#1-6 それぞれの道
新卒研修の最終日。
幸福機構の広大な食堂は、いつもと変わらず穏やかな光に満ちていた。
白を基調とした清潔な空間には、一ヶ月の基礎課程を終えた同期たちの、安堵の混じった静かな話し声が響いている。
ナギはトレイを持って窓際の席へ向かった。
この一ヶ月で、食堂には何度も通った。
最初は毎日違う料理を試していたが、結局一番好きになったのはオムライスだった。
ふわふわの卵。
優しい甘みのソース。
何度食べても飽きない。
今日も自然と選んでしまった。
「やっぱり、ここの自動調理システムはすごいね」
ナギは湯気の立つオムライスを見つめながら感嘆の声を上げた。
向かいには藤野アカリ。
隣には栗田ヒロ。
一ヶ月前は覚えられる気がしなかった同期たちの名前も、ようやく自然に呼べるようになった。
アカリは黒髪を耳にかけながら微笑み、ヒロは穏やかな表情でパスタを口に運んでいる。
それだけで少しだけ寂しかった。
明日からは、それぞれ別の道を歩くことになるのだから。
「本当に。明日からの配属が緊張するけど、この一ヶ月の座学から解放されるのは嬉しいな」
アカリがハーブティーを手に笑った。
「アカリさんは災害救助の統括部門に行くんだよね?」
「うん」
アカリは迷いなく頷く。
「私は元々、災害救助の現場で誰かの役に立ちたくてここに来たの。でも色々適性を見てもらって、自分でも考えてみて、前線で無理をするより後方支援の方が向いてるって分かったんだ」
その表情は明るかった。
諦めた顔ではない。
納得した人の顔だった。
「今の私には、それが一番社会に貢献できる形なんだと思う」
「僕も似たようなものかな」
ヒロが穏やかに続けた。
「僕は自分の限界を試してみたかったんだ。幸福労働者っていう特別な働き方にも憧れがあった」
少し笑う。
「でも実際に研修を受けてみたら、僕が本当にやりたいこととは少し違った」
「違った?」
「うん。すごいとは思う。でも僕は僕なりのやり方で社会に貢献したいなって」
ナギは二人の顔を見た。
アカリも。
ヒロも。
真剣に悩んでいた。
この一ヶ月間、それはずっと見てきた。
決して逃げたわけではない。
楽な道を選んだわけでもない。
悩んで。
考えて。
その上で選んだのだ。
だから否定する気持ちはなかった。
なかったのだけれど。
「午前中の説明、やっぱり衝撃的だったな」
ヒロが端末を見ながら呟いた。
「五月からの長時間稼働研修」
アカリも頷く。
「最終目標が七十二時間連続稼働だもんね」
少し沈黙が落ちた。
午前中の説明会。
三人とも同じ資料を見た。
三人とも同じ映像を見た。
三人とも同じ説明を聞いた。
幸福労働者。
長時間稼働。
補助リング。
身体補助。
外骨格。
そして、その先にある生き方。
誰も軽い気持ちでは聞いていなかった。
「正直、ちょっと憧れたんだ」
ヒロが言った。
「限界を超えて働くって、格好いいと思った」
ナギは頷いた。
その気持ちは分かる。
「でも」
ヒロは続けた。
「僕は、そこまでして働きたい訳じゃなかったみたいだ」
穏やかな声だった。
否定ではない。
ただ、自分の答えを見つけた人の声だった。
「私も似てるかな」
アカリが言う。
「すごいと思うし、尊敬もする」
少し考えて。
「でも私は、ずっと現場に立ち続ける人より、その人たちを支える側になりたい」
迷いは見えなかった。
そしてナギも気付く。
二人とも。
幸福労働者になれなかった訳ではない。
ならなかったのだ。
自分で選んだのだ。
(もしも)
ナギはふと思った。
(もしも二人が、小林先輩や白石先輩と会っていたら)
小林ミナ。
白石レイル。
思い出すだけで胸が熱くなる。
人のために働くことを心から誇りにしている人たち。
自分にはまだ届かない場所にいる人たち。
あの二人を見れば。
あの眩しさを知れば。
もしかしたら。
きっと。
きっと同じ気持ちになると思っていた。
けれど。
「――ううん」
ナギは首を振った。
それは自分の考えだ。
アカリにはアカリの幸福がある。
ヒロにはヒロの幸福がある。
それを決めるのは本人だ。
オラクル権。
幸福機構が何よりも尊重する権利。
自分自身の生き方を、自分で決める権利。
ナギが幸福労働者を目指したいと思うのと同じように、二人が別の道を選ぶこともまた尊重されるべきものだった。
「この食事が終わったら、最終意思確認だよね」
アカリが言う。
「うん」
「今ならまだ変更できるんだって」
少しだけ心配そうな顔。
「ナギ、本当に受けるの?」
「うん」
ナギは即答した。
迷いはなかった。
オムライスを綺麗に食べ終え、ナプキンで口元を拭く。
「受ける」
胸の中にある憧れ。
二人の先輩。
あの人たちの背中。
「小林先輩や、白石先輩みたいになりたいから」
言葉にすると少し照れくさい。
でも本音だった。
「誰かを幸せにするために全力になれる人になりたいの」
アカリとヒロは顔を見合わせた。
それから笑った。
「ナギらしい」
「うん」
二人とも引き止めなかった。
否定もしなかった。
ただ。
「応援してる」
アカリが言う。
「ナギならきっと素敵な幸福労働者になるよ」
「僕もそう思う」
ヒロも頷いた。
「無理はしてほしくないけどね」
「するかもしれません」
「する顔してる」
三人で笑った。
その時間が、少しだけ愛しかった。
だからこそ。
ここから先は違う道なのだという事実が胸に染みた。
食事を終える。
三人は食堂を出た。
面談室の並ぶ廊下。
途中で足を止める。
「じゃあ、またね」
「お互い頑張ろう」
短い挨拶。
アカリとヒロがそれぞれ別の部屋へ向かう。
ナギはその背中を見送った。
色んな考えの人がいるんだなぁ。
少し前の自分なら、きっと理解できなかった。
でも今なら分かる。
幸福は一つじゃない。
だから。
(それでも)
ナギは思う。
(わたしの研修担当が、小林先輩と白石先輩で良かったなぁ)
心の中だけで呟いた。
アスクが静かに浮かんでいる。
≪間もなく最終意思確認面談です≫
ナギは首元の補助リングにそっと触れた。
細く白い輪。
一ヶ月前は、ただの機械だった。
けれど今は違う。
毎日の調律。
睡眠管理。
体調補助。
不安で眠れなかった夜も。
初めて営業へ向かった朝も。
いつもそこにあった。
気付けば、自分の身体の一部のように感じている。
今日の説明会で、新しい機能についても聞いた。
身体補助パルス。
来月から始まる長時間稼働研修に合わせて解放される機能。
本来なら疲労で動けなくなる身体を支え、本来なら眠ってしまう脳を補助し。
理性が選んだ行動を後押しする技術。
七十二時間連続稼働。
今の自分には想像もつかない。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど。
ナギはリングを指先でなぞった。
この一ヶ月。
ずっと一緒だった。
そしてこれからも。
きっと一緒だ。
この相棒は、自分をどこまで連れて行ってくれるのだろう。
どこまで働けるのだろう。
どこまで人を幸せにできるのだろう。
その答えを知るのが、少し楽しみだった。
『並木ナギ。心の準備はよろしいですか』
ナギは小さく笑った。
「うん」
そして。
「行こう、アスク」
迷いなくドアノブを握る。
自分の意思を告げるための扉を。
ナギは力強く押し開けた。




