3-2 わたしたち次第のもの
先生は、もう黒板のほうを向いていた。
「この学生は、ノートのほかに、もう一冊作りました。講義の中から、すぐ使えるところだけを抜き出した、小さな本です。題名は、手引き。もとの語は手の中にあるもの、という意味で、手に持つ短剣のことも、そう呼びました」
前のほうで、小さく笑いが起きた。手引きと短剣。持ち歩くなら、私は手引きのほうがいい。
「その一ページ目が、これです。有名な形だと、変えられるものと、変えられないもの、ですね。原文は、もう少し地味です。僕の訳です」
黒板に、三行。
ものごとには、わたしたち次第のものと、わたしたち次第でないものがある。
わたしたち次第のもの――考えること、動き出すこと、望むこと、避けること。
わたしたち次第でないもの――体、持ち物、評判、地位。
字が、四月より少しだけ丁寧だった。
最前列の端の大人の人が、本に黄色い付箋を貼った。四月から、ずっとあの席にいる人だ。本の横から飛び出している付箋の色が、四月より増えていた。
「わたしたち次第、と訳したところ。原文は、エフ・ヘーミーン。直訳すると、わたしたちの上に、です。わたしたちに懸かっている、くらいの意味ですね」
先生はチョークで、次第、の二文字を軽く叩いた。わたしたち次第。日本語にすると、ずいぶん普通の言葉だ。
「日本語の次第で、だいたい足ります。今日は、足したものはありません」
隣で、大槻くんが小さく息をついた。安心したみたいに。四月の初回、足したのは僕です、と言った先生を、たぶん覚えている。
「評判、のところ。人が自分をどう思うか、です。これは向こう側に入っています」
先生は三行目の端を、指でとんと叩いた。
「評判は自分次第じゃない、と書いた人の手引きが、二千年、評判がいい」
教室が笑った。
私は、三行目を見ていた。
人が自分をどう思うか。大槻くんが、私をどう思うか。それは、向こう側。
夏祭りに誘うかどうか。それは、こっち側。
分かった。一分もかからなかった。
分かったのに、ペンを持った手は、ノートの上で止まったままだった。分かるのは、得意なのに。
「エピクテトスは、たとえ話が好きでした。手引きの七番に、船の話があります」
船。
「航海の途中で、船が港に泊まる。水を汲みに、陸に上がる。道のついでに、小さな貝や球根を拾うのはかまわない」
球根。拾うものの例にしては、ずいぶん地味だ。
「ただ、心は船のほうに向けておけ。船長が呼んだら、全部置いて、すぐ戻れ」
先生は、そこで本を閉じた。
「この話、続きがあるんですけど、続きは重いので、今日は貝のところまでにします」
貝のところまで、の貝から、話はローマの牡蠣に移って、湖に牡蠣の養殖場を作って大儲けした人がいて、その人は床の下から温めるお風呂まで作ったことになっていて、話はお風呂の床下の煙の通り道に潜っていって、船はもう、誰にも呼ばれなかった。
先生は今日、黒板に船を描かなかった。
だから、私が描いた。
ノートの余白に、港に泊まった船を一艘。甲板には誰もいない。全員、陸で貝を拾っている。
六時十九分、先生が腕時計を見た。
「すみません、長くなりました。終わります」
ノートを閉じかけたところで、隣から影が落ちた。
大槻くんが、私のノートを覗きこんでいた。肩が近い。四月の、椅子一つぶんの距離より、ずっと近い。
「船」
「……うん」
「最初の週も、描いてましたよね。先生が描いて、すぐ消したやつ」
大槻くんが、覚えていた。四月の、消されるまでの数秒の船を。
「先生のより、ちゃんと船でした」
返事は、一つも決まらなかった。
大槻くんはそれだけ言って、自分のノートを鞄にしまった。
絵を褒められたのは、確認画面を閉じてから、初めてだった。
「宿題、まだです」
「うん」
大槻くんは、民法のレポートがあると言って、図書館のほうへ歩いていった。
夏祭り、と言いかけた口が、別のことを言った。
「じゃ、来週ね」
*
六月十七日(金) 金曜五限・第八十回
看板:エピクテトス「変えられるものと、変えられないものを分けよ」(流布の形。板書は原文の訳)
出席実数:百二(六月の平常値)
脱線:三回(うち未帰還一回。船から貝、貝からローマの牡蠣、牡蠣から浴場の床下へ)
最長脱線:十二分(同上。船長は呼ばず)
開始前の脱線:二分(梅雨とチョーク。着地せず)
講義の筆記者への言及:一件(「僕の講義は、誰も書き留めていないので」)
荷物による座席の確保:零件(第七十四回以降、零件が続く)
名言が効いたと思われる学生:一名(中央やや後ろ、通路から一つ内側。脱線中、板書ではない何かを描いていた)
所感:
*
教室を出ていく紺のカーディガンを、廊下で捕まえた。
「冬野さん、灯台。相談です」
「業務時間外ですので」
冬野さんはそう言って、ついてきた。
灯台の窓際の四人がけ。柚木詩織と、蓮沼さん。二人とも、先に来ていた。詩織は金曜五限を取っていないのに、金曜のこの時間は、だいたいここにいる。
「教務課の冬野さん」
「えっ、職員さんも来るんだ、女子会」
詩織が言うと、蓮沼さんが手帳を開いた。
「相談所なので」
冬野さんは、自分の分のブレンドを自分で頼んでから、少し考えた。
「女子会というのは、蓮沼さんも含まれるんですか」
「含まれます。所長なので」
「分類としては」
「分類はしないでください」
蓮沼さんが即答して、冬野さんは、それ以上は聞かなかった。
「で、相談って」
詩織がストローをくわえたまま聞く。
「夏祭り。大槻くんを誘いたい。九日、送れてない」
言ってから、気づいた。
九日。
数えないことにしたはずの日数を、私は、ちゃんと数えていた。
「九日」
蓮沼さんが、手帳に何か書いた。
「林瀬さんで九日は、相当だね」
「なんで送れないの」
詩織が聞いた。
「分かんない。決まってるのに」
「文面が決まらないとか」
「文面は一行。決まってる」
「じゃあ、何が決まってないの」
答えられなかった。構図は十秒で決まって、顔の線だけが決まらない。それを説明する言葉を、私は持っていなかった。
「じゃあさ」
詩織がスマホを置いた。
「大槻くん、付き合うなら★いくつ?」
「つけない」
「じゃ、私がつける。……3.8」
「低くない?」
「レビューが少ないの。会ったの一回だし。でも、唐揚げのとこ二回戻ってた話は、ちょっと加点」
低いのか高いのか、私には分からない。★で人を見たことがない。
「普通さ、こういうのって、男子から誘ってくるの待たない? ネットだと、だいたいそう書いてある」
「ネットに大槻くんのこと書いてあるの」
「書いてないけど」
詩織は、スマホの画面をこっちに向けた。誘い方のまとめ記事だった。記事にまで★がついている。4.3。
「ほら。『よかったら』を最初につけると、断られにくいんだって。相手に逃げ道を作ってあげるのがコツ、って」
「よかったら、は嫌」
「なんで」
「逃げ道があると、私が逃げる」
言ってから、自分で少し驚いた。詩織も、驚いた顔をした。
詩織は、通りかかった戸倉さんを呼び止めた。
「戸倉さん、ここのブレンドって★いくつ?」
「★はないです。四百五十円です」
「え、★ないの」
「ないです」
戸倉さんはそれだけ言って、カウンターに戻っていった。詩織が、ふうん、と言った。
蓮沼さんが、手帳から顔を上げる。
「確率は出さないよ。林瀬さん、数字いらないでしょ」
「いらない」
「だから、最悪のケースだけ言うね。断られる、じゃないよ。それは二番目」
いつもの声だった。
「誘わないまま、七月二十三日が来る」
テーブルの上で、ブレンドの湯気が揺れた。
それは、知っている。
一回、見たことがある。




