七つの隣人 第七章 逆刻の民 ターリャ
序で約束したことを、この章で果たさなければならない。七つのとき、川辺で出会った逆刻の民が、初対面の私を見て泣いたわけ。それを知るには、私自身がターリャの村を訪ねるほかなかった。入団四年目の青葉の月、使節の聞き取りに加えてもらって、私は故郷の大河を下った。ターリャの村は大河や海沿いにしかなく、私の生まれた川港の町の下流にも、古くから一つある。子供のころ、対岸の霞の向こうに見えていた、あの村である。奇しくもあのターリャに会う機会を得れたのであった。
村は、漁村に見えた。岸に沿って小屋が並び、竿に網が干され、杭に舟がもやってある。よその漁村と違うのは、まず、働いている姿がみな女だということである。ターリャには女しかいない。もう一つは、村の端、川に突き出して建てられた神殿である。長い桟橋の先、水の上に張り出した社に、流転神の像が立っていた。水色の衣をまとった女神の像が、流れのまんなかで、上流でも下流でもなく、ただ水面を見下ろしている。ターリャは、あの像のもとの水から生まれ出でるのだという。村を作ったのではなく、生まれる場所のまわりに、自然と村ができたのである。
岸に上がってすぐ、奇妙な光景に出会った。白髪の老婆がふたり、もうひとりの老婆に、匙の持ち方を教えていたのである。教わっているほうの老婆は、匙を握っては落とし、幼子のように声を上げて笑う。あれは先月生まれたばかりの妹だと、案内のターリャが言った。ターリャは老婆の姿で生まれてくる。といっても、腰の曲がった弱々しい老婆ではなく、人の老婆に比べればよほど背筋の伸びた、若さの残る姿である。ただし中身は、生まれたてなのだから赤子と同じで、歩き方も言葉も、これから覚える。世話をするのは、生まれて十年か二十年の、つまり暦の上では若い、見た目には同じく年寄りの姉たちである。老婆が老婆をあやす。この村では、それが子育ての風景だった。
私の名を呼んだ者があったのは、その直後である。振り向くと、二十半ばに見える女が、桟橋の上で手を振っていた。走り寄ってきて、私の顔を見上げ、大きくなった、と言って笑い、それから、笑ったまま少し泣いた。ユネと名乗った。私は彼女に会った覚えがない。だが彼女は、私を知っていた。十七年前、上流の川辺で、七つの私と会ったターリャである。あのときの彼女は、老婆の姿だった。ターリャは年を経るごとに若返っていく。十七年は、彼女の見た目を、老婆から若い女に変えていた。
ユネと過ごした数日で、私はこの民の時間を、少しだけ分かった気になった。ターリャは、年を経るにつれて、いろいろなことを思い出していく。私たちが年をとるほど物覚えが増えるのと同じ調子で、彼女たちは思い出しが増える。ただし思い出すのは、これから起こることである。彼女たちにとっては、自分の目で見たことも、思い出したことも、等しく事実である。だから、こちらにとっての初対面が、向こうにとっては長年の知り合いとの再会だということが、普通に起こる。私とユネが、まさにそれだった。彼女は私との付き合いを、もう何年ぶんも思い出として持っている。私のほうは、これからそれを生きることになる。
思い出されるのは、村とその周りの土地にかかわることがほとんどだという。それがいつの、何の記憶かは、思い出した本人にも分からない。ただ、ときにそれが、先の災害や災厄を言い当てる。ユネの姉のひとりは、まだ誰も知らぬ大水の光景を思い出し、二年後、川は実際にそのとおりに溢れた。村と対岸の町が穀倉を高台に移し終えていたのは、その思い出しのおかげである。だからこの地の領主は、決まった月ごとに村へ役人を寄こし、新しく思い出されたことがないかを聞き取って、帳面にまとめている。私たちの使節の用向きも、似たようなものだった。旅団が欲しいのは、もっとまれな思い出しである。ターリャはごくたまに、未来ではなく、はるかな昔を、神代の失われたことを思い出すことがある。ターリャの中では、時間は正しい順に流れていないのである。旅団の書庫には、歴代の使節が聞き取ったそうした断片を集めた帳面があり、これは門外不出の宝とされている。
思い出しの恵みは、まだある。時折り、まだ世にない技の知識を思い出す者がいるのである。新しい農法、新しい織り方、器械の仕掛け。ある村のターリャが思い出した種の蒔き方が、その地方の麦の実りを変えた話は、聞き取り役人のあいだでは有名だ。もっとも当の本人たちは、それで暮らしぶりを変えるでもない。ターリャの暮らしは、思いのほか普通である。朝、舟を出して漁をし、獲れたものを対岸の町の市で穀物や布に換える。満ち潮の刻、水辺に立つ彼女たちの輪郭が、ほんのわずか、にじんで見えることを除けば、働き者の漁師の村と何も変わらない。
暗い話も、書かないわけにはいかない。災厄を言い当てるということは、聞きたくない答えを告げることでもある。歴史の中では、凶事を告げたターリャに腹を立て、これを害した王や領主が、少なくない。そして、そういう者たちの末路も、決まって伝えられている。ターリャを害した者は、流転神により魂の巡りから外され、永遠に安らぎを得られない。二度と生まれ直すことも、憩うこともできず、ただ流れの外に取り残される。数ある神罰のなかで、これほど静かで、これほど恐ろしいものはないと私は思う。
滞在の最後の夕方、ユネと二人で、水上の神殿まで歩いた。流転神の像の足元で、川は音もなく流れていた。私はようやく、あの日のことを訊いた。なぜ、初めて会った七つの子供を見て、泣いたのか。ユネは少し考えてから、こう話した。あの日の少し前、彼女は初めて、私を思い出したのだという。生まれて八年ばかりの、思い出しの始まったばかりのころで、最初に来た大きな思い出しが、私とのことだった。何年もかけて重ねる川辺の話、あなたが旅団に入ること、この村に来ること、その先のことまで、ぜんぶ一度に来た、と彼女は言った。そしてその思い出しのいちばん奥に、彼女自身の最後の日があった。ターリャは年を経ると十歳ほどの子供の姿になり、そこからは過去を忘れ、思い出した未来だけで生きるようになる。最後は赤子の姿になって水に還り、それとともに、あの像のもとから新しいターリャが生まれてくる。ユネの最後の記憶では、赤子になった彼女を抱いて、桟橋の先から水に還すのは、白髪の交じった年寄りの私なのだそうだ。だからあの日、川辺で七つの私に会ったとき、彼女は、これから始まる長い付き合いと、その終わりの日とを、いっぺんに前にして、泣いたのだった。初めて会う人が、これから何十年も付き合って、最後に自分を見送る人でもある。それを七つの子供に言えるわけもなく、ただ泣くしかなかったのだ、と彼女は笑った。
帰りの桟橋で、ではまた来る、と私が言うと、ユネは、知っている、と答えた。逆刻の民との付き合いは、こういうものである。私が初めて口にする約束を、彼女はとうに思い出として持っている。私はこれから、彼女がすでに知っている年月を、一年ずつ生きて追いかけていく。心細い話に聞こえるだろうか。私には、そうは思えなかった。この先どれだけ旅に出ても、あの桟橋には、私の帰りを疑いもしない人がひとりいる。彼女が知っている以上、私は必ずまた行くのである。序で約束した答えは、これで果たした。あの涙は、予言でも、憐れみでもない。別れを先に覚えてしまう人が、出会いの日に流す、ただの涙である。そして私はいつか、白髪の交じった年寄りになって、あの水色の像の下で、今度は自分が泣く番なのだと思う。その日までに、いい思い出をたくさん、彼女の記憶のとおりに作りに行くつもりである。




