3-3 既読のつく前なら
「冬野さんは、どう思いますか」
私は、いちばん端の席に聞いた。
「大槻くん。誘ったら、どう思うと思いますか」
冬野さんはカップを持ち上げて、飲まずに置いた。四月にも、同じことをしていた。
「相手の気持ちは、記録の対象外です」
真顔だった。
「記録できるのは、日程くらいです。七月二十三日は土曜日。前期の最終講義は、その前の日、二十二日の金曜です。年間の授業日程を組んだのは教務課なので、間違いありません」
最終講義の、次の日。
夏休みに入る前の最後の金曜の、次の日。
「それと、最終講義は、毎年少しだけ長くなります。平均で、四分」
言ってから、冬野さんは口を閉じた。
「……今のは、公開されている講義の場で見えたことです」
「……ありがとうございます」
「業務ですので」
業務時間外のはずだった。
詩織が頬杖をついて、私を見ていた。
「澪が迷ってるの、初めて見た」
「迷ってない。決まってる。送れないだけ」
「それ、迷ってるって言うんだよ」
そうなのかもしれない。
四月の灯台を、思い出した。同じ窓際の席で、大槻くんは、思ったより大きな声で言った。
どうでもいい人の一言で、四日も判決を書いたりしません。
法学部っぽい、と私は笑った。笑ったけど、あれはちゃんと届いていた。
九日。
どうでもいい人のことで、九日も迷ったりしない。
私は、大槻くんが好きなんだと思う。
「決めた」
三人が、こっちを見た。
「誘う。今日」
蓮沼さんが、手帳を閉じた。冬野さんが、タブレットに何か打ちこみかけて、やめた。記録の対象外だからだと思う。
詩織が、拍手を二回した。
「で、大槻くんのどこがいいの。レビュー書くから」
「考えておきます、って言うの」
「うん?」
「普通、断るときに言うでしょ。考えておきます。大槻くんは、言ったら、本当に考えてくる。宿題も、もう二か月考えてる」
「それ、まだ書けてないってことじゃない?」
「うん。まだ書けてない。毎週、まだです、って言いにくる」
詩織は少し黙って、スマホに何か打ちこんだ。
「★、4.0に上げとく」
帰り支度の途中で、私は冬野さんに聞いた。
「冬野さんは、先生のこと、誘ったりしないんですか」
「推しは推し、恋じゃないので」
即答だった。
その速さを、私は知っている。迷う前に決めてしまいたいときの、私の速さだ。
冬野さんはブレンドを飲み干して、伝票から自分の分だけを抜いて、立ち上がった。
「では、記録の対象外の件、ご健闘を」
店を出るとき、詩織が言った。
「送ったら、教えてね」
「送ったら、もう教えることない」
詩織は笑って、駅のほうへ歩いていった。
*
家に帰って、お風呂に入った。四月みたいに寝落ちしないように、髪を先に乾かしてから、机に向かった。
夜の十時十二分。
文面は、一分で書けた。
『七月二十三日、駅向こうの神社のお祭り。一緒に行こう』
決めた、は入れなかった。いつもの一行と同じにしたら、いつもの一行みたいに読まれる気がした。
書けたのに、指が、九日前と同じところで止まった。
机の上に、ノートが開いたままになっている。余白に、今日の船。ページの端に、六月の構図。右下の二人の、片方の顔だけが空いている。
鉛筆を持って、顔のところに当てた。
線は、引けなかった。
鉛筆を置いて、かわりに送信を押した。
一月に押せなかったボタンより、ずっと軽かった。
吹き出しが一つ、画面の右側に出る。
既読は、つかない。
画面のいちばん上で、時計の数字が22:12から22:13に変わった。吹き出しの横の小さな22:12は、そのまま動かない。
大槻くんは図書館のあとだ。スマホは鞄の底かもしれない。まだ普通。
私は、待ったことがない。
一分で決めるのは、待たないためだった。決めて、渡して、それで終わり。返事がどうでも、決めたのは私だから、私のほうはもう終わっている。ずっと、そういうふうにしてきた。
時計の数字だけが、また変わった。
四月に、大槻くんから宿題の定義を聞かれた。夜の九時四十分で、私が返したのは零時四十分だった。読んで、何て返そうか考えているうちに、お風呂のあとで寝落ちしていた。
三時間。
あの三時間、大槻くんが何をしていたのか、私は知らない。聞いたことがない。上の数字が少し進んだだけなのに、もう少しだけ分かる。
大槻くんは、何にでも点数をつける。この一行にも、たぶんつける。点数つけてそう、と言ったのは私で、あれは褒めたつもりだった。今は、それが少しだけ怖い。
画面を、絵みたいに見た。右上に、電池の白い棒。左上に、何も来ない通知の欄。右側に、私の吹き出しが一つ。画面のどこにも、大槻くんのものがない。
通知の一行目で、もう読まれていたら。それは、私次第じゃない。
吹き出しの横の22:12と、上の時計の数字が、ずいぶん離れた。
大槻くんがどう思うかは私次第じゃなくて、私次第じゃないものを見ないで済むように私は四月からずっと一分で決めてきたのに、今この画面には私次第じゃないものしか残っていなくて、返事も既読も向こう側にあって、こっち側に残っているのは送ったということだけで、でも既読はまだついていなくて、ついていないならこれはまだ大槻くんの手の中じゃなくて私の手の中にあって、私の手の中にあるものなら私次第だから、吹き出しを長押しした。
メニューが出る。コピー、転送、送信取消。
押した。
画面に、一行だけ残った。
『メッセージの送信を取り消しました』
大槻くんの画面にも、同じ一行が残っているはずだ。何を取り消したのかは書いていない、一行だけが。
取り消せば、軽くなると思っていた。
軽くならなかった。何も書いていない一行のほうが、さっきの一行より、ずっと重かった。
スマホを伏せた。
既読のつく前のものは、消せてしまった。




