op.3 S-000192 おもいでのひと
鳴り止まない拍手の中。
ナギは夢中で手を叩いていた。
壇上では小林ミナが一礼し、自席へ戻ろうとしている。
桜色の髪が揺れる。
その肩の横を、白銀のドローンが静かに追従する。
アスクレピオス。幸福労働者専用、支援AI搭載ドローン。
綺麗だな、とナギは思った。
それ以上の言葉が出てこなかった。
幸福労働者。
ずっと憧れていた存在。
けれど映像越しに見るのと、本物を見るのではまるで違う。
確かにそこにいて。
確かに呼吸していて。
確かに笑っている。
自分と同じ人間なのに。
なぜだろう。
まるで物語の登場人物を見ているような気持ちだった。
拍手が落ち着き、次の挨拶が始まる。
理事の話。
研修担当者の話。
福利厚生の説明。
大切な内容だった。
けれどナギの意識は少しだけ遠くへ漂っていた。
藍色の瞳。
優しい声。
頑張ってね。
たったそれだけの言葉が、なぜか胸に残っている。
そして。
不意に思い出した。
幼い日の記憶を。
一番昔の記憶は、五歳の頃だっただろうか。
家は明るかった。
父も母もよく笑った。
休日には公園へ行き。
帰りに甘いお菓子を買ってもらった。
特別幸福ではなかったけれど。
特別な不幸もなかった。
小さなナギにとって、それが世界の全てだった。
けれど。
八歳になった頃。
少しずつ家の空気が変わった。
理由は今でもよく分からない。
両親が喧嘩をしたわけではない。
病気になったわけでもない。
何か大きな事故があったわけでもない。
ただ。
笑う回数が減った。
食卓の会話が減った。
父は窓の外を見る時間が増えた。
母は何かを考え込むことが多くなった。
夕食の時間。
三人で同じテーブルについているのに。
どこか遠く離れているような。
そんな空気が家の中に流れていた。
子供だったナギには理由が分からない。
でも。
息苦しかった。
なんとなく。
家に帰ると胸が重かった。
ある日。
幸福機構から訪問営業が来た。
白い制服。
柔らかな笑顔。
肩の横に浮かぶアスク。
幸福労働者。
今でも識別番号を覚えている。
S-000192。
当時のナギには番号の意味なんて分からなかった。
ただ。
その人は笑っていた。
優しく。
自然に。
春の日差しみたいに。
気付けば父も笑っていた。
母も笑っていた。
久しぶりに見る笑顔だった。
何を話していたのかは覚えていない。
けれど。
その日を境に家の空気は少しずつ変わっていった。
食卓の会話が戻った。
休日の外出が戻った。
父はまた冗談を言うようになった。
母も楽しそうに笑うようになった。
まるで家の中に差し込む光が増えたみたいだった。
小さなナギは思った。
すごい。
幸福労働者ってすごい。
人を笑顔にできるんだ。
人を幸せにできるんだ。
その思いは成長しても消えなかった。
ホームライブラリーには家庭の記録が残っている。
家族との思い出。
昔の映像。
写真。
会話記録。
ナギは何度も見返した。
何度も。
何度も。
幸福労働者が家を訪れた日の映像を。
自分でも不思議なくらい繰り返し。
笑顔の両親を見た。
優しく微笑む幸福労働者を見た。
そして思った。
いつか。
私も。
誰かをこんなふうに笑顔にしたい。
それが幸福労働者を目指した最初の理由だった。
だから。
活動停止の報せを見た時。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
S-000192。
かつて自分の家を訪れた幸福労働者。
活動停止。
その短い記録を見た時。
何かが胸の中へ落ちた気がした。
ぽつん、と。
静かに。
けれど。
それが何なのかは分からなかった。
悲しいのか。
寂しいのか。
悔しいのか。
分からない。
ただ。
胸の奥に小さな空白だけが残った。
その空白を抱えたまま。
ナギは今ここにいる。
幸福機構の入社式。
憧れ続けた場所。
夢見続けた場所。
壇上では次の挨拶が続いている。
けれどナギはもう聞いていなかった。
真っ直ぐ前を見ていた。
胸の奥で静かに燃える想いを抱きながら。
誰かを幸福にしたい。
あの日の幸福労働者のように。
誰かの人生へ光を届けたい。
そのためにここへ来たのだから。
ナギは小さく拳を握る。
金色の瞳がまっすぐ前を向く。
その瞳には夢があった。
希望があった。
そしてまだ名前の付かない憧れがあった。
幸福機構。
幸福労働者。
人々へ幸福を届ける者たち。
これは――
一人の少女が幸福を追い求める物語の始まりだった。
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幸福労働者。
それは幸福機構に所属する特別な労働者。
誰かに強制されたわけではない。
誰かに選ばれたわけでもない。
自らの意思で。
自らの願いで。
人々へ幸福を届けることを選んだ人たち。
市民は彼らを尊敬する。
憧れる。
応援する。
それは権力者だからではない。
特別な特権を持つからでもない。
誰かのために歩き続ける姿を知っているからだ。
幸福機構はそんな人々を支える組織だった。
研究者がいる。
医療職がいる。
技術者がいる。
事務職がいる。
営業職がいる。
無数の役割がある。
そのどれもが社会に必要な仕事だった。
幸福労働者だけが特別なのではない。
誰もが誰かを支えている。
だからこそ。
幸福機構は人々へ幸福を届け続けることができる。
ナギは静かに顔を上げた。
白い講堂。
並ぶ新卒職員たち。
壇上に掲げられた幸福機構の紋章。
夢みたいだと思った。
本当にここへ来られたのだ。
憧れ続けた場所へ。
あの日、自分の家を訪れてくれた幸福労働者へ憧れて。
何度も映像を見返して。
何度も未来を想像して。
そして今日。
その入り口に立っている。
まだ何もできない。
営業のやり方も知らない。
誰かを幸福にする方法も知らない。
失敗だってするだろう。
迷子にもなるだろう。
きっとたくさん怒られる。
たくさん悩む。
たくさん泣く。
それでも。
前に進きたいと思った。
いつか。
誰かの人生へ光を届けられる人になりたい。
あの日の幸福労働者のように。
そして願わくば。
あの春の妖精みたいな先輩のように。
壇上の小林ミナを見つめながら、ナギは小さく微笑んだ。
講堂の大きな窓から差し込む春の陽射しが、白い制服を優しく照らしている。
その光の中で。
新しい人生が始まろうとしていた。
これは、一人の少女が幸福を追い求める物語。
そして。
幸福を届ける人々と出会い、共に歩き、共に悩みながら。
自分だけの答えを見つけていく物語である。




