3-1 講義ノートの流出です(林瀬)
五月の金曜は、全部、大槻くんの隣に座った。
何回だったかは、数えていない。数える係は、ほかにいる。
宿題のほうは、毎週同じだった。
「まだです」
「うん」
大槻くんは、それを言うとき、少しだけ背筋を伸ばす。言い訳をしない人の伸ばし方だ。
月曜のお昼は、学食になった。決めるのは私で、大槻くんは毎回、券売機の前で一回だけ止まって、それから唐揚げを押す。点数は、もう聞いていない。
一度だけ、大槻くんに聞かれた。五月の終わりの学食で、私が券売機の前で迷わずに日替わりを押したときだった。
「林瀬さんは、迷わないんですね」
「迷わないよ」
「すごいですね。僕は四月までは、全部見ないと落ち着かなかったので」
すごくないよ、とは言わなかった。言うと、理由を聞かれる。大槻くんは理由を聞く人で、聞いたら、ちゃんと最後まで聞く人だ。
「唐揚げ、冷めるよ」
かわりにそう言うと、大槻くんは素直に箸を持った。
冬野さんは、三回に一回くらい、講義のあとの灯台に来るようになった。ブレンドは毎回、自分で払う。そこだけは最初の日から変わらない。
だから、六月八日の水曜日、掲示板の前で足が止まったのも、別に特別なことじゃなかった。
掲示板のいちばん端に、ポスターが一枚増えていた。
駅向こうの神社の、夏祭り。七月二十三日、土曜日。紺の地に、提灯の赤が三つ。提灯が少し右に寄りすぎていて、日付の文字が窮屈そうだった。私なら、もう少し左に置く。
見た瞬間に、決めた。
大槻くんと行く。
ここまで、一秒。お昼の学食を決めるのと同じ速さだった。決まったので、その場でスマホを出した。
『七月二十三日、夏祭り』
そこまで打って、消した。
『駅向こうの神社で』
消した。
おかしい。
いつもなら一行で終わる。お昼、学食。決めた。決めたことを、決めたまま渡すだけ。今回も、もう決めてある。決めてあるのに、送信のところまで指が行かない。
その日は、送らなかった。次の日も、送らなかった。金曜の五限は隣に座ったのに、言わなかった。
その夜、文面を考えるのをやめて、かわりに絵を考えた。
夜。神社の石段。提灯は上から三つ。屋台は左に寄せて、金魚すくいの水色を一か所だけ入れる。人混みはぼかして、右下に二人。浴衣はたぶん私だけで、大槻くんはたぶん、普段の服で来る。
構図は、十秒で決まった。
大槻くんの顔だけ、線が決まらなかった。
横顔にするか、こっちを向かせるか。笑わせるか、困らせるか。困っているときの眉の角度なら、四月から何回も見ている。見ているのに、どの顔で描けばいいのかが分からない。
鉛筆を置いた。
月曜の学食では、言うつもりだった。顔を見て一言なら、文面はいらない。
「大槻くん、七月の」
「はい」
大槻くんが唐揚げから顔を上げた。まっすぐ、こっちを見た。
「……七月って、暑いよね」
「暑いですね」
大槻くんは真面目にうなずいて、唐揚げに戻った。私は、日替わりの白身魚を三口続けて食べた。
絵は、高校の三年間、ずっと描いていた。
行きたかったのは、美大だった。
出願は全部ウェブで、文学部のほうは三分で出せた。名前を入れて、学部を選んで、支払いを済ませて、送信。三分。
美大のほうは、最後の確認画面まで行って、閉じた。
次の日も、確認画面まで行って、閉じた。一月の締切の日は、夜中まで、開いて、閉じた。開くたびに入力した内容はちゃんと残っていて、閉じるたびに、明日の私が押すんだろうと思った。
日付が変わると、画面のほうが決めてくれた。受付は終了しました。
それから、一分で決めるようにしている。
四月に、大槻くんに言った。迷ってるうちに、締切って過ぎるんだよ。
大槻くんはたぶん、即決派の標語か何かだと思っている。
標語じゃない。実話だ。
だから学食は、日替わりにしている。毎日替わるものなら、毎日迷わなくて済む。
六月十六日、木曜日の夜。
メッセージは、まだ送っていない。
ポスターを見てから何日たったのかは、数えないことにした。
*
金曜五限は、梅雨の話から始まった。
「この季節の黒板は、チョークの乗りが悪くて――」
開始の四分前だった。先生は窓の外を一回見て、黒板を一回見て、何も書かずに「はい」と言った。梅雨は、どこにも着地しなかった。
隣で、大槻くんがノートを開く。表紙の角が、四月より少し丸くなっている。
「今日は、エピクテトスです」
黒板の左上に、名前が一つ。
「ギリシア語で教えた哲学者で、生まれは奴隷です。のちに自由の身になって、教師になった。二千年近く読まれています」
奴隷から、先生へ。履歴書にしたら、二行で済んでしまう。
先生はそこで、少しだけ笑った。
「で、本人は、一行も書いていません」
前のほうで、何人かが顔を上げた。
「残っているのは、アリアノスという学生が、講義を書き留めたノートです。なるべく、先生の言葉のまま書いた」
大槻くんのペンが、少し速くなった。書き留める、と聞くと書きたくなる人だ。
「ところが、そのノートの序文で、この学生が弁明しているんです。これは本として書いたものではありません。自分の覚え書きでした。それが、なぜか、知らないうちに出回ってしまいました」
弁明から始まる本。ちょっと読んでみたい。
先生は一拍おいた。
「講義ノートの流出です。二千年前の」
教室が笑った。大槻くんも笑った。ちゃんと、笑うところで。
「記録する人がいないと、講義は残らないんですね。……僕の講義は、誰も書き留めていないので、残りませんけど」
もう一度、笑いが起きた。さっきより大きい。
私は、なんとなく後ろを振り返った。
最後列の端。紺のカーディガン。
冬野さんは、笑っていなかった。
膝のタブレットの上で、指が止まっていた。




