#2-2 今度こそ、きっと
「寝ちゃいました……」
ナギは机に突っ伏したまま言った。
「寝ましたね」
ミナは穏やかに答える。
「四十八時間です」
「四十八時間でしたね」
「白石先輩は二百四十時間なのに……」
「白石先輩も寝ています」
「でも私は四十八時間で……」
「並木さん」
ミナは苦笑した。
「その話、もう三回目です」
ナギはうめき声を上げた。
飛び起きて、そのままミナを訪ねて、そろそろ2時間だった。
机に額を押し付ける。
恥ずかしい。
悔しい。
情けない。
でもどうしても納得できない。
「七十二時間やるつもりだったんです……」
「知っています」
「頑張ったんです……」
「そうですね」
「なのに……」
しばらく沈黙が流れた。
ミナはそんなナギを見つめる。
四十八時間。
初回としては十分優秀だ。
けれど今のナギにそれを言っても意味がない。
この子は納得するまで考える。
そして、次に進む方法を見つけないと立ち直れない。
パン、と軽く手を叩いた。
「さて」
ナギが顔を上げる。
「食事でもしてきてください」
「……」
「ご飯を食べて」
「……」
「その後で次の計画を立てましょう」
ミナは少しだけ笑った。
「また挑戦すれば良いんですから」
その言葉だけが、今のナギを前へ進ませる唯一の逃げ道だった。
◇
食堂は十五時の静寂に包まれていた。
昼食には遅く、夕食には早い。
利用者は少ない。
空腹感はなかった。
けれどミナに食事を勧められ、アスクにも食事を勧められ、ナギは素直にいつものオムライスを注文した。
受け取ったトレーを持ちながら、空いている席を探す。
(これ、無料なんだよな……)
ふわふわの卵。
香りの良いソース。
温かいスープ。
改めて考えるとすごい社会だ。
幸福労働者になってまだ数か月。
それでも時々、当たり前になりかけた日常に驚くことがある。
窓際の席へ向かおうとして。
ナギは足を止めた。
栗色の髪。
白い制服。
銀色の外骨格フレーム。
見間違えるはずがない。
白石レイルだった。
ちょうどトレーを置き、席へ座ろうとしているところだった。
(先輩だ!)
思わず嬉しくなる。
反射的だった。
「白石先輩!」
レイルが振り返る。
栗色の瞳がこちらを見る。
その瞬間。
ナギは思い出した。
二百四十時間。
そして。
自分は四十八時間。
(やばい。私、七十二時間やりますって言ってた。しかも寝ちゃった)
ものすごく気まずい。
でも、もう声をかけてしまった。
今さら逃げる方が変だった。
「お、お疲れ様です!」
「おつかれさまです」
ナギは慌てて姿勢を正した。
「あの……二百四十時間、お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
終わった。
会話が終わった。
ナギの脳内で警報が鳴る。
沈黙が降りる。
長い。
とても長い。
レイルは何も気にしていない。
ナギだけが勝手に焦っていた。
その時、ふとレイルのトレーが目に入った。
プロテインゼリー。
高栄養バー。
電解質飲料。
それだけ。
(えっ)
ナギは固まった。
(それだけ?)
二百四十時間働いた人の食事が?
レイルは席へ座る。
ナギは数秒迷った。
周囲には空席がいくらでもある。
でも、今さら別の席へ行くのも変だった。
意を決して向かいへ座る。
「その……ご飯ですか?」
「ごはんです」
「それだけですか?」
「それだけです」
ナギはオムライスを見る。
レイルはゼリーを見る。
世界が違う。
「……おいしいですか?」
レイルは考えた、ようだ。
数秒。
さらに数秒。
まるで自分の身体と相談しているような沈黙。
そして。
「ひつようです」
ナギは瞬きをした。
美味しいじゃないんだ。
必要。
その言葉だけが妙に胸に残った。
改めてレイルを見る。
少し青白い顔色。
華奢な肩。
細い首。
ゼリーを持つ、白い手。
レイルはゆっくり瞬きをした。
一度。
二度。
その動作だけで分かる。
眠いのだ。
本当に。
(あれ……)
ナギは思う。
(思ったより普通の人だ)
もっと超人みたいな何かだと思っていた。
眠らない。
疲れない。
そんな存在だと。
でも違った。
目の前にいるのは。
眠そうで。
疲れていて。
それで静かにご飯を食べている人だった。
「先輩」
「はい」
「お仕事中、眠くならないんですか?」
「ねむいです」
即答だった。
「え?じゃあ、つ、疲れますか?」
「つかれます」
「え?」
ナギは混乱する。
「じゃあ、なんで大丈夫なんですか?」
レイルは少しだけ考えた。
「だいじょうぶじゃない、です」
ナギは言葉を失った。
大丈夫じゃない。
眠い。
疲れる。
それでも働いている。
意味が分からない。
「なんで、そんなに働くんですか?」
レイルは黙った。
考えているらしい。
長い沈黙。
「なんで……」
小さな声。
さらに沈黙。
「わかりません」
ナギは思わず聞き返した。
「わからないんですか?」
「わかりません」
本当に分からないらしい。
レイルはまた考えた。
そして。
「でも」
小さく言う。
「だれかが、うれしいのは」
少しだけ間が空く。
「うれしいです」
それだけだった。
理屈じゃなかった。
理念でもなかった。
使命感でもなかった。
ただ。
誰かが嬉しい。
だから自分も嬉しい。
その言葉だけが静かに残った。
◇
レイルが席を立った後も、ナギはしばらく動けなかった。
窓の外では春の陽射しが街を照らしている。
家族連れが歩いている。
公園では子どもたちが走り回っていた。
オムライスは少し冷めていた。
(私もいつか)
フォークを握る。
(ここまで誰かのために働けるかな)
そして。
もう一つ。
別の感情が芽生えていた。
(でも……)
白石先輩には。
ちゃんと寝てほしいな。
不思議な感情だった。
止めたいわけじゃない。
働くなと言いたいわけでもない。
ただ。
あんなに眠そうな顔を見てしまったから。
少しだけ。
本当に少しだけ。
心配になった。
(私がもっと働けたら、先輩の担当を少し代われるかな)
そんなことを考えている自分に気付いて、ナギは少しだけ笑った。
四十八時間で寝落ちした人間が考えることじゃない。
でも。
いつか。
本当にいつか。
そうなれたら良いと思った。
◇
自室に戻る。
静かな部屋。
ベッド。
デスク。
壁際に置かれた小さな観葉植物。
正式配属と同時に与えられたこの部屋も、少しずつ自分の居場所になり始めていた。
ナギは椅子へ腰を下ろす。
「アスク」
《はい》
白銀の球体が静かに起動する。
「今回の研修ログを見せてください」
《表示します》
ホログラムが展開された。
そして。
「うわぁ……」
思わず顔をしかめた。
睡眠欲求指数。
認知能力。
会話品質。
表情維持率。
歩行安定性。
あらゆるグラフが四十六時間付近で急激に崩れている。
特にひどいのは会話品質だった。
営業シミュレーション中のログが再生される。
『本日はありがとうござまし……ございました……」
『えっと……』
『あれ……』
ひどい。
見ていられない。
途中で停止したくなる。
「うぅ……」
《四十八時間時点で認知機能の顕著な低下が確認されます》
「知ってる……」
《主因は睡眠不足です》
「それも知ってる……」
《補助パルス設定の最適化を推奨します》
ナギは少し考えた。
今回、自分はほぼ標準設定のまま挑んでいた。
根性で行けるところまで行こう。
そんな気持ちがどこかにあった。
研修も、それが目的だった。
でも、それは違う気がした。
レイルを思い出す。
眠い。
疲れる。
大丈夫じゃない。
それでも働く。
あれは根性じゃない。
もっと別の何かだった。
「七十二時間達成のための改善案をください」
《提案します》
複数のウィンドウが開く。
《三十六時間以降の食事内容変更》
《温水による消化負荷軽減》
《定期整備内容の再構成》
《身体感覚減衰補助の段階的強化》
ナギの目が止まる。
「身体感覚減衰補助……」
《身体から発生する感覚信号の一部を選択的に減衰させます》
「疲れなくなるんですか?」
《いいえ》
即答だった。
《疲労は存在します》
《苦痛も存在します》
《ただし意識の占有率を低下させます》
ナギは少し考える。
「試したいです」
《了解しました》
補助リングが静かに振動した。
首元から微かな熱が広がる。
数秒後。
「……あれ?」
ナギは腕を動かした。
軽い。
立ち上がる。
軽い。
歩く。小走り。
軽い。
でも、疲労が消えたわけではない。
確かに分かる。
身体は疲れる。
筋肉も重い。
ただ、それが少し遠い。
ガラス越しに見ているような感覚。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
幸福労働は我慢大会じゃない。
苦痛に耐える競技でもない。
自分を理解し、補助を使い、最適化しながら前へ進む技術。
ようやく少しだけ、その意味が分かった気がした。
《推奨上限はレベル2です》
「レベル3で」
《推奨しません》
「うーん、2.8」
《推奨しません》
「2.7」
《推奨しません》
「2.6」
《推奨しません》
ナギは腕を組む。
アスクも譲らない。
数秒の睨み合い。
「……2.5」
《適正範囲内です》
「そこで良いんだ……」
《現在の適応度を考慮した結果です》
ナギは苦笑した。
改善後シミュレーション。
予測稼働時間。
四十八時間。
↓
六十一時間。
まだ届かない。
七十二時間には。
それでも。
昼間のレイルを思い出した。
『だれかが、うれしいのは』
『うれしいです』
あの言葉を。
あの眠そうな顔を。
あの細い手首を。
思い出す。
まだ全部は分からない。
幸福労働者という仕事も。
レイルという人も。
でも。
今日の自分は昨日より少しだけ前へ進めた気がした。
ナギは端末を閉じる。
窓の外では街灯が灯り始めていた。
夜が来る。
次の挑戦の日も近い。
深く息を吸う。
そして。
小さく笑った。
「七十二時間。今度こそ、きっと」
今度は。
前より上手くやれる。
そんな気がした。




