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4-1 根拠:なし(大槻)

『林瀬澪がメッセージの送信を取り消しました』


その一行を、三回読んだ。三回読んでも、一行は一行のままだった。


六月十七日、金曜日。二十二時三十四分。


僕は図書館では、スマホの電源を切る派だ。マナーモードでは足りない。震えるものは、震えた時点で、周りの誰かの集中から何点かを引いている。その主義のおかげで、閉館まで民法のレポートが書けて、その主義のせいで、部屋に帰って電源を入れるまで、何も知らなかった。


トークの一覧で、林瀬さんの名前がいちばん上に来ていた。開くと、上には月曜の『お昼、学食。決めた』と、僕の『了解です』。その下に、灰色の一行。


本文はない。何を取り消したのかも、書いていない。


四月十二日の夜を、思い出した。


僕はあの夜、既読のついた自分の吹き出しの上で、送信取消を押せなかった。親指を乗せたまま、画面の明るさが一段落ちるまで動けなかった。取り消すのにも、親指一本ぶんの決心が要る。それは知っている。


林瀬さんは、それを押した。僕が電源を切っていた、そのあいだのどこかで。


聞けば分かる。さっきの、何でしたか。一行で済む。


聞かなかった。


取り消した人に、何を取り消したのかを聞くのは、本人が引っこめた答案を、採点のために回収するのと同じだ。答案を引っこめる権利は、書いた側にある。


かわりに、復元を始めた。


図書館で開いた古典の本で、見たことのある形にした。原文の欠けたところに角括弧がついていて、その下に、ここには何があったのかという学者たちの案が並ぶ。何百年分の学者が、欠けた一語のために、真顔で案を出し合っている形だ。


  [            ](欠損)

  復元案一 宿題の催促。根拠:毎週の「まだです」

  復元案二 月曜の学食の件。根拠:なし(今日は金曜)

  復元案三 送り先の間違い。根拠:なし


案一にだけ、根拠があった。


ただ、宿題の催促なら、林瀬さんは取り消さない。毎週、本人の顔を見て言っている。案一に二重線を引いた。


一晩で、根拠のある案は零になった。


三日後の月曜の朝、メッセージが来た。


『お昼、学食。』


決めた、がなかった。


四月から一度も欠けなかった三文字が、欠けていた。


その週の金曜、林瀬さんは、いつもどおり隣に座った。


「宿題、まだです」


「うん」


取り消しの話は、どちらもしなかった。


次の月曜も、三文字は欠けていた。学食では、林瀬さんは日替わりを押して、僕は券売機の前で一回だけ止まってから唐揚げを押した。いつもどおり喋って、いつもどおり笑う林瀬さんの、朝の三文字だけが、ない。


その日、一度だけ、聞きかけた。


「林瀬さん、六月の」


「うん」


林瀬さんは、日替わりの皿から顔を上げなかった。箸が、白身魚の上で止まっていた。


「……六月の、民法のレポート、出しました」


「そうなんだ。えらいね」


箸が、また動き出した。


聞かなかった、のではない。聞けなかった。止まった箸を見たら、答案を回収しに行く僕の手のほうが、先に止まった。


復元案は、増えた。増えるにつれて、根拠のほうが追いつかなくなった。


六番目は、絶交の通知だった。根拠はない。却下しかけて、手が止まった。絶交を取り消す人はいない。いや、取り消したのだから、まだ絶交ではない、という読み方もできる。保留にした。保留の案が、いちばん夜に効く。


九番目は、夏祭りの誘いだった。


根拠は、掲示板のポスター。駅向こうの神社、七月二十三日。


却下した。


林瀬さんは、決めたことを取り消さない人だ。四月から、決めた、を取り消すところを、僕は一度も見たことがない。誘いなら、それは決めたことだ。決めたことなら、取り消すはずがない。


九番目に、二重線を引いた。


論理としては、完璧だった。


七月の最初の金曜、講義のあとの灯台で、仮定の話として聞いてみた。


「取り消されたメッセージの中身を、推定する方法ってありますか」


蓮沼さんは、手帳を開かなかった。


「仮定の話?」


「仮定の話です」


「じゃあ、仮定の答え。確率は出さないよ。君のことだから、もう案を出してるでしょ。最悪のケースだけ言うね。君が案を百個作って、そのまま夏休みが来る」


百は多い。僕の手元にあるのは、まだ十一だ。


隣のテーブルで、冬野さんがブレンドを飲んでいた。三回に一回の日だった。


「冬野さんは、どう思いますか」


「メッセージの中身は、記録の対象外です」


冬野さんは、カップから目を上げずに答えた。


「記録できるのは、日程だけです。前期の金曜五限は、残り三回。最終回は、七月二十二日です」


蓮沼さんも、冬野さんも、それ以上は言わなかった。二人とも、僕の知らない何かの、ちょうど一歩手前で止まっているように見えた。止まっている場所が分かっても、その先は分からない。根拠にはならない。


七月十一日の月曜、学食で、林瀬さんが箸を置いた。


「大槻くん、二十三日って」


二十三日。九番目の日付だった。


二重線の引いてある九番目が、頭の中で一瞬だけ浮いた。


すぐに沈めた。九番目は却下済みだ。それに、林瀬さんの誘いは一文で終わる。お昼、学食。決めた。誘いなら、林瀬さんは最後まで言い切る。二十三日って、で止まる誘いを、林瀬さんはしない。


それに、もし誘いではなかったら。誘われたつもりで答えて、違ったら。それは、うぬぼれという名前の減点になる。


だから、いちばん安全な答えを出した。


「土曜ですね。前期の試験が二十五日の月曜からなので、民法の二日前です」


林瀬さんは、少しだけ黙った。


「……そうだね」


「はい」


「勉強、するよね」


「します」


「だよね」


林瀬さんは、箸を持ち直した。日替わりは、その日も白身魚だった。


その夜、十二番目の案を足した。


試験日程の確認。根拠:本人が、今日、二十三日のことを聞いてきた。


九番目と同じ日付だったことは、根拠の欄には書かなかった。


十二の案の中で、根拠があるのは、それだけだった。


僕は少しだけ満足して、電気を消した。


七月二十一日、木曜日の夜。前期の金曜五限は、明日で終わる。


宿題は、まだ書けていない。


復元案は、十七になっていた。

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