# 1-5 「L-000467です」
翌朝。
並木ナギは、幸福機構営業部のロビーに立っていた。
昨日より、少しだけ眠れた。
ほんの少しだけ深く眠れた、気がした。
それだけで、世界は少し明るく見えた。
高い天井から降る白い光。磨き上げられた床。壁面を流れる案内表示。行き交う職員たちの足音は静かで、誰も急いでいないのに、全てが正確に動いているように見える。
数日前まで新品だった制服は、もう新品ではない。
胸元の識別章も、磨いた靴も、首元の補助リングも、昨日より少しだけ自分のものになった気がした。
ナギは両手でタブレットを抱え、深呼吸した。
(今日は、ミナ先輩じゃない)
昨日、ミナは言っていた。
――すごい人ですよ。
その言葉が、ずっと頭に残っている。
すごい人。
どんな人だろう。
優しい人だろうか。怖い人だろうか。ミナよりももっと、幸福労働者らしい人なのだろうか。
《心拍数上昇》
「知ってます」
《現在心拍数百十八》
「昨日より低いです」
《昨日同時刻比、やや安定》
「成長です」
《軽度緊張状態です》
「成長って言ってください」
肩の横で浮遊するアスクは、いつも通り淡々としている。直径十五センチほどの白い球体は、朝の光を受けてつるりと光っていた。
ナギは小さく息を吐く。
その時だった。
《本日の同行担当者が到着しました》
アスクが告げた。
ナギは顔を上げる。
ロビーの向こうから、一人の女性が歩いてきた。
白い制服。
柔らかな栗色の髪。
きちんとまとめられた髪の隙間から、細い首筋が見える。その首元には、白に金のラインが入った補助リングが静かに光っていた。
膝下は、優美な銀の曲線に覆われている。
よく見ると、襟元や袖口にも細い金属の光があった。制服の下から、身体に沿うように組まれたフレームが覗いている。
(全身フレーム……! 本物だぁ……)
ナギは思わず息を呑んだ。
研修では習っていた。幸福労働者は活動状況に応じて補助段階が上がる。外骨格は、活動を支援するための装備であり、幸福労働者の挑戦を支える技術である。
けれど、実物は違った。
画面の図解で見るのとは、全然違った。
その人は、ただ歩いているだけで綺麗だった。
背筋はまっすぐで、足取りは静かだった。歩く速度は速くない。けれど一歩ごとに、無駄がない。
ナギは見入った。
(あの人が……)
ミナの言っていた、すごい人。
女性はナギの前まで来ると、静かに立ち止まった。
オリーブグリーンの瞳が、ナギを見る。
表情は、ほとんど動かない。
そして、言った。
「L-000467です」
ナギは固まった。
「……え?」
「L-000467です」
同じ声。同じ調子。同じ内容。
ナギは瞬きをした。
「えっと……」
どう返せばいいのか分からなかった。
番号。
番号だ。
番号で名乗られた。
研修では、労働者番号について習った。
幸福機構では識別情報として使われる。正式記録にも使われる。修復記録にも、活動記録にも、内部通達にも使われる。
けれど、日常の呼称は本人の希望が優先される。
少なくともナギは、そう聞いていた。
なのに。
「L-000467です」
三回目だった。
「あ、はい! えっと、わたしは並木ナギです! N-100874です!」
思わず番号までつけてしまった。
女性は少しだけ瞬きをした。
「N-100874」
「はい!」
「確認しました」
「確認……」
会話が終わった。
終わったのだと思う。
ナギは助けを求めてアスクを見る。
アスクは淡々と告げた。
《白石レイル様です》
(名前あるんだ!?)
危うく声に出すところだった。
白石レイル。
とても綺麗な名前だと思った。
なのに本人は、何のためらいもなく番号で名乗った。
「あ、あの、白石先輩……で、よろしいですか?」
女性――白石レイルは、ナギを見る。
少し間があった。
「問題ありません」
ナギは内心で復唱した。
(問題ありません、なんだ……)
そこへアスクが言う。
《営業予定時刻です》
レイルは頷いた。
「行きます」
「あ、はい!」
ナギは慌てて後を追った。
アシストは、ロビーに面した発着スペースに静かに待機していた。
白銀の車体は昨日までと同じだ。小型の自律走行車両。営業支援車。最新技術の営業車。
昨日はすごいと思った。
今日もすごいと思う。
ただ、今日は隣にいる先輩の方が、もっと気になった。
車内は静かだった。
昨日まで向かい側に座っていたミナの席に、今日は白石レイルが座っている。
姿勢が綺麗だった。
背筋がまっすぐ。膝も揃っている。手は膝の上に置かれている。視線はわずかに下。
きちんとしている。
きちんとしすぎている。
ナギはタブレットを抱えたまま、ちらちらと様子を窺った。
何か話した方がいい気がする。
同行担当の先輩だ。挨拶だけで終わるのは良くない。
「あの」
「はい」
「今日は、よろしくお願いします」
「はい」
終わった。
ナギは口を閉じた。
車内に静寂が戻る。
(会話が続かない……!)
ナギは焦った。
返事はしてくれる。無視ではない。冷たいわけでもない。
ただ、会話が膨らまない。
「えっと……趣味とかありますか?」
質問した瞬間、ナギは少し後悔した。
昨日の二件目の市民は趣味の話で盛り上がっていた。だから咄嗟に出てきた。
でも、先輩にいきなり趣味を聞くのは距離が近すぎただろうか。
レイルは怒らなかった。
ただ、少しだけ視線を動かした。
「……趣味」
「はい」
「わかりません」
ナギはタブレットを握り直した。
(すごい人……なんだよね?)
ミナ先輩が言っていた。
すごい人ですよ、と。
でも今のところ分かるのは。
番号で名乗る。
会話が短い。
趣味が分からない。
分からない。
本当に分からない。
◇
一件目の訪問先に着いた。
レイルがインターホンを押す。
躊躇がない。
ピンポーン。
しばらくして、市民が出てきた。
六十代の女性だった。
落ち着いた雰囲気のマンションの一室。玄関には小さな木製の飾り棚があり、白い陶器の小鳥が置かれていた。室内はきれいに整っている。けれど窓際の植物だけが、少し元気をなくしているように見えた。
「こんにちは」
レイルが言う。
「幸福労働追求機構、L-000467です」
それだけだった。
ナギは横で待つ。
昨日のミナは、最初に名乗り、今日の目的を説明し、相手の緊張をほぐしていた。
レイルは違う。
短い。
とても短い。
しかし女性は、ぱっと表情を明るくした。
「あら、あなたが今日来てくださるのね」
「はい。よろしくおねがいします」
「どうぞ」
通された。
ナギは思った。
(え、いいの?)
居間に座る。
レイルは女性の正面に座った。ナギは少し横に座る。
セッションが始まった。
「最近。どうですか」
レイルが言う。
短い。
でも女性は、ゆっくり話し始めた。
「そうねえ。困っているというほどではないのだけれど、朝が少し静かすぎる気がして」
「朝」
「ええ。昔は家族がいたから、朝は音がしたでしょう。今は静かでね」
レイルは頷く。
「静か」
「そう。嫌いではないのよ。でも、少し寂しい時があるの」
「寂しい」
「ええ」
レイルは相手の言葉を少しだけ返す。
質問は少ない。説明も少ない。相槌も、ミナほど柔らかくはない。
それなのに女性は話し続ける。
「変ね。あなたに話していると、言葉がまとまるわ」
「よかったです」
レイルはそう言った。
本当に短い。
でもその声は、少しだけ柔らかかった。
最後に、窓際に置く小さな音響装置の話になった。
朝の時間に、鳥の声や柔らかな生活音を流すためのもの。アスクがホログラムを投射する。半透明の小さな装置が、窓辺の光の中に浮かんだ。
女性はしばらく眺めてから、小さく笑った。
「これにしようかしら」
購入決定。
セッション終了。
ナギは呆然としていた。
(成立した……)
ミナの営業も分からなかった。
でもレイルの営業は、もっと分からなかった。
ほとんど喋っていない。
なのに市民は嬉しそうだった。
二件目。
対象は二十代男性だった。
部屋には古い形式のゲーム機を模したインテリアが並んでいて、壁面には二十一世紀の娯楽文化を再現した映像パネルが光っていた。
レイルが口を開いたのは三回だった。
男性はニコニコと趣味の話をし続けた。
三件目。
四件目。
変わらず、レイルの口数は少ない。
なのにどの人も、満面の笑みで見送ってくれた。
ナギはもう分からなかった。
分からないのに、目が離せなかった。
◇
四件目が終わり、アシストに戻る道中。
白い舗道には春の光が降っていた。遠くに幸福機構の支部ビルが見える。レイルの歩き方は変わらない。綺麗で、静かで、一定だった。
ナギは思わず言ってしまった。
「白石先輩は、どうやって営業しているんですか?」
「質問をします」
「していましたけど……。他にコツとか、心掛けていることとか」
レイルは歩きながら、わずかに首を傾げた。
「特にありません」
「でも、あんなに少ない質問なのに、市民の方、みんな楽しそうでした。話し終わった後、すっきりした顔をしてました。商品も自然に選んでいました。不思議です!」
「不思議」
「どうすれば、白石先輩みたいになれますか?」
「分かりません」
「やっぱり、繰り返すしかないんでしょうか……」
ミナはすごい。
レイルはもっとすごい、気がした。
(もっともっと頑張って、いつか分かるようになりたいな)
ナギはそう思った。
◇
アシストに戻ると、レイルは座席に腰を下ろす前に、自身のアスクへ視線を向けた。
「アスクレピオス。N-100874の休息予定は?」
《ナギ様の休息予定は十二時三十分から十三時三十分となっております》
レイルは一つ頷いて、ナギに向き直った。
「分かった。N-100874」
「はい」
「私は十五分休みます。あなたも休息してください」
「え? あ、はい!」
よく分からず返事をするナギを待たず、レイルがアシストの座席に腰を下ろす。
《プライベートモードをオンにします》
アスクの声が響いた。
白い座面がスムーズに倒れ、レイルの身体を支える。背もたれはほとんど音もなくフルフラットになった。
次の瞬間、座席の両脇から白いカバーがせり上がる。
薄い花弁のようなカバーが重なり、レイルの全身を包んでいく。
「あ、あれ?」
営業車両アシストの機能が発揮されるのを見るのは、これが初めてだった。
「アスク、これって……」
《L-000467様は現在長期稼働中です。活動継続のため、定期整備シークエンスが起動されます》
「これが……」
白いカプセルの表面を、細い光のラインが走る。
内部で何が行われているのか、外からは見えない。
けれどアスクの表示には、心拍、血圧、血中酸素飽和度、総和苦痛値、外骨格依存率が淡々と並んでいた。
「……かっこいい……」
思わずつぶやいた。
《定期整備は高稼働幸福労働者の活動継続を支援するための標準工程です》
「全身洗浄って、服もですか?」
《はい》
「一分で?」
《はい》
「すごい……」
《簡易輸液、酸素補給、薬理再調整、マイクロスリープ誘導も同時に実施されます》
「未来……」
《現在です》
「そうでした」
あれこれとアスクに質問していると、あっという間に時間が過ぎた。
十五分後。
音もなくカプセルが開く。
逆戻しのように座面が元の状態になり、そこに座っていたレイルが目を開いた。
心なしか、顔色が良い。
「N-100874」
「はい」
「私はこれから営業予定があります。あなたは予定時間まで休息していてください」
「……えっ? 一緒に行かなくて良いんですか?」
「あなたは予定時間まで休息していてください」
「あ、はい……」
なんだか、ずっと驚いているような気がした。
あっけにとられている間に、レイルはすたすたとアシストを出てしまう。
背筋の伸びた細い背中が、妙に印象に残った。
「行っちゃった……」
《ナギ様、軽度低血糖が認められます。栄養、水分の補給を推奨します》
ロボットアームが静かに伸びてくる。
差し出されたのは、サンドイッチだった。
「……ありがと」
受け取って口に運ぶ。
柔らかなパン。薄い卵。野菜の歯ごたえ。
おいしいはずなのに、色々起こりすぎてあまり味が分からない。
《午後の業務に向けて簡易調律を実施しますか?》
再びアスクの声。
「お願い、します」
《了解しました》
ふわ、と。
全身の倦怠感が薄くなる。
足の重さが軽くなり、胸の奥にあった緊張が、心地よい達成感に変わっていく。
簡易調律。
補助リングによる身体感覚のコントロールの感覚にも、この一週間でずいぶんと慣れた気がしていた。
それでも、今日会ったばかりの先輩の言動には、慣れる気がまったくしなかった。
(不思議な人、だなぁ……)
ナギの休息予定時間が終わるころ。
レイルが何事もなかったかのような顔で戻ってきた。
「では、午後はN-100874がセッションを担当してください」
「――はい!」
◇
午後、一件目の営業先。
ドアの前で一つ、息をつく。
インターホンは迷わず押せた。
名乗る声も、詰まらなくなった。
セッションは、まだ網膜ディスプレイの文字を追うのに精いっぱいだ。それでも、最初よりはずいぶんと慣れたな、と思う。
無事に終わる。
特に講評もなく、次の家へ。
ふと横を見て、ナギは気づいた。
「先輩、もしかして、移動しながら仕事、してます?」
レイルの視線の行き場が不自然だった。
淀みない脚の運びとは、まったく違う方を見ているような、何も見ていないような。
よく見ると、レイルの網膜ディスプレイに高速で文字が流れているのが見えた。
「しています」
「転んだり、しないんですか?」
歩行しながら網膜ディスプレイを操作するのは難しい。ナギは研修中、一度それを試して、壁にぶつかりかけた。
「アスクレピオスの補助とフレームの機能を併用することで可能です」
「なるほど! わたしもできるようになりますか?」
呼吸一つ分、間が開いた。
「N-100874の現在の補助状況では、推奨しません」
「あ、……そう、なんですね」
(まだまだ、頑張らないと、だな)
ナギは意気込みを新たにした。
◇
営業そのものは順調に終わった。
最後の営業が終わり、アシストの車内に向き合って座る。
ナギは心地よい疲労感に包まれていた。
一日緊張して、歩いて、話して。
それなりに疲労と倦怠感を感じているが、アスクの調律がそれを充実した達成感に寄せているのが分かる。
「……あの、白石先輩」
「なんでしょう」
「今日のわたし、どうでしたか?」
「どう、とは」
「直した方が良いところとか、何かあったら教えてください」
数秒、間が空く。
「N-100874」
「はい」
「今のあなたに求められる業務水準には十分に達していると判断します」
「じゅうぶんに、たっしている……」
言葉は難しい。
けれど、褒めてくれているようだ。
(優しい人、なのかな……)
少しだけ引っかかっていたものを、思い切って吐き出した。
「――あの、お願いをしても良いですか?」
「どうぞ」
「名前で、呼んで欲しいです」
「名前」
「並木ナギです」
「分かりました。並木ナギ。呼称変更の希望を確認しました」
(アスクみたい……)
言葉選びは不思議だ。
でも、瞳も声も、たぶん優しい。
「ありがとうございます。あの、今度いつ会えますか?」
「並木ナギの次回の研修担当はM-100239が担当の予定と聞いています」
「そうなんですね。でも、そうじゃなくて……もっと、白石先輩とお話したいな、って思って」
オリーブグリーンの瞳が、ぱちりと瞬いた。
僅かに瞳が動く。
「今回の営業行程の残りは百十二時間です。五日後の午後であれば、通常メンテナンス終了後、待機時間を予定しています」
「五日後……。先輩は、どれくらいの稼働予定を申請しているんですか?」
「二百四十時間を予定しています」
「二百四十……。すごいなぁ……」
あこがれていた幸福労働者。
その人が、こんなに優しくて、こんなに綺麗で、こんなに不思議な人だった。
その気持ちで、胸がいっぱいになった。
アシストが幸福機構へ着いた。
降車前、レイルは立ち上がった。
動きに少しも無駄がない。
綺麗で、静かで、少し不思議だった。
「並木ナギ。本日の研修は終了しました」
「はい! 今日はありがとうございました!」
一日働いて、みじんも揺らぎのない姿勢。
思わずナギも背筋が伸びた。
「では、私はこれで」
そう言って、レイルは歩いていった。
ナギはその背中を見送る。
白い制服。
栗色の髪。
首元の補助リング。
全身を美しく覆う、銀のフレーム。
すごい人。
ミナ先輩は、そう言った。
確かに、すごい人だった。
でも。
「……よく分からない人だなぁ」
ナギはタブレットを開き、今日の研修メモに一行だけ書き足した。
白石レイル先輩。
すごい。でも、よく分からない。
それから少し迷って、もう一行足した。
また会いたい。
ナギはそのメモを見て、小さく笑った。
よく分からない。
けれど、また会えるなら。
少しだけ、楽しみだった。




