↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/14

2-3 それは、事実じゃないです

「推し活」


林瀬さんが、ゆっくり繰り返した。蓮沼さんが手帳を開いた。戸倉さんが、ようやくトレイを下ろした。四人分の視線が一点に集まって、冬野さんは観念したように息を吐いた。


「三年前の後期に、学生から苦情が来たんです。金曜五限は、脱線が多すぎる、と」


声が、急に滑らかになる。何度も話したことのある話し方。


「苦情は教務課で受けます。受けたら、確認しなければいけない。それで、講義を監査しに行きました。報告書には数字が要ります。脱線が多すぎるかどうかを確かめるには、脱線を数えるしかない」


「数えたんですね」


「数えました。初日で七回、うち未帰還二回。それで、やめられなくなりました。報告書を出したあとも、翌週も、その翌週も。気がついたら三年目です」


「いいですね」


林瀬さんが言った。笑う前に、そう言った。


冬野さんの顔から、真顔が一枚はがれた。


「いいんです。いいんですよ、金曜五限は。脱線がただ多いんじゃなくて、戻ってくるときの戻り方がいいんです。第五十九回なんて、鳥の名前の話から始まって、渡り鳥の話になって、渡りの距離の話になって、ローマの郵便の話になって、十四分かけて、ちゃんとセネカの手紙に戻ってきたんです。手紙は運ぶものなので。あれは見事でした。未帰還も未帰還でいいんです、今日の蝋板もそうですけど、戻ってこない話はだいたい先生がいちばん楽しそうなときで、そういうときは右手のチョークを左手に持ち替えるので、それで分かるんですけど――」


気がついたら、僕が止めていた。


「冬野さん」


「はい」


「早口です」


「……業務ではない話だったので」


冬野さんは、はがれた真顔を拾って、かぶり直した。蓮沼さんが小さく拍手して、戸倉さんは何かを換算しかけて、やめた。


「報告書は、どうなったんですか」


法学部としては、結論が気になる。


「脱線は多い。ただし、出席の実数は学内上位。継続を妥当とする」


冬野さんは、少しだけ得意そうだ。


「この科目、毎年、教養科目の見直しで整理の候補に挙がるんです。毎年、出席の実数で残ってます」


蓮沼さんが笑った。僕は、笑うところかどうか少し採点してから、笑った。持ちネタはそこで終わった。話し慣れた終わり方だった。


「冬野さん、先生のこと、推しなんですか」


林瀬さんが聞く。まっすぐに。


「推しです。推しは推し、恋じゃないので」


即答。その速さに、覚えがある。一分で何でも決める人の速さ。


「ほかには、何を数えてるんですか」


林瀬さんは、もう次を聞いている。冬野さんはタブレットを出して、画面はこちらに向けずに読み上げた。


「講義の場で見えたことだけです。今日なら、脱線が四回。チョークの折損が一本。皇帝が朝起きたくない話で笑った人数が、概算で八十」


「概算なんだ」


「笑い声は重なるので」


それから冬野さんは、画面を一つ下にずらした。


「それと、これは業務上の記録です。荷物による座席の確保、一件。荷物で席を取らないでください、と掲示しています」


真顔だった。荷物。一件。僕の、先週までの席。


掲示違反で林瀬さんが注意される――と身構えた僕の前で、冬野さんは続けた。


「確保していた学生は、開始前に、扉のほうを四回見ていました」


名前は言わない。言う必要もない。


四回。開始前に。僕が着く前に。僕が教室の外の廊下で、遅れるための八分をやり過ごしていたあいだに。


「それ、私です」


林瀬さんが言う。すぐに。


「隣、空けてたのに。来ないから。途中で振り返ったら、いるし。いちばん後ろに」


あの振り返りは、確かめたのではなかった。探していたのだ。


「……なんで後ろにいたの」


今度は、聞き流してもらえなかった。袖はもう放されていたけれど、目が放してくれなかった。


主文と理由を、声に出して読み上げることになった。


「点数つけてそう、と言われたので」


「うん」


「減点された、と」


林瀬さんは、目を丸くした。


「褒めたんだけど」


「……え」


「点数つけるって、ちゃんと見てるってことでしょ」


僕は何も言えなかった。林瀬さんは、言ってから少し目をそらして、カップを持ち直した。


「で、唐揚げは何点だったの」


「……七十二点です」


「それ、いい点?」


答えようとして、気づいた。彼女は、カップの縁を見たまま、顔を上げない。


「私もさ」


小さな声だった。一分で何でも決める人の声にしては、ずいぶん時間をかけて出てきた声だった。


「ちょっとだけ、判決出してた。嫌われたかなって」


テーブルの上が、静かになった。蓮沼さんも、戸倉さんも、冬野さんも、何も言わなかった。


考えるより先に、口が動いた。


「それは、事実じゃないです」


声が、思ったより大きく出た。


「証拠がありません。というか、反対の証拠しかありません。どうでもいい人の一言で、四日も判決を書いたりしません」


言ってから、何を言ったのか分かった。


林瀬さんが、顔を上げた。


それから、学食のときよりずっとはっきり、笑った。


「法学部っぽい」


今度の笑い方の種類なら、確かめなくても分かる。


テーブルの下で、スマホの下書きを開いた。八十五点の、丁寧な下書き。


全部選んで、消した。


黒板には、消し方は書いていなかった。一回押したら、消えた。


「さっき、何消したの」


林瀬さんだった。向かいの席からは、テーブルの下まで見えるらしい。


「……判決です」


正直に言った。採点はしなかった。


林瀬さんは、ふうん、とだけ言って、カップで口元を隠した。隠しきれていなかった。


七十二点は、たぶん、つけ直しになる。


「二人とも通ったんだね、抽選」


蓮沼さんが、手帳を開き直しながら言った。何事もなかったみたいな声だった。たぶん、わざとだ。


「七十五・五パーセントのほうに入った。おめでとう」


最悪のケースは、今回も起きなかったらしい。


帰り際、林瀬さんは店の前で振り返った。今日は、振り返った。


「来週、祝日だから。再来週」


「はい」


「二週分、空けとく」


「荷物は置かないでください」


冬野さんが言った。


  *


灯台を出たのは、七時十分だった。


学生三人とは店の前で別れて、鞄を事務室に置いたままなので、大学に戻る。横断歩道を渡りながら、今夜の数字をまとめることにした。まとめないと、まとまらない気がしたので。


業務、と言った回数。四回。うち一回は範囲外で、一回は否定形だった。


推し活です、と言った回数。一回。


推しは推し、恋じゃないので、と言った回数。一回。即答できた。三年目なのだから、それくらいはできる。できて当然で、むしろあれだけ滑らかに言えたのは日ごろの鍛錬の成果であって、鍛錬というのはつまり心の中で何度も言っているということであって、では人に言ったのは今日が初めてなのにどうしてあんなに言い慣れているのかというと――そこは、深く考えないことにした。業務時間外なので。


かわりに、頭の中で報告書の様式を開いた。業務時間外だが、様式のほうは手に馴染んでいる。


  件名 推し活の発覚について

  発生日時 四月二十二日(金)十八時四十分ごろ

  発生場所 大学前喫茶店「灯台」窓際席

  原因 戸倉さんによる定時後六十五分の用途照会

  被害 持ちネタ一回分の消費。早口一回。いいですね、の被弾一件

  再発防止策 なし(当面)


持ちネタは、話すと決まって笑われる。今日も予定どおり笑われて、林瀬さんだけが、笑う前に、いいですね、と言った。


いいですね、の分類先が見つからない。笑われるのは想定していた。呆れられるのも、引かれるのも、気持ち悪い、と言われるのも、全部想定して、全部に答えを用意して三年やってきた。いいですね、だけは用意していなかった。想定していないものの扱いは、業務マニュアルにない。


持ちネタは、監査の初日の数字で終わる。七回、うち未帰還二回。報告書に書いたのも、数字だけだ。あの日の講義で数字にならなかったことは、報告書のどこにも書いていない。持ちネタにも、入れていない。


いや、確認すべきはそこではない。


確認する。扉の四回は、公開されている講義の場で、開始前に見えたことだ。記録の対象内。名前は出していない。名乗ったのは本人だ。規約違反なし。


ついでに言えば、八分遅れて私の隣に座った学生は、講義中、前方のリュックを何度も見ていた。講義の場で見えたことなので、記録の範囲内だ。灯台では言わなかった。言わなくても、あの学生は自分で、反対の証拠しかありません、と言った。


戸倉さんの六十五分は、正確ではない。今日、講義が終わったのは六時十八分なので、六十三分だ。訂正はしなかった。訂正すると、残りの二分も推し活になる。


荷物の席の件は、業務として、掲示を一行増やす。来週から。いや、来週は昭和の日だ。再来週から。推しの講義が一回休みになることを、私は四月の頭から知っている。年間の授業日程を組んだのは教務課だからだ。知っていて、今、少しだけ損をした気分になっている。損をした気分を記入する欄は、どの様式にもない。


十四号館の前を通る。


三階の、廊下の突き当たりの手前の窓に、灯りがついていた。研究室だ。先生はまだいる。何をしているのかは、知らない。知る必要もない。届ける書類は、今日はない。業務がないので、上がらない。


事務棟の入口で、カードキーを出した。


あの子は、扉のほうを四回見ていた。


四回だと分かるのは、数えたからだ。数えたのは、私だ。他人の回数なら、四まで正確に数えられる。


さっき十四号館の前で、私が三階の窓を何回見上げたのかは、数えていない。


規約の外だからだ。


  *


 四月二十二日(金) 金曜五限・第七十三回

 看板:マルクス・アウレリウス「君を悩ますのは物事ではなく、物事についての君の判断だ」

 出席実数:百十七(抽選後初回。立ち見なし)

 脱線:四回(うち未帰還一回。蝋板から、ローマの学校へ)

 最長脱線:九分(同上。帰校せず)

 開始前の脱線:三分(連休の話。着地せず)

 チョーク:一本折損(折れた短いほうで続行)

 皇帝が朝起きたくない話で笑った人数:概算八十

 荷物による座席の確保:一件(開始前、扉の確認四回。講義中、後方の確認一回。確保は終了まで継続)

 名言が効いたと思われる学生:一名(最後列、私の右隣。八分遅れて入室。第七十一回の、中央やや後ろの学生と同一。講義後、前方より回収される)

 所感:

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。