳簿をめくる女がいなくなれば、この屋敷も明るくなるだろう」
「料理人へ早めにお伝えください。パンの仕込み時間が変わります」
「離縁したあとまで指図するな」
「では、今の発言は忘れてください」
エルナは椅子から立ち、衣服の裾を整えた。これまでなら夫が席を立つまで待ったが、その必要もない。大広間を出ると、背後でレイモンドが弁護士に、離縁成立を祝う酒宴について話し始めた。今夜も高価な葡萄酒を開けるつもりらしい。
翌朝、エルナは夜明け前に目を覚ました。夫人の寝室には大きな寝台、化粧台、絹張りの長椅子が残っていたが、持ち出す荷物は衣装箱一つに収めている。普段着のドレスを三着、下着、厚手の靴下、裁縫道具、母からもらった木の櫛を詰め、宝石類は使用人への未払い給金に充てるため執事へ預けた。
朝食には、硬めに焼かれたパンと豆のスープが運ばれてきた。スープの表面には薄い膜が張っていたが、エルナはパンを浸して残さず食べた。次に温かい食事を取れるのがいつになるか分からない。食後、ナプキンを畳んでいると、マルタが大きな旅行鞄を二つ抱えて入ってきた。
「マルタ、その荷物は何ですか」
「わたしの着替えと、鍋と、包丁と、干し肉です。奥様は衣装より先に帳簿を詰める方ですから、食べ物のことは忘れておられると思いまして」
「あなたには、この屋敷で働き続ける権利があります。私についてくれば、しばらく給金を払えないかもしれません」
「ここへ残れば、給金を払う方が帳簿の場所すらご存じありません。どちらが危険かは、考えるまでもございません」
「倉庫は屋根が傾いているそうですよ」
「鍋を置く場所に雨が落ちなければ、台所にはなります」
マルタはそう言って、エルナの衣装箱を持ち上げた。使用人用の灰色の服に丈夫な革靴を合わせ、腰には布巾を二枚も下げている。一本は食器用、もう一本は手を拭くためだと、彼女は昔から使い分けていた。そんな小さな習慣まで持ってきてくれることが、エルナにはありがたかった。
「それから、これを忘れておられました」
マルタが差し出したのは、表紙の角が丸くなった祖母の調理帳だった。灰汁の作り方、芋の保存方法、山菜の毒抜き、干し肉を長持ちさせる塩の量が、祖母の大きな字で記されている。間には、幼いエルナが押し花にした赤いクローバーが挟まっていた。
「ありがとうございます。これがなければ、最初の一鍋から失敗するところでした」
「帳面があっても、混ぜるのは人の腕です。奥様にも働いていただきますよ」
「もう奥様ではありません」
「では、エルナ様。鍋を焦がしたら、容赦なく叱ります」
「それは以前から変わりませんね」
二人が玄関へ下りると、見送りに集まった使用人たちが静かに頭を下げた。何人かは目元を赤くしていたが、エルナは別れの言葉を長くしなかった。新しい主人のもとで働く者に、余計な疑いをかけさせたくない。代わりに、給金の未払い分を一覧にした帳面を執事へ渡し、宝石の売却代金で必ず清算するよう念を押した。
「奥様、どうかお元気で」
「あなたたちも。台所の北側の棚に、冬用の乾燥豆があります。新しい夫人が献立を変えても、捨てないよう料理長へ伝えてください」
「最後まで豆の心配ですか」
「食べ物を捨てると、マルタに叱られますから」
小さな笑いが起こり、張りつめていた空気がわずかに緩んだ。そこへ二階からリリアが姿を見せた。薄桃色の寝間着の上に白い毛皮を羽織り、片手には蜂蜜をたっぷり入れた温かい乳を持っている。朝が弱いと聞いていたが、エルナが出ていくところは見物したかったらしい。
「まあ、本当にその服だけで出ていくのですか。遠慮なさらず、古いドレスくらい持っていけばよろしいのに」
「必要なものは持ちました。リリア様も、お身体を大切になさってください」
「ええ。レイモンド様が大事にしてくださいますもの」
「でしたら安心です。ところで、南棟の暖炉は煙道が詰まりやすいので、月に一度は掃除を頼んでください。放置すると寝室へ煙が逆流します」
「そんなこと、使用人に任せればよいでしょう」
「その使用人へ指示する人が必要なのです」
リリアは意味が分からないという顔で乳を飲んだ。蜂蜜が口元についたが、本人は気づいていない。エルナはハンカチを差し出しかけてやめ、マルタとともに玄関を出た。朝の空気には冬の名残があり、鼻の奥が冷たくなった。
馬車が伯爵邸を離れると、石畳の振動で衣装箱の留め金が小さく鳴った。マルタは膝の上で干し肉を切り、黒パンに挟んでエルナへ渡す。塩気の強い肉を噛みながら窓の外を見ると、整えられた街路樹が消え、畑と雑木林が増えていった。
「レイモンド様は、いつごろ土地の価値に気づくでしょう」
「まずは今月末の支払い期日に気づくところからでしょうね」
「三日後ではありませんか」
「そうでした。では、あまり時間はかかりません」
二人は顔を見合わせたが、声を上げて笑うことはしなかった。馬車の御者が振り返り、道が悪くなるので舌を噛まないよう注意する。まもなく車輪が大きな石を踏み、マルタの持っていた黒パンから干し肉が一枚、床へ落ちた。
「三秒以内なら食べられます」
「伯爵家の作法にはありませんでした」
「今日から農園の作法です」
昼過ぎ、馬車は南西の土地へ到着した。道と呼べるものは途中で消え、最後の半刻は二人で荷物を抱えて歩かなければならなかった。腰の高さまで枯れ草が伸び、種がドレスの裾へ次々とくっつく。遠くには灰色の岩山があり、風が吹くたび乾いた草と湿った土の匂いが混ざった。
倉庫と呼ばれていた建物は、予想以上に傾いていた。扉は片方の蝶番が外れ、屋根には鳥の巣がある。中へ入ると、驚いた鼠が袋の陰へ逃げ込み、マルタは反射的に鍋を構えた。
「鍋は鼠を叩く道具ではありません」
「料理人にとって、鍋は盾にもなります。あの鼠が食糧袋を狙うなら、敵です」
「最初に必要なのは、屋根の修理と食糧箱ですね」
「寝台も必要です。エルナ様は床で眠ると、翌朝、腰を押さえて動かなくなりますから」
「二十八歳です。そこまで弱くありません」
「昨年、絨毯の上で帳簿を読みながら眠り、三日間首が回らなかった方はどなたですか」
エルナは返事をせず、窓の鎧戸を開けた。差し込んだ光の中で埃が舞い、くしゃみが一つ出る。マルタがすぐに布巾を口元へ巻けと言い、エルナは素直に従った。
倉庫の奥には、大広間で確認したものとは別に、さらに多くのコンニャク芋が積まれていた。前の耕作者が栽培していたのだろう。壁には植え付けの時期や収穫量を記した木札も残されている。文字は雨染みで薄れていたが、数年分の記録を読み取ることができた。
「マルタ、この土地は使えない荒れ地ではありません。少なくとも以前は、誰かが作物を育てていました」
「なぜ、その方々はいなくなったのでしょう」
「帳簿を調べます。税を払えず追い出されたのなら、その家族も捜しましょう。この芋を育てる技術を知っているはずです」
「お金は足りますか」
「足りません。ですから、作ります」
エルナは祖母の調理帳を開き、コンニャクの加工法が書かれた頁を確認した。材料と道具を揃え、試作品を作り、市場で反応を調べる。その後に栽培量を増やし、輸送路を整える必要がある。やることを書き出せば、一枚の紙では足りなかった。
マルタは外へ出ると、荷物の底からよく研がれた鎌を取り出した。夕食のために火を起こすより、まず建物の周囲だけでも草を刈るつもりらしい。エルナも濃紺のドレスの袖をまくり、上等な手袋を外した。
「その手袋では、すぐに手が傷だらけになりますよ」
「倉庫に革手袋がありました」
「中に虫が入っていないか確認してください。エルナ様は以前、靴の中に蜘蛛がいただけで廊下の端まで走りました」
「あれは蜘蛛がいたことではなく、急に足を動かしたことに驚いたのです」
「蜘蛛が足を動かすのは普通です」
「今日は本筋と関係のない昔話をするのですね」
エルナは革手袋を逆さにして振り、中に何もいないことを確認してから手にはめた。鎌を借りようとしたが、マルタは首を横に振り、代わりに小さな鍬を渡す。握り慣れていない木の柄はざらつき、手袋越しにも硬さが伝わった。
エルナは屋敷のほう角を振り返った。ここからでは、尖塔も煙突も見えない。十年間暮らした部屋も、磨き続けた銀器も、夫が愛人へ与えた宝石も、雑木林の向こうに隠れていた。
「マルタ、私は伯爵家の名を使わずに、この芋を売りたいと思います」
「はい」
「誰かの妻だから買ってもらうのではなく、商品に価値があるから買ってもらいます。畑で働く人にも、加工する人にも、決めた日に賃金を払える場所を作ります」
「でしたら、まず今日の寝床を作りましょう。大きな夢を語る人ほど、毛布を干すのを忘れます」
「あなたは、もう少し雰囲気を大切にできませんか」
「湿った毛布で眠れば、明日の朝には雰囲気より咳が出ます」
マルタは鎌を振り、枯れ草を根元から刈った。乾いた茎が音を立てて倒れ、草の中から小さな白い花が現れる。エルナは鍬を土へ差し込んだが、石に当たって手首まで衝撃が走った。
「思っていたより、硬いですね」
「伯爵夫人だった方に、土を掘る暮らしができますか」
マルタがレイモンドと同じ言葉を使い、口元を緩めた。エルナは鍬の刃を石の脇へ入れ直し、両足へ力を込める。二度目で土が崩れ、黒い塊が持ち上がった。
「できます。上手になるまで、何度でも掘ります」
「それでは、夕食までに十列お願いします」
「急に厳しくありませんか」
「農園主になるのでしょう」
風が吹き、刈った草の青い匂いが広がった。傾いた倉庫では鼠が走り、馬車の床へ落とした干し肉は夕食のスープに入れることになった。エルナの濃紺のドレスには泥が跳ね、額には細かな汗がにじんでいる。
それでも、誰かの失敗を隠すためでも、夫の名誉を守るためでもなく、自分で決めた仕事に手を動かしていた。鍬を土へ入れるたび、石の下から小さな芽と太い根が現れる。この土地には、何もないのではない。見ようとする者がいなかっただけだった。
「ここから、私の名前で稼ぎます」
「はい、エルナ様。ですが、今夜は干し肉と豆のスープです」
「コンニャクは入れないのですか」
「安全な加工法を確認するまでは、一切食べません。生の芋を素手で触ったら、ひどい目に遭いますよ」
「誰がそのような無謀なことをするのでしょう」
二人は屋敷の方角を振り返った。遠く離れた伯爵邸では、そのころレイモンドが昼から葡萄酒を飲み、倉庫から自分用に持ち出した黒い芋を、暖炉の脇へ転がしていた。
もちろん彼は、その芋を素手で触れてはいけないことなど知らなかった。




