#2-3 「……できた」
その夜。
ナギは自室のデスクに向かったまま、何度も同じ画面を見つめていた。
【72時間稼働計画 Ver.14】
食事内容。
整備タイミング。
補助パルス設定。
温水補給。
全部確認した。
もう修正するところはない。
なのに閉じられない。
「アスク」
《はい》
「これで大丈夫ですよね」
《現時点で最適と判断します》
「本当に?」
《72時間達成確率68.4%です》
「微妙!」
《高水準です》
「微妙です!」
アスクは反論しない。
ナギも分かっている。
これは確認ではない。
ただ不安なだけだ。
受験の前の日。
遠足の前の日。
そんな気分だった。
◇
翌朝。
ナギは勢いよくミナのデスクへ向かった。
「できました!」
端末を差し出す。
ミナは受け取り、静かに目を通した。
ナギはそわそわしている。
三十秒。
一分。
二分。
やがてミナは端末を返した。
「良くできています」
「本当ですか!」
ぱっと顔が明るくなる。
ミナは少しだけ笑った。
「ただし」
ナギが固まる。
「二十四時間までは頑張らないこと」
「え?」
「元気だから頑張る、が一番失敗します」
ミナは指で資料を軽く叩く。
「長時間労働は配分が大切です。前半から頑張るものではありません」
ナギは少し考えた。
言われてみればそうだ。
前回は開始直後からずっと張り切っていた気がする。
「分かりました」
「本当に?」
「…たぶん、ですけど」
「不安ですね」
ミナは苦笑した。
◇
その夜。
ナギは珍しく素直にベッドへ入った。
それでも、研修計画が気になって眺めてしまう。
《就寝を推奨します》
「…分かってます」
《再度推奨します》
「……分かってるんです」
《強く推奨します》
「………分かってますってば」
端末を閉じる。
前回ならもう少し勉強していた。
もう少し調べていた。
もう少し頑張っていた。
でも、今日は違う。
準備は終わっている。
信じるしかない。
ナギは目を閉じた。
◇
翌日になった。
午前9時。
長時間稼働研修第二回。
「いきます!」
《記録を開始します》
アスクの声が響く。
ナギは深呼吸した。
今度こそ、七十二時間。
◇
二十四時間経過。
順調だった。
驚くほど順調だった。
疲労はある。
でも前回ほどではない。
アスクの指示通りに水分を取る。
栄養補給もする。
整備も受ける。
前回は自分の感覚だけを信じていた。
今回は違う。
技術を信じている。
何件目かの営業先で、高齢の女性がナギを見て笑った。
「新人さん?」
「はい!」
「元気ねえ」
ナギも笑う。
「ありがとうございます!」
「頑張ってね」
それだけの会話。
それだけだけど、なぜだか嬉しかった。
前回は気付かなかった。
相手の表情。
声色。
目の動き。
ちゃんと見えている。
頑張ることで精一杯じゃない。
目の前の人を見る余裕があった。
◇
三十六時間が経過した。
計画通り、消化負荷を抑えた食事へ切り替える。
温水補給。
整備。
補助パルス確認。
全部予定通り。
ナギは少し笑った。
「ちゃんとやれてます」
《その通りです》
「褒めてます?」
《事実を述べています》
「褒めてるって言ってください」
アスクは否定しなかった。
◇
四十八時間目。
前回なら終わっていた時間。
やっぱり身体は重かった。
眠気もある。
疲れている。
それも同じだった。
でも。
「あ」
ナギは気付いた。
前回と違う。
眠い。
それは分かる。
疲れている。
それも分かる。
だけど、飲み込まれない。
色々な不快感が、少し遠い。
確かに自分の中にあるのに、どこか客観的に見ている。
身体感覚減衰補助。
補助パルス。
整備。
栄養管理。
全部が機能していた。
前回は根性で戦っていた。
今は違う。
ちゃんと、技術が支えてくれるのが、分かった。
「これだったんだ……」
《何がですか》
「幸福労働です」
ナギは小さく笑った。
まだ先は長い。
でも、前回よりずっと前へ進めている。
そんな確信があった。
◇
六十時間が過ぎた。
何度目かの整備のために、アシストに戻ってきたときだった。
《推定限界時間に到達しました》
アスクの声が響く。
ナギは壁にもたれた。
確かに、眠い。
とても眠い。
四十八時間を超えた頃とは違う。
疲労そのものが確実に増えているのが分かる。
遠い感覚の向こうに、全身を締め付ける重み。
補助パルスがなければ、とっくに歩けていなかったと思う。
《今回の整備より、仮眠時間を三十分へ延長することを推奨します》
ナギは眉を寄せた。
「三十分……」
今までは十五分だった。
それが基準だった。
それが幸福労働者らしい気がしていた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
負けたような気分になる。
「十五分じゃダメ?」
《推奨しません》
「二十分」
《推奨しません》
「二十五分」
《推奨しません》
ナギはうめいた。
アスクは容赦がない。
でも。
回らない頭で少し考えて、首を振った。
違う。
今回は七十二時間が目標だ。
意地を張ることじゃない。
「……お願いします」
《了解しました》
アスクの返答は静かだった。
けれどナギは少しだけ誇らしかった。
休むことを選べた。
それもまた技術なのだと思った。
◇
七十時間ごろだった。
世界が少し遠かった。
手は動く。
足も動く。
声も出る。
営業もできている。
そのはずだった。
でも。
ところどころ記憶が抜ける。
気が付くとアシストに戻っている。
気が付くと次の訪問先へ着いている。
気が付くと営業が終わっている。
「アスク……」
《はい》
「私」
言葉を探す。
「ちゃんとできてましたか?」
少し間が空く。
《営業品質評価C-》
「うぅ……」
思ったより低い。
ナギはしょんぼりした。
しかし。
《許容範囲内です。利用者満足度は基準値を達成しています》
「本当ですか……」
《はい》
ナギは少し安心した。
記憶は曖昧だった。
何を話したのか。
どう笑ったのか。
ほとんど覚えていない。
それでも、断片だけが残っている。
おばあさんの笑顔。
小さな子供も居た気がする。
帰り際の声。
『ありがとうね』
その言葉だけはなぜか覚えていた。
◇
七十一時間。
そして。
七十一時間三十分。
もう時間の感覚はない。
身体感覚も薄い。
自分の腕が動いている。
それは分かる。
でも。
どこか他人事みたいだった。
補助パルス。
整備。
仮眠。
温水。
栄養補給。
全部使った。
全部頼った。
前回とは全然違う。
もう少し。
頭の中は、それだけだった。
◇
七十二時間。
最後の営業が終わる。
お客様へ頭を下げる。
笑顔だったと思う。
たぶん。
きっと。
そのままアシストへ戻った、らしい。
自分の足が動いてるのか分からない。
ぼやけた視界にシートが見える。
柔らかそうだった。
座りたい。
いや。
寝たい。
《ナギ様》
アスクの声が聞こえた。
《72時間達成です》
ナギは数秒理解できなかった。
七十二時間。
達成。
七十二時間。
達成。
頭の中で言葉がゆっくり繋がる。
「……あ」
終わった。
その瞬間、全身から力が抜けた。
補助パルスが身体を誘導する。
アシストのシートへ。
ただ、ふわふわしていた。
シートへ沈み込む。
座る動きに合わせてリクライニングになるのが分かる。
視界がぼやける。
音が遠くなる。
光も滲む。
でも、最後に聞こえた声だけははっきりしていた。
《ナギ様、お疲れ様でした》
ナギは少しだけ笑った。
「……できた」
それだけ呟いて。
意識は静かに闇へ沈んでいった。




