第四十一話 ミクとリリス
闇だった。
視界も。
音も。
方向感覚さえも。
すべてが、底なしの黒に飲み込まれている。
俺は、
自分が地面の上に立っているのかどうかさえ分からなかった。
「——っ!」
反射的に声を上げようとする。
だが、喉から出たはずの声は、
この闇に触れた瞬間、
まるで吸い込まれるように消えていった。
何も、返ってこない。
その時だった。
闇の奥から、
ゆっくりと、一つの影が浮かび上がる。
銀白色の長髪。
全身を覆う、漆黒の魔力。
——リリス。
「……!!」
背筋が凍る。
俺はほとんど本能で、
一歩後ずさった。
だが、その直後。
「ユウマさん!」
別の声が、闇の中に響いた。
振り向く。
茶色の長髪を揺らしながら、
少女がこちらへ駆け寄ってくる。
ミクだった。
彼女は迷いなく俺の前へ立ち、
庇うように両手を広げた。
「……これ以上、私たちに近づかないで」
ミクは低い声で言った。
決して強い口調ではない。
それでも、
その声には珍しいほど強い警戒が滲んでいた。
リリスは足を止める。
そして、
静かに口を開いた。
「安心しろ」
「この空間では、力に意味はない」
彼女は軽く手を上げる。
「これはルシアが最後の魔力を使って創り出した空間だ」
「そして——」
「吾らが結論を出すための場所でもある」
次の瞬間。
パチン。
小さな指鳴らしの音が響いた。
すると、
何もなかった闇の中に、
二脚の椅子が現れる。
向かい合うように。
まるで、
誰かが座るのを待っていたかのように。
リリスは先に腰を下ろした。
動作は落ち着き払っていて、
ここが精神世界ではなく、
交渉の席であるかのようだった。
俺とミクは顔を見合わせる。
どちらも、すぐには座れなかった。
だが、
リリスは気にした様子もなく、
腕を組んだまま口を開く。
「ここで決める必要がある」
「この身体を——」
「最終的に、誰が主導するのかを」
漆黒の瞳が、
真っ直ぐミクを見据える。
対するミクは、
どこか不安そうに俺を見た。
何を言えばいいのか、
分からないのだろう。
俺はそっと、
彼女の肩を叩いた。
「大丈夫だ、ミク」
耳元で小さく囁く。
「むしろ、今の状況はこっちに有利なんだ」
俺は椅子に座るリリスを見る。
そして、小さく笑った。
「だってリリスは——」
「とうとう俺たちと“話し合う”ところまで追い込まれたんだから」
ミクは少しだけ目を瞬かせた。
「……でも」
「私、何を言えば……」
「思ったことを、そのまま言えばいい」
俺は言う。
「俺は、ミクの直感を信じてる」
彼女は少し驚いたように俺を見た後、
ゆっくり頷いた。
そして。
ついに椅子へ歩いていく。
リリスと向かい合うように座った。
闇の中。
同じ顔。
違う空気。
二人が静かに見つめ合う。
先に口を開いたのは、リリスだった。
「まず」
低い声が響く。
「ルシアは吾を裏切った」
「だが同時に——」
「吾に、自分の未熟さを理解させた」
彼女は目を閉じる。
声は重く、
どこか疲れていた。
「魔族とエルフの間に存在していた長年の対立」
「それを吾は、最後まで解決できなかった」
「だからこそ」
「ルシアは、あのような極端な方法を選んだ」
「つまり、あの裏切りは——」
「吾の失態でもある」
俺は目を見開いた。
リリスが、
自分の非を認めた。
それは初めてのことだった。
やがて彼女は再び目を開く。
その黒い瞳には、
狂気に近い執念が宿っていた。
「だから今度こそ」
「吾は、争いの存在しない世界を創る」
「吾の力のすべてを使い」
「すべてを、吾の支配下へ置く」
闇が震える。
その声が、
世界全体に響き渡るようだった。
すると、
リリスの背後に、
無数の“顔のない影”が現れ始める。
人型。
だが、表情はない。
ただ静かに、
同じ方向を向いて立っていた。
「すべての命が、同じ意志に従えば」
「苦しみも」
「嫉妬も」
「争いも——」
「存在しなくなる」
「それこそが、理想の世界だ」
次の瞬間。
世界が歪んだ。
視界が大きく揺れる。
そして、気づけば——
俺たちは別の場所に立っていた。
空からは細かな雨。
灰黒色の雲が、
空を覆い尽くしている。
周囲には、
崩れた廃墟。
折れた旗。
焼け焦げた痕。
そして——
回収すらされていない無数の死体。
魔族。
エルフ。
入り混じって倒れていた。
本物の戦場だった。
「これは、ある戦争の後の景色だ」
リリスが静かに言う。
雨粒が、
銀白色の髪を伝って落ちていく。
「もし吾が、もっと早くすべてを征服していたなら」
「この光景は——」
「防げたかもしれない」
彼女はミクを見る。
鋭い視線だった。
「自由がある限り」
「裏切りは消えない」
「ならば、最初から自由を無くせばいい」
一拍。
「そなたには問う」
「そなたの理想世界を作る——覚悟と力が、あるのか?」
ミクは少し黙った。
それから、
ぽつりと呟く。
「みんなが同じ意志に従う世界なんて……」
彼女は眉を寄せた。
「……つまらなすぎるよ」
リリスの眉がわずかに動く。
ミクは続けた。
「私だって、“世界征服”できるもん」
「人を笑顔にして」
「明日を楽しみにしてもらって」
「生きてるのも悪くないって思ってもらう」
彼女は顔を上げ、
ふっと笑った。
「それだって——」
「世界を変えるってことじゃない?」
その瞬間。
ミクの背後に、
温かな光景が浮かび上がった。
食堂。
ラーメン屋。
餃子店。
笑い声。
湯気。
食器の音。
誰かの「美味しい」という声。
人間の営み。
日常の温度。
そんな景色だった。
リリスはそれを見て、
嘲るように笑う。
「そんなもので?」
「人の心を動かせると?」
「人を従わせるのは」
「力と恐怖だけだ」
「ううん」
ミクは首を横に振る。
「できるよ」
そして。
不意に、彼女は尋ねた。
「ねえ」
「リリスが、ルシアを拾った時って——」
「何を考えてたの?」
リリスの表情が止まる。
完全に予想外だったのだろう。
「……は?」
珍しく、
言葉に詰まった。
するとミクは、
彼女の代わりに答える。
「たぶん、何も考えてなかったんだよね」
「ただ——」
「目の前で命が消えるのを、見ていられなかった」
雨音が強くなる。
ミクは静かに続けた。
「確かに、あの子は迷った」
「いっぱい間違えた」
「でも」
「最初にあった優しさは、本物だった」
「だから、あの子は救われたんだよ」
リリスは何も言わない。
その時だった。
廃墟の中に、
もう一人の“リリス”が現れる。
過去のリリス。
今よりずっと、
表情が柔らかかった頃の彼女。
彼女は瓦礫の中から、
泣き叫ぶ赤ん坊を抱き上げる。
尖った耳。
涙まみれの顔。
呼吸も苦しくなるほど泣いていた。
過去のリリスは、
明らかに困っていた。
ぎこちなく赤ん坊を抱え、
しばらく固まる。
そして最後に。
不器用な顔で——
変なしかめっ面を作った。
次の瞬間。
赤ん坊は小さな手を伸ばし、
リリスの指を掴む。
泣き止んだ。
そして。
笑った。
今のリリスは、
その光景を呆然と見つめていた。
何も言えない。
ミクは静かに身を乗り出す。
「ほら」
優しく言う。
「やっぱり間違ってなかった」
「思い出して」
「私は、もともとあなたなんだよ」
「あなたの心の一部」
その声は柔らかい。
だけど、
まっすぐだった。
「現実に傷ついたからって」
「裏切られたからって」
「どっちか片方だけを選ばなくていい」
「リリス」
ミクは手を伸ばす。
「私はあなたで、あなたは私なの」
「どちらかを——」
「消す必要なんてない」
リリスは、
その手を見つめた。
そして。
ゆっくり、
自分の手を伸ばす。
だが。
途中で止まった。
彼女は小さく呟く。
「……もし」
「また裏切られたら?」
初めてだった。
リリスの声が、
こんなにも弱々しかったのは。
「吾は、あの子を救った」
「なのに——」
「裏切られた」
ミクは少し黙った後、
優しく答える。
「でも」
「もし、あの日」
「あなたが手を伸ばさなかったら」
「ルシアは——」
「生きることすらできなかった」
雨は、
まだ降り続いている。
ミクは静かに続けた。
「確かに、あの子は間違えた」
「でも」
「だからって」
「その時のあなたまで、間違いになるわけじゃない」
彼女は真っ直ぐリリスを見る。
「救った瞬間は、本物だった」
「善意は、完璧な結果を保証してくれない」
「それでも——」
「善意そのものは、本物なんだよ」
リリスは何も言わなかった。
ただ。
ずっと、
ミクの手を見つめていた。
長い沈黙のあと。
ようやく。
彼女はゆっくり手を伸ばす。
そして。
ミクの手を、握った。
それはまるで、
あの日。
泣いていた赤ん坊が、
彼女の指を握った時のように。
その瞬間——
世界が、光に包まれる。
眩い光の中で。
俺は確かに見た。
リリスの目元に、
一筋だけ光るものが浮かんでいたことを。




