#2-1 はじめての72時間
営業部研修室。
ホログラムに大きく表示された文字を見て、ナギは思わず姿勢を正した。
【長時間稼働基礎研修】
ついに始まる。
幸福労働者候補としての本格訓練。
七十二時間連続稼働。
憧れ続けた世界への第一歩だった。
「まず最初に、一つ安心してください」
講師役で対面に座った小林ミナは、穏やかに微笑んだ。
「この研修で、最初から七十二時間達成できる人はほとんどいません」
ナギは瞬きをした。
「えっ」
ミナは資料を切り替えた。
【初回挑戦者平均稼働時間:41.2時間】
「目標は達成ではありません。自分の限界を知ること。自分がどこで疲れ、どこで判断力が落ち、どこで休息を選びたくなるのか。それを観測するための研修です」
ナギは少しだけ肩の力を抜いた。
七十二時間。
正直、想像もできなかったからだ。
「失敗しても大丈夫なんですね?」
「はい」
ミナは即答した。
「むしろ失敗するための研修です。最低限の調律を受け、自身の身体がどうなるのか。自身の体調に合わせて必要な休息を選ぶことも、立派な自己決定です。幸福労働は根性論ではありません。自分自身を理解するための技術です」
その言葉に、ナギは大きく頷いた。
なるほど。
そういうことなら、まずは挑戦してみよう。
そう思った。
--その時は。
◇
連続稼働研修。
開始から二十四時間。
思っていたより楽しかった。
新しい機能が解放された補助リングの姿勢サポート機能。
慣れてきた穏やかな調律で、疲労感は心地よい達成感に変わる。
網膜ディスプレイに表示される、アスクの誘導にも慣れた。
6時間に15分の全身メンテと仮眠。
今までならば家に帰っている時間であっても、そこで新しいお客様に、元気を届けている。
全てが新鮮だった。
「案外いけるかも!」
ナギは本気でそう思っていた。
◇
三十六時間。
休憩の前には少しめまいがある。
でも、まだ元気だった。
◇
四十八時間。
世界が変わった。
眠いのか、疲れたのか。
とにかく身体が重い。
肉体が悲鳴を上げているのが分かる。
補助リングは苦痛を消してくれない。
調律は苦痛を消さない。
苦痛に意味を与え、自ら前へ進むことを支援するものだ。
そして、今の調律は最低限。
だから眠気そのものは消えない。
脳が重い。
文字が読めない。
会話候補が頭に入らない。
笑顔を作ろうとしても表情筋が動かない。
『笑顔を届けなきゃ』
『活力を届けなきゃ』
『幸福労働者なんだから』
そう思うのに、身体がついてこない。
焦りだけが募る。
◇
48時間後、定期整備の時間になった。
アシスト内。
ナギはほとんど転がり込むように整備カプセルへ入った。
「十五分だけ、せいびすれば、だいじょうぶ」
そう信じていた。
カバーが閉じる。
意識が落ちる。
そして。
十五分後。
覚醒アラーム。
カプセル展開。
起床シークエンス。
しかし。
ナギの脳はまだ眠っていた。
「うぅ……」
瞼が重い。
頭が回らない。
「あ、と……もうちょっとだけ……」
寝ぼけた声。
半分夢の中。
「もうちょっとだけねたいです……アスク……」
静寂。
そして。
《承知いたしました》
アスクの落ち着いた声。
《N-100874様より、オラクル権に基づく休息継続の意思を確認しました》
「え……」
《本日の長時間稼働研修を終了します》
「…っと…」
《システムを安全停止モードへ移行します》
「……ふぇ?」
《お疲れ様でした。どうぞ健やかな睡眠を》
シートが再び倒れる。
覚醒補助停止。
調律停止。
活動モード終了。
幸福機構は、幸福労働者の自己決定を絶対に侵害しない。
寝ぼけていても。
間違いでも。
本人が選んだなら。
それが意思となる。
(…もうちょっと…ねたら…がんばろう……)
ナギの意識は再び深い闇へ沈んだ。
◇
「--あれ」
ぱちりと音がするくらい、いきなり意識が覚醒した。
春の日差し。
静かな部屋。
柔らかなベッド。
頭は信じられないほどすっきりしていた。
そして。
数秒後。
全てを思い出した。
「やっちゃったぁぁぁぁ!!」
がばりと起き上がった勢いでベッドへ突っ伏す。
ここはアシスト車内ではない。5月に正式に支給されたナギの幸福労働者専用待機個室。
つまり。
研修は終わっている。
完全に。
終わっている。
「アスクぅぅ……」
《おはようございます、ナギ様》
「違うんです!」
《二十三時間十四分の良好な睡眠を確認しました》
「違うんです!」
《肉体状態は健常値です》
「違うんですってば!」
アスクは少しも慌てない。
いつも通りだった。
《ナギ様が選択された意思です》
《責められる要素は存在しません》
分かっている。
それは分かっている。
誰も怒らない。
誰も責めない。
ペナルティもない。
そもそもが失敗前提の研修だと、最初から言われていた。
平均四十一時間。
自分は四十八時間だった。
数字だけ見れば悪くない。
それも分かっている。
でも。
「でもぉぉぉ……」
悔しかった。
あまりにも悔しかった。
ミナみたいになりたかった。
レイルみたいになりたかった。
なのに。
自分は。
「もうちょっと寝たいです」
と言ってしまった。
小林先輩ならできたのに。
白石先輩ならできたのに。
私はできなかった。
それが、すごく、悔しかった。
◇
目覚めたのが昼だったので、ナギはそのまま、重い足取りで営業部へ向かった。
アスクが連絡したのだろう。
ミナが待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます……」
声が小さい。
ミナは少し笑った。
「落ち込んでいますね」
「寝ちゃいました……」
「寝ますよ?」
即答だった。
ナギは顔を上げる。
「でも、白石先輩は二百四十時間……」
「白石先輩も寝ています」
「え?」
「寝ていますよ」
「え?」
「アシストで移動中は寝ています」
「え?」
「定期整備でも寝ています」
「え?」
「移動中にフレーム補助で歩きながら寝ています」
「え?」
ナギは完全に停止した。
ミナは首を傾げる。
「研修でやりましたよね?」
「やりました……」
「覚えています?」
「覚えています……」
「理解していました?」
「してませんでした……」
ミナが吹き出した。
「そうですか」
ナギは呆然としていた。
知っていた。
確かに聞いていた。
アシストでの移動時間は休息に充てられる。
定期整備時は仮眠する。
外骨格フレームによる動作補助があれば、意識が寝ていても自然な姿勢で歩ける。
全部、座学でやった。
なのに、頭の中のレイルは、眠らない超人になっていた。
「並木さん」
「はい……」
「白石先輩は人間ですよ」
「……はい」
「眠いです」
「……はい」
「疲れます」
「……はい」
「休みます」
「……はい」
「だから並木さんも休んで良いんです」
「……………」
ナギは黙った。
理屈では分かる。
全部分かる。
でも、悔しいものは悔しい。
ミナはそんなナギを見て、少しだけ優しく笑った。
「その悔しさも、良い観測結果だと思いますよ」
窓の外では春の光が揺れていた。
ナギは小さく唇を尖らせる。
全然納得していない。
けれど。
もう一回挑戦したいとは思っていた。
今度こそ。
今度こそ七十二時間。
そう思いながら。
「…今度こそ、ちゃんとやります」
「七十二時間ですか?」
「七十二時間です!」
ナギはまだ少しだけ膨れた顔で頷いた。




