# 1-3 M-100239 小林ミナ
十分間の休憩は、あっという間に終わった。
ナギたち三人は、講師に案内されて別の小会議室へ移動した。
さっきまでの大講義室とは違う。
白い壁。
丸い机。
人数分の椅子。
少しだけ、空気が近い。
ナギはそわそわしながら席についた。
残っているのは三人だけ。
さっきまで十四人いたのに、今はもう三人。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
むしろ、ここから本当に始まるのだという気がした。
「ここからは、幸福労働者候補者向けの個別説明となります」
講師が穏やかに言った。
「新卒OJTについては、実際に幸福労働者として活動している職員が担当します」
幸福労働者本人。
その言葉だけで、ナギの背筋が勝手に伸びる。
その時、会議室の扉が静かに開いた。
白い制服。
桜色の切りっぱなしボブ。
穏やかな笑顔。
そして、澄んだ藍色の瞳。
ナギは思わず息を止めた。
(あ。あの人だ)
入社式の日。
道に迷っていたナギに、優しく道を教えてくれた女性。
あの時も綺麗な人だと思った。
けれど、今は制服も空気も違って見える。
講師が一歩横に下がった。
「紹介します。幸福労働者、小林ミナさんです」
女性は柔らかく一礼した。
「小林ミナです。今日から四月いっぱい、皆さんの新人OJTを担当します。よろしくお願いしますね」
声まで優しかった。
ナギはその藍色の瞳から目が離せない。
(本物だ)
スクリーンに簡単な経歴が表示された。
小林ミナ。
二二七六年、新卒入社。
十八歳。
営業三年目。
過去二年間の高稼働実績。
最高連続稼働時間、一二〇時間。
「うわ……」
隣の席から、小さな声が漏れた。
「これ、ほんとなんだ」
もう一人の同期も、少し引いたような顔で画面を見ている。
けれどナギは違った。
(すごい)
(これが本物の幸福労働者)
密着ライブで見たことがある。
広報映像でも見たことがある。
市民に囲まれて、穏やかに笑っていた人。
その人が今、目の前にいる。
「では、簡単に自己紹介をお願いします」
講師に促され、まず隣の女性が口を開いた。
「私は、災害支援に興味があります。幸福労働者の方が被災地で活動されている映像を見て、自分もそういう仕事に関わりたいと思いました」
落ち着いた声だった。
次に、もう一人の男性が少し緊張したように話す。
「自分は、自分の限界を試してみたいです。普通の職員として働くのも良いと思っていますが、せっかく幸福機構に入ったので、挑戦してみたいと思いました」
二人とも、ちゃんとしている。
ナギの番が来た。
「並木ナギです」
少し声が上ずった。
ミナの視線がこちらを向く。
(見てる。小林さんが、見てる)
「志望理由は?」
講師に聞かれる。
ナギは迷わず答えた。
「昔出会ったお姉さんのような幸福労働者になりたいです」
一瞬、室内が静かになった。
それから、同期二人が小さく笑った。
講師も少しだけ目を細める。
ミナも、ふっと柔らかく笑った。
「とても分かりやすいですね」
「はい!」
ナギは真剣に頷いた。
理由が単純なのは分かっている。
でも本気だった。
「では、最終意思確認を行います」
ミナの声が少しだけ落ち着いたものに変わった。
さっきまでの優しい雰囲気はそのままなのに、空気が少し引き締まる。
「幸福労働は、自身の限界と向き合う仕事になります。正直に言って、非常に適性を選ぶ業務内容です」
三人とも黙って聞く。
「選ばないことは、決して恥ではありません。研修でも伝えられた通り、幸福労働者は自身の労働環境について大きな権限を持ちます。ですが、それは同時に、自分で選び続ける責任を持つということでもあります」
ミナは一人ずつ、ゆっくりと顔を見た。
「いつでも辞退して大丈夫ですよ」
誰も動かなかった。
「継続を希望される方は、このまま席に残ってください」
三人とも、席を立たなかった。
ミナは頷いた。
「分かりました。無理をせず、いつでも引き返す勇気を持ってくださいね。幸福機構は、あなた方のすべての自己決定を支援します。そのことを、覚えておいてください」
同期二人の表情が引き締まる。
ナギも真面目な顔を作った。
(まじめな顔の小林先輩、かっこいい……)
ちゃんと聞いている。
たぶん。
少なくとも、聞くつもりはある。
「では、アスクレピオスを支給します」
机の上に、小さな白いケースが置かれた。
ナギの心臓が跳ねる。
ケースが開く。
中には、直径二十センチほどの白い球体ドローンが収まっていた。
丸い。
白い。
つやつやしている。
中央に細い光のラインが走り、淡い青色に灯った。
「個体認証を開始します」
澄んだ声が聞こえた。
「N-100874を担当します。アスクレピオス支援端末、A-77L型です」
「わ、しゃべった!」
思わず声が出た。
アスクは、ふわりとケースから浮かび上がる。
「本機体は二二七七年製の最新型です。音声出力、骨伝導イヤホン経由出力、網膜表示連携に対応しております。N-100874様、これからよろしくお願いいたします」
「本物のアスクだ〜!」
ナギは思わず身を乗り出した。
「私の名前も知ってるの?」
「N-100874様の入社時データは全て同期済です」
「すごい!」
「ありがとうございます」
「ナギって呼んでほしいな」
アスクの青い光が一度またたいた。
「承知いたしました。以降、ナギ様と呼称を改めるよう更新いたします。今後ともよろしくお願いいたします」
ナギは胸の中で叫んだ。
(かわいい)
すごく礼儀正しい。
ちょっと堅い。
でもかわいい。
「では、簡単に操作デモを行いますね」
ミナが自分の隣に浮かぶアスクへ視線を向ける。
「アスク、今日の予定を皆さんに共有してください」
「承知しました」
その瞬間、ナギの視界の端に小さな予定表が表示された。
十三時。
合同基礎研修。
十五時。
応対マニュアル演習。
十六時三十分。
記録作成練習。
「わっ」
ナギは思わず瞬きをした。
網膜ディスプレイ自体は珍しくない。
普通の市民でも、時間や道案内くらいなら視界に出せる。
でも、アスクが言葉に反応して自然に予定を出してくれるのは違った。
相棒っぽい。
すごく相棒っぽい。
ミナは慣れた様子で続ける。
「午後の研修資料も共有してください」
「共有済です」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
自然だった。
長く一緒にいる人とAIの会話。
ナギはそれを見つめながら、また胸が高鳴るのを感じた。
(いいなぁ)
(わたしも、あんなふうになれるのかな)
その日の午後は、一般職員と一緒に合同の基礎研修を受けた。
アスクの基本操作。
記録作成。
応対マニュアル。
ロールプレイ。
強化学習。
覚えることは多かった。
でもアスクが横で補助してくれるので、思っていたより分かりやすい。
「ナギ様、現在の応答速度は基準値内です」
「ほんと?」
「はい。ただし声量がやや大きめです」
「えっ」
「熱意は良好です」
「褒めてる?」
「評価しています」
アスクとの会話は、少し変で、少し楽しかった。
そうして研修初週は、慌ただしく過ぎていった。
気付けばナギは、アスクと話すことにも少し慣れていた。
応対マニュアルも一通り終わった。
ロールプレイも何度かやった。
基本的な対応ならできる。
たぶん。
そして翌週。
いよいよ、実際のお客様対応が始まることになった。
同期二人と再び集合した研修室の中で、ミナが穏やかに微笑む。
「それでは皆さん。本日から実際のお客様対応を始めます」
ナギはぎゅっと手を握った。
(ついに!)
心臓がうるさい。
「緊張します……」
思わず漏らすと、ミナは優しく頷いた。
「大丈夫ですよ」
「失敗したらどうしよう」
「失敗します」
「え?」
ナギは固まった。
ミナは変わらず、にこにこと笑っている。
「私も失敗しましたから。みんなそうです」
「ええっ!? どうしたら良いんですか?」
ミナは少し考えてから、当たり前のことのように言った。
「何度も繰り返すことですね」
にっこり。
「が、がんばります!」
新しいお仕事。
いよいよ本番だ。
ナギは緊張と期待で弾む胸を押さえて、初めての業務へ向かうのだった。




