1-3 既読のあとの三時間
週末を越えても、宿題が書けなかった。
土曜は図書館で考えた。日曜は部屋で考えた。月曜は、民法の講義のあいだも考えていた。民法の先生には申し訳ないが、あちらには採点基準がある。
候補はいくつも出た。出るたびに、点がついた。
好きな本の感想。六十点。ありきたり。法学部を選んだ理由。四十点。正直に書くと偏差値の話になる。将来の夢。二十点。そもそも、まだない。
採点されなくても書きたいこと、を探しているのに、出てくるものには全部、僕が点をつけていた。
火曜の夜、九時四十分。林瀬さんにメッセージを送ることにした。文面は三回書き直した。
『宿題について質問です。「採点されなくても書きたいこと」の定義を確認させてください』
送る前に自己採点した。六十二点。硬い。でも質問としては正確だ。
送った。
既読は、一分でついた。
返事は来なかった。
十分。まだ普通。打っている途中かもしれない。
三十分。頭の中で、判定が出た。模試で見慣れた様式で。
返信判定(二十二時十分)
志望 林瀬さんからの返信
判定 C
コメント 一分で決める相手に定義を問う。出題意図の読み違え
一時間。D。コメント追記。そもそも、こちらが誰だか分かっていない可能性。金曜に隣に座った、法学部の、何とかくん。
一時間半。E。
E判定は、三年間で一度も見たことがない。それを、一通の返信で見ている。
二時間。自分の吹き出しを長押しした。メニューが出る。コピー、転送、送信取消。親指が三つ目の上で止まる。取り消せば画面からは消えるが、既読はもうついているから彼女はもう読んでいて、読んだものが急に消えれば、読んだうえに消された、という事実が一つ増えて、その事実はたぶん定義を聞いたことより重くて、重い減点を自分で足すのはどう計算しても損で、損なのに親指は動かなくて、動かないまま、画面の明るさが一段落ちた。
親指を離した。
既読のついたものは、消せなかった。
ノートを開いた。先週の板書の三行が、そこにあった。
あるものは、必要以上にわたしたちを苦しめる。
あるものは、必要になる前に苦しめる。
あるものは、苦しめる必要がまったくないのに苦しめる。
僕は、三つ全部をやっていた。
大きくして、前倒しして、でっち上げている。二千年前の分類に、きれいに収まっていた。収まったところで、何も楽にはならなかった。
laboramus、と先生は言っていた。思いこみのほうで、よけいな残業をさせられている。
戸倉さんの時給で換算すると、ここまでの二時間は二千三百円になる。残業代は出ない。
三時間。三千四百五十円。判定は、Eのまま。
零時四十分、スマホが震えた。
『ごめん、お風呂のあと寝落ちしてた』
三千四百五十円は、E判定ごと、寝落ちの一言で溶けた。
続けて、もう一通来た。
『定義はないよ。でも、ちゃんと考えてくれてるんだね』
考えてくれてる、とあった。
僕が考えていたのは、主に彼女の返信の判定だった。宿題のことは、途中から一行も考えていなかった。それを正直に言うと減点されるので、言わない。
代わりに、返信を打った。
『湯冷めしないでください』
送信して、スマホを伏せた。
自分の文面を採点するのを忘れていたと気づいたのは、電気を消してからだった。
*
四月十五日、金曜日。開始の二十分前に、三〇一教室に着いた。
先週と同じ、中央よりやや後ろの、通路側。宿題の答えは、まだ持っていない。
最後列の端には、今週もあの人がいた。紺のカーディガン。ストップウォッチ。先生はまだ来ていないのに、もう何かを数えている顔をしていた。
隣の椅子が引かれた。
先週は、彼女がいつ座ったのかも気づかなかった。今週は、椅子の音から聞こえた。
近い、と思った。比べる先週がないのに、近いと思った。
椅子の位置を測っておけばよかった。
「宿題、まだです」
先に言った。減点は、先に申告したほうが軽い。
「うん。いいよ」
林瀬さんはリュックを下ろして、ノートを出した。表紙の角に、小さな船が描いてあった。
「決めた。私、隣にする」
「……何をですか」
「席。毎週ここ」
それだけ言って、彼女は前を向いた。
来週までに、と彼女は言った。その来週が今日だ。でも、彼女が毎週隣に座るなら、締切も毎週、隣に座ることになる。
採点基準のない宿題から、締切までなくなってしまった。
毎週、と彼女は言った。蓮沼さんの計算では、その毎週は七十五・五パーセントだ。
抽選の結果は、まだ出ていない。




