第三十二話 これは本当に最後の一幕なのか?
遠くで、
今にも崩れ落ちそうなその背中を見つめながら——
俺は、歯を食いしばっていた。
あと一歩だ。
あと一歩で、
決断しなければならない。
——分かっているのに。
できない。
「悠真!!」
カナの声が、
鞭のように背中を打つ。
「何を迷ってるのよ!」
「戦えないあなたが、
ここに残って——何が変わるの?!」
言葉が、出ない。
——正しいからだ。
何もできない。
それが、
何より残酷だった。
——ドンッ!!
遠くで、紅の魔力が弾ける。
ミクの身体が、
再び吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられ、
土煙が舞い上がる。
それでも——
彼女は、立ち上がった。
揺れながら。
震えながら。
まるで、燃え尽きたはずのマッチが、
なおも消えまいとするように。
「……その程度?」
片目はすでに開かず、
血が頬を伝っている。
それでも、
彼女は笑った。
「……こんなの……全然、
効いてないんだけど……」
ヘスティアの動きが止まる。
首をわずかに傾け、
まるで珍しい生き物でも観察するように。
「……そうか」
怒りはない。
むしろ、
興味が混じっていた。
「私の前で、
そんな強がりを言える魔族は——初めてだ」
その瞳が、
ゆっくりと細くなる。
「魔族は本来、利己的な生き物だ」
「時間稼ぎをしているのは分かっている」
一歩。
また一歩。
距離が詰まる。
「だから見ていた」
「いつ諦めて、逃げ出すのかを」
空気が、重く沈む。
「だが——お前は逃げない」
ヘスティアは、
ミクの目の前で止まった。
「勝ち目がないと分かっていて、
なお立ち上がる」
その声音に、
ほんのわずかな揺らぎが混じる。
「——何のためだ?」
ミクは、
一瞬きょとんとした。
本当に、
考えたこともなかったように。
それから——
ふっと、笑った。
壊れかけた笑顔。
戦場には似つかわしくないほど、
柔らかい。
「それはね……」
呼吸は乱れている。
「私にも、よく分かんない」
顔を上げる。
その目は、
あまりにも澄んでいた。
「……たぶん——」
少しだけ首を傾げて。
いつものように、
少しだけ意地悪そうに。
「——あなたのこと、
嫌いだからじゃない?」
——空気が凍る。
ヘスティアの表情が、
初めて変わった。
「……そうか」
声が、冷える。
「なら——そろそろ終わりにしよう」
剣が持ち上がる。
金色の光が、
刃先に凝縮されていく。
それは攻撃ではない。
——終結。
次の一撃で、
すべてが終わる。
俺は、理解した。
「待て!!」
喉を引き裂くように、
声を張る。
「ヘスティア!!」
何もかも、
どうでもよかった。
「俺が行く!!」
一瞬——世界が静止する。
「だから——」
声が震える。
「もう、彼女を傷つけるな!!」
「悠真!!」
カナの叫び。
だが——
遅い。
光が、落ちた。
音はなかった。
ただ——
正確に。
まっすぐに。
金色の斬撃が——
ミクの胸を、貫いた。
——
何も、聞こえない。
彼女の身体が、
糸の切れた人形のように宙を舞う。
「……ミク?」
自分の声が出ていたのかも分からない。
次の瞬間——
拘束が、解けた。
身体が動く。
俺は走った。
転びそうになりながら、
それでも。
「おい……!おい!!」
地面に膝をつき、
彼女を抱き起こす。
軽い。
軽すぎる。
「ミク!!しっかりしろ!!」
彼女の頭が、
俺の腕にもたれかかる。
血が、唇からこぼれる。
「……ユウマさん……」
——それでも、笑っていた。
どうしてだ。
どうして、まだ笑える。
「ごめんね……」
声が、消えそうに細い。
「やっぱり……時間、稼げなかった……」
「喋るな!!」
俺は彼女の手を掴む。
「サキュバスだろ!エネルギー!全部持ってけ!!」
命令のように。
祈るように。
「……ユウマさん……」
彼女は、俺を見る。
優しすぎる目で。
「ありがとう……」
呼吸が、さらに浅くなる。
「最後まで……優しいね……」
「やめろ……」
「私……いいアイドルじゃなかったし……」
「やめろって言ってるだろ!!」
「このシーンも……
ちゃんと演じられなかった……」
それでも。
「……それでも……見捨てなかった」
——指先が、力を失う。
「……ユウマさん」
最後の声。
「大好きだよ」
——
——
手が、ほどけた。
応答は、ない。
瞳が——
ゆっくりと、
閉じられていく。
まるで、
力尽きて眠りに落ちるみたいに。
その瞬間、
彼女の中の光が、
静かに途切れた。
軽い。
紙みたいに。
「……」
世界が、静まる。
俺は、強く抱きしめる。
戻るはずもないのに。
「やめろ……」
「戻ってこい……」
「エネルギー……流れろ……!」
「動けよ……!!」
「無駄だ」
背後から声。
ヘスティアが、
歩み寄る。
その視線が、
わずかに止まる。
「……もう助からない」
「死んでいる」
「手を離せ、ユウマ」
俺は答えない。
ただ、目を閉じる。
深く、息を吸う。
——その時。
声。
外じゃない。
内側から。
頭の奥に響く。
低い。
知らない。
だが——
どこかで聞いたことがあるような。
「——やはり」
冷たい意志。
「力こそ、正義」
「……!」
意識が、引きずり込まれる。
暗闇。
すべてが消える。
ヘスティアも。
カナも。
世界も。
残っているのは——
俺と。
腕の中の彼女だけ。
「……誰だ」
声が、吸い込まれる。
「お前は誰だ!!」
闇の中。
その存在は、当然のように答えた。
「魔王」
一拍。
そして——
「リリス」




