2-2 君の下した判決
先生は、もう皇帝の話をしていた。
「ローマ帝国の皇帝ですね。二世紀の人です。在位のあいだ、ほとんど戦争と疫病でした。だからこの人の書いたものは、たいてい遠征先で書かれています」
黒板の左上には、マルクス・アウレリウス、とだけ書いてある。遅れてきた人間には、それで足りる情報量だった。
「書いた、と言いましたが、出版はしていません。手帳です。誰にも見せないつもりで書いた手帳で、題名もない。写本に書いてあるのは、自分自身へ、という一言だけです」
自分宛ての手帳。それなら、誰にも採点されない。少しだけ、うらやましいと思った。
「誰にも見せないつもりなので、遠慮がないんです。たとえば、第五巻のいちばん最初は、朝の話です」
先生は文庫本を開いた。今日は開いた。開いた本からの引用なら試験に出そうだが、試験はない。
最前列の端で、大人の女の人が、同じ本の別の版らしいものを開いて、付箋を一枚貼った。学生に見えない人は、この教室に二人いるらしい。
「朝、起きるのがつらいときは、こう考えろ。自分は、人間の仕事をするために起きるのだ、と。……で、少しあとに、こう書いてあります。でも、こっちのほうが気持ちいい」
何が、とは先生は言わなかった。言わなくても、教室の半分くらいは布団のことだと分かったと思う。
「布団の中のほうが、です。皇帝がですよ。ローマ帝国の。自分で自分に反論している」
教室が笑った。隣の人が笑ったのはそれよりほんの少しだけ早くて、最後列で一人だけの、息みたいな小さな笑いだったけれど、僕はそれ以上は考えなかった。考える余裕がなかった。
笑いの中で、林瀬さんが振り返ったからだ。
前の席から、後ろの扉のほうへ。教室じゅうが笑っている、そのどさくさに紛れるみたいに。
目が合った、気がした。
彼女はすぐに前を向いた。
確かめたのだ、と思った。僕が来ているかどうかを。来ていて、隣に座らなかったことを。確かめて、前を向いた。それ以上の確認は必要ない、という速さだった。
判決は、確定した。控訴の予定はない。
「人に見せる文章なら、こういうところは削ります。削らなかったから、二千年後の僕らが、皇帝も朝は起きたくなかったことを知っている。僕は、この手帳でここがいちばん好きです」
好きです、と先生は言った。教える側が講義で、好きです、と言うのを初めて聞いた。好きな箇所は試験に出ないのに、先生は少しうれしそうだった。僕は、うまく笑えなかった。
先生は本を閉じて、チョークを取った。
「今日の一つは、第八巻の四十七番です。僕の訳です」
黒板に、二行。
外のことで苦しんでいるなら、君を悩ませているのは、そのことではない。そのことについての、君の判断だ。
そして判断のほうは、いま、消すことができる。
前のほうで、何人かがスマホを構えた。写真に撮ったら、消せなくなる。
「一つ、申告します」
先生は、判断、の二文字の下に線を引き、引いたところでチョークが折れて、折れた短いほうで続きを引いた。
「判断、と訳したところ。原文の語は、クリマといいます。法廷でも使う語です」
法廷、と聞いて、少しだけ背筋が伸びた。
「判決。裁き」
判決。
ペンが止まった。
「日本語で判断と書くと、机の上の語になります。少し軽い。軽くしたのは僕です。原文のほうは、君を悩ませているのは出来事じゃない、君がその出来事に下した判決だ、と言っている」
判決なら、知っている。法学部の一年でも、そのくらいは知っている。判決には事実認定が要る。証拠を調べて、何が起きたのかを確定させて、それから法を当てはめる。順番を逆にしたら、それは判決ではなく、ただの決めつけになる――法学入門の先生が、初回の講義でそう言っていた。
僕の判決の証拠は、一文だった。何にでも点数つけてそう。それだけだ。笑い方の種類は確かめていない。言った理由も聞いていない。連絡のない火曜日は、判決のあとで拾った証拠だ。さっき目が合ったのも、気がした、までしか事実がない。事実認定を一つもしないまま主文だけを先に書いて、書いてから、その主文に合う証拠だけを集めていた。
前を見た。
通路側の席に、リュックが置いてある。
振り返って、僕を見つけたあとも、まだ置いてある。
事実は、リュックが置いてある、までだ。荷物を置いただけ、というのは、僕が足したものだ。足したのは僕です、と先々週、先生は言った。先生は訳文について、ちゃんと申告していた。僕は、何も申告していない。
「二行目の、消す、のほうにも話がありまして」
先生は、黒板の二行目を指でたどった。
「当時のノートは、木の板に蝋を塗ったものです。尖った棒で書いて、反対側の平たいほうで、蝋をならして消す。書いて、消して、また書く」
書いて、消して、また書く。僕のノートは、消せない。ボールペンだからだ。
「ローマの子どもは、それで宿題をやっていました。で、その宿題がですね、これがけっこう厳しくて」
そこから、ローマの学校の話になった。先生が鞭を持っていた話になり、九九のような暗唱の話になり、夏休みはあったのかという話になって、消す、には戻ってこなかった。
消すことができる、と黒板には書いてある。消し方は、書いていなかった。
ポケットの中で、八十五点の下書きが待っている。
六時十八分、先生は腕時計を見た。
「すみません、長くなりました。終わります」
ノートを閉じて、スマホを出した。
下書きを開く。『来週から、席は別のところにします。隣は、ほかの方にどうぞ』。八十五点。前の席が動き出す前に出て、廊下で送ればいい。後ろの扉は、すぐそこだ。
立ち上がりかけたところで、隣の人の首から下がっているものが目に入った。職員証だった。顔写真と、所属と、名前。教務課、冬野。
「……監督官の方ですか」
口が先に動いた。
彼女はストップウォッチをカーディガンのポケットにしまってから、こちらを見た。
「教務課です。大学の講義に、監督官はいません」
蓮沼さんと同じことを言われた。逃げる前に、一つだけ聞いておきたいことがあった。
「教務課の方なら……あのシラバス、通るんですか。採点基準は、教えません、って」
法学部に入ってから、少しだけ調べた。成績評価の基準は、あらかじめ学生に示すことになっているはずだ。
冬野さんは、表情を変えなかった。
「評価欄に書いてあります。期末レポート百パーセント。到達目標に照らして評価する。制度上は、あれで明示済みです」
「じゃあ、メッセージ欄のほうは」
「通してません」
即答だった。
「三年かけて、メッセージ欄まで移っていただきました」
三年。つまり最初は評価欄に書いてあって、それを差し戻して、差し戻して、三年かけて自由記述の欄まで移したということだ。交渉としては長い。相手が相手なのだろう。今日の講義も、消す、から戻ってこなかった。
「消してはいただけなかったんですね」
「消すのは、業務の範囲外ですので」
真顔だった。この人の真顔は、たぶん笑うところだ――と思った、そのときだった。
袖を、つかまれた。
引かれたのではなく、つかまれた。手首のところを、ぎゅっと。振り返ると、林瀬さんがいた。
前の席から通路を駆け上がってきたらしく、息が上がっていた。リュックを片方の肩に引っかけたまま、僕と後ろの扉のあいだに立っている。逃げ道に、彼女が立っていた。
僕の手の中では、八十五点の下書きが開いたままだった。送信ボタンまで、親指一本。
「いた」
一言だった。
僕は、親指を画面から離した。
「……後ろにいたなら言ってよ」
「遅れたので」
嘘ではない。全部でもない。
林瀬さんは僕の答えを聞き流して、袖をつかんだまま、冬野さんのほうを見た。
「あ、ストップウォッチの人」
「教務課の冬野です」
「最初の週、遅れて後ろから入ったとき、見えちゃった。先生の話がそれた瞬間に押してましたよね。で、戻ってきたら、もう一回」
冬野さんの表情が、初めて少し動いた。一度に見ているものの数が、やっぱり僕より多い。
「出席の実数確認です。業務です」
「脱線のたびに?」
冬野さんは、一拍黙った。
「……話すと、長いですよ」
「じゃあ、灯台で」
林瀬さんは僕の袖をつかんだまま、もう扉のほうへ歩き出していた。袖ごと、僕も歩き出すしかなかった。
灯台には、蓮沼さんが先にいた。
窓際の四人がけで紙の手帳を開いていて、僕たちを見て閉じ、それから三人目を見た。
「最後列の人だ」
「経済の二年、蓮沼です。この講義は二周目で――」
「存じてます」
冬野さんは、椅子を引きながら言った。
「去年の履修者で、今年は登録のない方ですね。潜りの方は把握してます。席が足りない回は、立ち見でお願いしています」
蓮沼さんは、手帳を開き直さなかった。
「……最悪のケースを、想定してなかった」
注文を取りに来た戸倉さんにブレンドを三つ頼むと、冬野さんは、自分の分は自分で払います、と言って、そこだけは譲らなかった。
カウンターの奥の棚の端に、持ち手の太いカップが一つだけ、伏せて置いてあった。店のほかのカップとは、形が違った。誰の分なのかは、誰も言わなかった。
林瀬さんが、テーブルに身を乗り出す。
「で、ストップウォッチ」
「実数確認です。教室の割り当てを申請するとき、登録者数と実際の出席者数の差を、必ず聞かれますので」
「出席の数なんて、最初の十分で数え終わりません?」
戸倉さんだった。トレイを抱えたまま、まだそこにいた。
「それに、職員さんの定時って五時十五分ですよね」
「……一般的には」
「五限は六時二十分まで。定時のあとの六十五分は、何の業務ですか」
「教室の、施錠の確認とか」
「三〇一の施錠、守衛さんですよね」
「教室の、環境の」
「六十五分?」
「…………」
冬野さんはカップを持ち上げて、飲まずに置いた。
「……推し活です」




