4-3 明日だけど
「最後なので、何か質問があれば。後期のことでも」
先生は、教壇の端に寄りかかった。教室の何人かは、もう鞄に手をかけていた。
手を挙げるかどうか、三秒迷った。
三秒は、僕にしては短い。四月の僕なら、三日迷った。
質問には、点がつく。いい質問と、悪い質問。高校の三年間、僕は点になる質問しかしたことがない。今から聞くことには、たぶん、点がつかない。
数で出すな、と二千年前の人に言われた。じゃあ、十七も案を出してしまった人間は、かわりに何を出せばいいのか。
手を挙げた。
隣の林瀬さんは、前を向いたままだった。
「法学部の、大槻です」
名乗る必要はなかった。でも、名乗った。
「これ、何の役に立つんですか」
教室が、少しざわついた。失礼な質問に聞こえたかもしれない。言ってから、自分でもそう聞こえると思った。
先生は、少しだけ考えた。怒らなかった。言い返しもしなかった。
「答えの出ないことを、計算している時間が、少し短くなるくらいには」
それから、少し笑った。
「あとは、僕は楽しいです」
それで、終わりだった。
前のほうで、誰かが小さく笑った。ばかにする笑い方ではなかった。先生はもう、黒板消しを手に取っていた。
答えに、点がついていなかった。
点のついていない答えを、僕は一度も受け取ったことがない。受け取り方も知らない。それなのに、なぜかちゃんと受け取れていた。
答えの出ないことを五週間計算していたのが、ほかでもない僕だったからだと思う。
「前期は、これで終わります。よい夏を」
六時二十三分だった。
教室の椅子が、一斉に鳴り始めた。
黒板の三行目は、消されずに残っていた。先生は一行目と二行目だけを消して、三行目の前で黒板消しを止め、そのまま教壇に置いた。消し忘れたのか、残したのかは、分からない。
隣で、林瀬さんがペンケースのファスナーを閉めた。
林瀬さんの帰り支度は、一分。四月から毎週、隣で見てきた。
僕は、ノートの後ろから二枚目を開いた。まだ何も書いていないページ。
書くことは、もう決まっていた。
「じゃ、よい夏を」
隣で、先生の口まねみたいな声がした。膝を引いた。顔は上げなかった。上げたら、間に合わない。
書いた。一分もかからなかった。
書いてから、いつもの癖で、点をつけようとした。零点から百点まで、頭の中の物差しを当てた。
置き場所が、なかった。
高くも、低くもない。この一行の横に並べると、物差しのほうが急に、何の単位なのか分からなくなった。
顔を上げると、隣の席は空いていた。
林瀬さんは、もう通路を三列ぶん先にいた。リュックの船が、出口のほうへ揺れていた。
ページを破った。端がぎざぎざになった。ていねいに破る時間は、なかった。
「林瀬さん」
思ったより大きな声が出た。教室に残っていた十人くらいが、振り返った。
林瀬さんも、振り返った。
通路を、三列ぶん歩いた。四月から、隣の席より先へ歩いたことはなかった。
「宿題です」
林瀬さんの目が、紙と、僕を、一回ずつ見た。
「……できたの」
「四月に、考えておきます、と言ったので」
紙を差し出した。受け取った林瀬さんの指と、僕の指のあいだには、ぎざぎざの紙が一枚あるだけだった。
林瀬さんは、紙を開いた。
林瀬さんのことが、好きです。
林瀬さんは、読んだ。
一分あれば、林瀬さんは何でも決める。四月から、林瀬さんが一分より長く何かを決めかねているのを、僕は見たことがない。
教室の時計の秒針が、一周。
林瀬さんは、紙を見たまま、何も言わなかった。
十七の案を見られた人間からの、一行だった。見られたあとで渡すには、たぶん、いちばん悪い一行だった。
出口のほうで、最後の何人かが出ていった。最後列の端の席は、もう空いていた。
秒針が、二周目。
林瀬さんは、紙を二つに折った。それから、もう一度開いた。
「大槻くん」
「はい」
「七月二十三日、駅向こうの神社のお祭り。一緒に行こう」
一息だった。何度も読み返した文を、読み上げるみたいだった。
「……二十三日」
「明日だけど。民法の、二日前だけど」
林瀬さんは、まだ紙を見ていた。
「それ、六月に送ったやつ。既読がつく前に、消した。十一日にも、言おうとした」
十一日。学食。二十三日って。土曜ですね。
九番目と、十二番目が、同じ一行になった。
「今度は、口で言ったから。消せない」
「行きます」
一秒もかからなかった。
林瀬さんが、やっと顔を上げた。耳のあたりが、少し赤かった。
「さっき、ノート見えた。九番目、二重線引いてあった」
「……すみません。論理としては、完璧だったので」
「その案の根拠、私だよ」
林瀬さんは、少しだけ笑った。今日、初めて。
「二重線、消しといて。……それと、宿題の返事。私も」
返事、と林瀬さんは言った。
四月から毎週、まだです、と言いに行った宿題に、返事が来た。宿題に返事が来るものだとは、知らなかった。
林瀬さんは、紙を自分のノートに挟んで、右下の隅に、鉛筆で何かを描き足した。
「何描いたんですか」
「教えない。採点基準と一緒」
四月に、同じ答えを聞いた。あのときと同じ、少し得意そうな顔だった。
教室を出たのは、僕たちが最後だった。




