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4-2 今日を摘め

七月二十二日、金曜日。三〇一教室は、六月より混んでいた。


「この教室、こんなに暑かったですかね。ローマの夏も相当でしたが、向こうの人は――」


開始の四分前だった。先生は、いつもより埋まっている教室を見渡して、一回だけ目を丸くした。それから何も書かずに「はい」と言った。暑さは、どこにも着地しなかった。


隣で、林瀬さんがノートを開いた。表紙の角の船は、四月のままだった。


「今日は、ホラティウスです」


黒板に、名前が一つ。今日は、いつもより少し大きい字だった。


「紀元前一世紀の、ローマの詩人です。お父さんは、もとは奴隷で、自由の身になった人でした。その人が、息子をローマのいちばんいい先生のところへ通わせた」


先月のエピクテトスも、奴隷の出身だった。この講義には、履歴書の一行目が似た人がよく来る。


「送り迎えも、お父さんが自分でしていたそうです。よその家は奴隷に付き添わせるのに、この人は、自分がついていった。息子が、あとでそれを詩に書いています」


子どもの送り迎えを、二千年後まで書き残される父親。点をつけるなら、かなり高い。


「今日読むのは、歌の第一巻の十一番です。八行しかありません。レウコノエという人に宛てた詩ですが、どういう人かは、分かっていません」


先生は本を開いた。四月から、教壇の本はほとんど開かれたことがない。今日は、開いた。


最前列の端で、付箋だらけの本を広げている大人の人が、少しだけ背筋を伸ばした。


「僕の訳で、読みます」


訳で読む、と先生が言うのは、初めてだった。教室が、少し静かになった。


「尋ねないでください。知ってはいけないことになっています。わたしに、あなたに、神々がどんな終わりを決めたのか」


いきなり、聞くな、から始まった。


「レウコノエ。バビロニアの数も、試さないでください」


先生は本から顔を上げた。


バビロニア。急に、地理の話になった。


「バビロニアの数、というのは、星占いの計算表のことです。東から来た占い師が、生まれた日から、その人の先のことを計算してくれた。数で出るので、信用されたんです」


数で出るので、信用された。


「ローマは、占星術師を何度か町から追い出しています。紀元前の百三十九年にも、三十三年にも。追い出しても、また戻ってくる」


二回追い出されて、二回とも戻ってきたらしい。回数を数えた人が、ちゃんといる。


「当たるから戻ってくるんじゃないんです。数で出してくれるから、頼む人がいなくならない」


当たらなくても、数で出してくれるなら頼みたい。その気持ちは、分かる。分かってしまうのが、少し悔しい。


僕は、ノートのいちばん後ろのページを開いた。


十七の案が並んでいる。根拠の欄は、ほとんどが、なし。一つだけ、試験日程。


追い出しても戻ってくる占い師を、僕は自分で五週間、部屋に置いていた。


隣で、林瀬さんのペンが止まった。


気づいたときには、林瀬さんの目が、僕のノートの上にあった。


九番目の、二重線の上に。


ノートを閉じた。音が、思ったより大きく出た。


林瀬さんは、何も言わずに、前を向いた。


見られた。


回収しないと決めた答案を、僕は五週間、本人の隣の席で採点していた。


「何が来ても、受けとめるほうがどれだけいいか。ユピテルがこの先いくつも冬をくれるにせよ、今、向かいの岩でティレニアの海をすり減らしているこの冬が、最後にせよ。賢くあってください。ワインを漉して」


先生は、何事もなかったように続けていた。当たり前だ。何事もなかったのは、教室の九十九パーセントにとってだ。


知ってはいけないことになっています、と、ついさっき先生は言った。二千年前の詩人も、そう書いている。


「短い間合いに合わせて、長い望みは刈りこんでください。こうして話しているあいだにも、意地の悪い時間は逃げてしまっています。今日を摘んでください。明日は、できるだけ信じずに」


林瀬さんは、前を見たままだった。


先生は、本を閉じた。


聞くな、で始まって、信じるな、で終わる詩だった。


「この詩は、冬の詩です。冬の海が、向かいの岩にぶつかっている。その冬が最後の冬かもしれないし、まだ何回も来るのかもしれない。どっちか分からないので、聞かないでください、という順番です」


七月の、冷房の効きの悪い教室で、冬の詩を聞いている。窓の外では、蝉が鳴いていた。隣の席は、冬より静かだった。


黒板に、三行。


  知ろうとしないこと。バビロニアの数も、試さないこと。

  長い望みは、短く刈りこむ。

  今日を摘め。明日は、できるだけ信じずに。


「有名なのは、最後の一行ですね。カルペ・ディエム」


先生は三行目の、摘め、の下に線を引いた。


それだけは、僕でも聞いたことがあった。Tシャツか何かで。


「カルペは、果物や花を摘む、という動詞です。よく、今を楽しめ、と訳されます。楽しめ、は原文に入っていません。引いたのは僕です」


足したり、軽くしたり、何も足さなかったりしてきた人が、今日は、引いた。


「ちなみに、カルペは、フランス語で読むと、鯉です」


教室が静かになった。


「関係はありません。毎年言っていますが、毎年関係ありません」


誰も笑わなかった。百人と少しが、全員、これをどう受けとめればいいのか分からない顔をしていた。フランス語は取っていない。取っていても、たぶん関係ない。


林瀬さんも、笑わなかった。


いつもなら、こういうところで小さく笑って、今、ちょっと安心したでしょ、と言ってくる人だ。四月の最初の日から、ずっとそうだった。今日は、言わなかった。


最後列の端のほうで、一人だけ、笑った人がいた。


小さな声だった。教室のどの笑いより、早かった。


先生は、なぜか少しだけ満足そうな顔をして、次の行へ進んだ。


「刈りこむ、と訳したところは、ぶどうの枝を切りつめる語です。伸びすぎた枝を、短く切る。摘む、と並べると、畑の言葉が続いている、と読む人もいます」


伸びすぎた枝。十七本。


「ワインを漉して、も、畑の続きです。ローマのワインは澱が多かったので、布や籠で漉してから飲みました」


台所の話が、まだ続くらしい。


「夏は、漉すのに雪を使いました。漉し器に雪を詰めて、上からワインを注ぐ。冷えて、少し薄まって、澄んで出てくる」


雪。七月に聞くと、それだけでうらやましい。


「で、その雪はどこから来たのか、という話になるんですが」


話は、そこから山に登った。山の雪を町まで運んで、しまっておいて、夏に売る。雪を売る商売があって、それに本気で怒っていた哲学者もいて、その哲学者というのが、四月に別荘で質素を説いていたあの人で、先生はそれがうれしくてしかたがないという顔で、怒りの文章を三つほど紹介して、ワインは、漉されないまま、どこかでぬるくなっていった。


そのあとも話は詩の外をしばらく回って、詩に戻ってくるまでに、時計の針はずいぶん進んだ。


隣のペンは、そのあいだ、一度も動かなかった。


先生は、本の最後の行に指を戻した。


「こうして話しているあいだにも――」


そこで、腕時計を見た。


「……逃げてしまっていますね。すみません、長くなりました」


教室が笑った。今度は、ほとんど全員が。


隣で、林瀬さんが笑ったかどうかは、見られなかった。


閉じたノートの表紙を見ていた。後ろのページは、もう開けなかった。

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