第四十話 人を最後に救うものは、案外――日常だったりする
「――ミク。そろそろ、撮影を始めよう。」
その瞬間。
リリスの瞳が、大きく揺れた。
しかし――
「……黙れ……」
彼女は俯いた。
銀白色の長髪が、
微かに震えている。
「そんなもの……吾には関係ない!!」
次の瞬間。
彼女は掌に集めていた魔力を掻き消し――
代わりに。
俺の腹へ、渾身の蹴りを叩き込んだ。
「――ッ!!」
凄まじい衝撃が内臓を突き抜ける。
胃の中を無理やり掻き回されたみたいに、
全身が痺れた。
俺の身体はそのまま吹き飛ばされ、
床を何度も転がってようやく止まる。
「がっ……! ごほっ、ごほっ……!!」
喉の奥に、鉄臭い味が広がった。
息ができない。
腹を押さえたまま、俺は床に蹲る。
「悠真!!」
カナとヘスティアが、
慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫!? 立てる!?」
カナが俺の身体を支えようとする。
「っ……」
俺はふらつきながら身体を起こした。
だが足に力が入らない。
次の瞬間。
その場に膝をつき、
吐き気と痛みに耐えるように肩を震わせた。
ヘスティアが眉をひそめる。
「……どうやら。」
低い声で言った。
「説得作戦は失敗したようね。」
だが。
俺は荒い息のまま、
首を横に振った。
「いや……」
「……効いてる。」
「……は?」
カナとヘスティアが同時に目を見開く。
俺は腹を押さえながら、
ゆっくり顔を上げた。
痛みで頭が痺れている。
それでも。
口元だけは、少し笑っていた。
「リリスの力なら……」
「本気で俺を殺す気なら。」
「こんな回りくどいこと、する必要なんかない。」
俺は膝に手をつきながら、
ゆっくり立ち上がる。
「なのに今のは――」
「ただ、蹴り飛ばしただけだ。」
「俺はまだ、生きてる。」
視線の先。
銀白色の髪を揺らす魔王を見据えながら、
俺は断言した。
「これは……ミクが、まだリリスに影響を与えてる証拠だ。」
「あと少し……」
「あと少しで、あのバカを起こせる。」
カナとヘスティアは、
言葉を失っていた。
そして俺は。
再び、一歩前へ出る。
「ミク――!!」
俺は叫んだ。
「次のグルメ番組の撮影!!」
「またあの餃子の店、行くだろ!?」
リリスの身体が、びくりと震える。
「それに――」
俺はわざと、いつもの企画会議みたいな口調で続けた。
「ラーメン。」
「洋菓子。」
「コンビニの新作おにぎり。」
「……黙れ……」
リリスが頭を抱える。
呼吸が乱れていた。
「吾には……何を言っているのかわからない……」
「わからない?」
俺は思わず笑った。
「まさか。」
「餃子が何かも知らないのか?」
「餃子っていうのはな――」
わざとゆっくり説明する。
まるで日本に来たばかりの外国人に、
初めて食文化を教えるみたいに。
「薄い皮の中に。」
「肉汁たっぷりの肉が詰まってる食べ物で――」
「一口噛めば。」
「熱々の肉汁が、ぶわって口の中に広がるんだ。」
「黙れと言っている!!」
リリスが勢いよく顔を上げた。
黒い魔力が、一気に暴走する。
轟ッ!!
無数の黒い魔力が、
制御を失ったまま俺へ襲いかかった。
「――ッ!!」
ヘスティアが反射的に飛び出す。
キィン!!
黄金の剣閃。
彼女は飛来した魔力波を、次々と斬り払った。
爆風が謁見の間を吹き荒れる。
だが次の瞬間。
ヘスティアの表情が変わった。
「……これは……?」
痺れた手を見下ろし、目を見開く。
「魔力が……さっきより、かなり弱い。」
遠くで。
リリスが激しく息を切らしていた。
まるで今の攻撃だけで、
精神力を大きく消耗したみたいに。
「……リリス様……?」
ルシアが信じられないものを見るように呟く。
重傷を負ってなお。
彼女の瞳には、リリスしか映っていない。
自分が信奉する、“魔王”だけが。
「ミク!!」
俺は再び叫ぶ。
「起きろ!!」
「言ってただろ!?」
「次は激辛ラーメンに挑戦したいって!!」
「まだ食べてないもの、山ほどあるんだぞ!!」
「それに――」
「まだ皆で撮る番組、いっぱい残ってるだろ!!」
「そうです!!」
今度はカナも叫んだ。
「ミク先輩!!」
「私、助監督として!!」
「ちゃんと今後のスケジュール確認してますから!!」
目尻を赤くしながらも、必死に声を張る。
「この先の撮影予定、意味わからないくらい詰まってるんですよ!!」
「グルメ企画、多すぎて食べ切れないレベルなんですから!!」
その隣で。
ヘスティアまで、ぎこちなく口を開いた。
「……そうね。」
まだこういう空気に慣れていないのか、
少し戸惑いながら。
それでも彼女は続ける。
「私も……聞いたわ。」
「今後の仕事の予定が、かなり入っているって。」
ルシアは、そんな光景を見て吐き捨てるように言った。
「……くだらない。」
「リリス様は世界を統べる王だ!!」
「食事だの日常だの――」
「そんな矮小なものに、心を乱されるはずが――」
しかし。
言葉は最後まで続かなかった。
「ああああああッ!!」
突然。
リリスが頭を抱え、その場に膝をついた。
黒い魔力が完全に暴走する。
轟ッ!!
狂ったような気流が周囲を吹き荒れた。
銀白色の長髪が、魔力に煽られて舞い上がる。
そして――
その白髪の中に。
少しずつ。
茶色が戻り始めていた。
「なっ……!?」
ルシアの顔から血の気が引く。
その声には、
初めて本物の恐怖が滲んでいた。
「そんな……!」
「あの軟弱な人格が……まだ残っているだと……!?」
「ミク!! 頑張れ!!」
今だ。
俺はそう確信した。
だから、何も考えず走り出す。
だが。
その姿を見た瞬間。
ルシアの表情が完全に歪んだ。
「……人間風情がァ!!」
彼女は傷を押して魔力を叩き出す。
一直線に、俺へ向けて。
「――ッ!!」
だが次の瞬間。
黄金の閃光が空から落ちた。
轟!!
ルシアの攻撃が、強引に弾き飛ばされる。
その間に立っていたのは――
ヘスティアだった。
黄金の長髪をなびかせながら、
彼女はルシアを冷たく見下ろす。
「邪魔をするな。」
「ルシア。」
「貴様……!!」
ルシアが憎悪に満ちた目で睨み返す。
その間に。
俺はついに、ミクの元へ辿り着いた。
両手を伸ばし。
強く、その手を握る。
「ミク!!」
叫ぶ。
すると。
彼女はゆっくり顔を上げた。
その瞳は――
もう、さっきまでの虚無ではなかった。
俺がよく知っている。
少し不器用で。
でも優しい。
あのミクの目だった。
彼女は震える声で、俺の名前を呼ぶ。
「……ユウ……マ……さん……?」
その瞬間。
嬉しくて、泣きそうになった。
だが次の瞬間。
再び黒い魔力が噴き上がる。
彼女の瞳は、再びリリスの怒りと闇に染まった。
「……離れろ!!」
リリスが怒鳴る。
だが。
彼女の両手は――
それでもなお。
俺の手を強く握ったまま、
離そうとしない。
「貴様とあいつの契約など……!!」
リリスが歯を食いしばる。
「とっくに無効だ!!」
「今この身体を支配しているのは――」
「吾だ!!」
「……やめて……!」
同じ口から。
今度はミクの声が漏れる。
二つの人格。
二つの意志。
同じ身体の中で、激しく衝突し合っていた。
「……リリス様……」
その光景を見つめるルシアの目が、
徐々に狂気を帯びていく。
そして。
全員の意識がミクへ向いている隙に。
彼女はそっと俯いた。
影が。
床の上で静かに広がり始める。
まるで生き物みたいに。
音もなく。
俺とミクの足元へと伸びてきた。
ルシアの口元が、ゆっくり吊り上がる。
「……ならば。」
「このルシアが――」
「最後まで、お助けいたします。」
その瞬間。
足元に、冷たい感覚が走った。
嫌な予感がして下を見る。
すると――
いつの間にか。
俺とミクの影が。
立体的な“穴”へと変わっていた。
底の見えない、漆黒の闇。
次の瞬間――
闇が、大きく口を開ける。
そして。
俺とミクを。
まとめて呑み込んだ。




