1-2 業務だ。完全に業務。
ノートを閉じようとしたところで、隣から声がした。
「林瀬澪。一年。レポートはもう何書くか決めた」
さっき、僕の安心を言い当てた人だった。肩までの髪を耳にかけて、リュックにノートをしまいながら、こちらを見ていた。
「講義終わって一分ですよ」
「一分あれば決まるでしょ」
決まらない。普通は決まらない。少なくとも、僕の知っている世界では。
「大槻です。法学部の一年です」
「知ってる。ノートの表紙に書いてあった。大槻拓」
見られていたらしい。表紙の名前は、自分でもあまり見ない場所だ。
「何にしたんですか、テーマ」
「教えない。採点基準と一緒」
そう言って、彼女は少し得意そうな顔をした。
「大槻くんはさ、二行目でしょ」
「え」
「必要になる前に苦しめる、のとこ。写したあと、ずっと見てた」
見られていたらしい。今日、二回目だ。
講義のあいだ、僕は先生を見ていた。彼女は、先生と、黒板と、たぶん僕の手元を見ていた。一度に見ているものの数が、僕より多い。
「……レポートの点数のことを、少し」
「まだ一文字も書いてないのに?」
「まだ一文字も書いてないからです」
彼女は、今度ははっきり笑った。ばかにする笑い方ではなかった。答案に赤で丸をつけるときみたいな笑い方だった。
閉じかけた彼女のノートが、一瞬だけ見えた。講義のメモは、ほとんどなかった。余白に、船が一艘描いてあった。先生が描いて、すぐに消した船だ。消されるまでの数秒で描いたにしては、先生のよりずっと、ちゃんと船だった。
「一分で決めるの、怖くないですか。あとで外れだったら」
「迷ってるうちに、締切って過ぎるんだよ」
彼女は軽く言った。僕はそれを、即決派の標語のようなものだと思った。
「大槻くん。じゃあさ、来週までに一個だけ決めてきて。テーマじゃなくていいから」
「何をですか」
「採点されなくても書きたいこと」
そんなもの、あるわけがない。
点がつかない答案は、答案ではない。ただの紙だ。
そう答えるつもりだったのに、彼女の目がやけにまっすぐで、僕は「考えておきます」としか言えなかった。
「連絡先。決まったら送って」
彼女はもうスマホを出していた。QRコードが差し出される。迷う時間は、与えられなかった。
「決まらなくても、送っていいけど」
そう言って、彼女は教室を出ていった。振り返らなかった。
考えておきます、は、僕の辞書では保留を意味する。
たぶん、彼女の辞書では約束を意味する。
「今の、見てた」
後ろの席から声がした。眼鏡の、細身の男子学生。
「経済の二年、蓮沼。この講義は二周目。去年単位は取ったから、今年は潜り」
「……潜り」
「正規の履修者じゃないってこと。だから抽選にも関係ない。安全圏から聞いてる」
聞いてもいないことを三つ説明して、彼は立ち上がった。
「灯台行こう。おごるよ。新入生の相談に乗るのが趣味なんだ」
「相談することは、特に」
「あるよ。今、できた」
大学の正門を出て、横断歩道を渡ってすぐ。木の看板に、白いペンキで「灯台」と書いてある。
「東大じゃないほうの灯台」
蓮沼さんは、扉を押しながら言った。たぶん毎回言っている。
店内は、講義帰りの学生で半分ほど。カウンターの奥で、店主らしき男の人が黙ってカップを拭いている。その背中の黒板に、チョークで「新メニュー 近日」。
「あれ、去年の四月からずっと近日」
蓮沼さんが小声で言った。
「近日の定義によりますね」
「いいね、君。そういうとこだよ」
何がそういうとこなのかは、教えてもらえなかった。
注文を取りに来たのは、エプロンをつけた背の高い学生。
「蓮沼、また新入生拾ってきたの」
「戸倉。二年。ここのバイト」
「どうも。ブレンドでいいですか。四百五十円。俺の時給だと二十三分二十八秒です」
なぜ換算したのかは、分からない。秒まで出した理由も。
蓮沼さんは席に着くなり、金曜五限の取扱説明を始めた。
「月見里先生の脱線は、一回の講義で平均五回。そのうち一回は戻ってこない」
「平均、取ってるんですか」
「去年、俺がノートの端で数えた。目分量だけど」
蓮沼さんは、そこで少し声を落とした。
「でも、本気で数えてる人がいる。最後列の人、見た?」
紺のカーディガンの、ストップウォッチの人。
「去年もいた。毎回いる。職員らしい。何を数えてるのかは知らないけど、あれはたぶん、秒まで数えてる」
「監督官じゃないんですか」
「大学の講義に監督官はいないよ」
そうだろうとは思っていた。
ブレンドが来る。戸倉さんはカップを置いて、もう別のテーブルにいる。
「で、さっきの林瀬さん」
蓮沼さんは手帳を開いた。紙の手帳だった。
「定員百二十、登録百三十八。君が抽選に残る確率が百三十八分の百二十。林瀬さんも残る確率を掛けると、二人とも残るのは七十五・五パーセント」
「……はい」
「つまり四回に一回は、再来週にはどっちかがあの教室にいない。最悪のケースを想定しておいた」
「なんで僕が、その想定を必要としてるんですか」
「必要になる前に、苦しんでおくといいよ」
今日の板書の二行目だった。
「それ、今日の板書では悪い例でしたよね」
「去年も聞いた。二周目だから」
蓮沼さんは平然とコーヒーを飲んだ。
宿題の話をすると、通りがかった戸倉さんが言った。
「採点されなくても書きたいこと? 俺ならないな。時給が出ないことはしない」
「ですよね」
初めて、意見の合う人に会えた気がする。
戸倉さんはトレイを抱えて、カウンターへ戻りかけた。奥では店主がやっぱり黙ってカップを拭いていて、黒板の近日は、今日も近日のまま。
戸倉さんが、半分だけ振り返る。
「その宿題で悩む時間も、千百五十円で換算しとくといいよ。けっこう高くつくから」
店を出てから、スマホを見た。トークの一覧の、いちばん上に、林瀬澪、とあった。
何も来ていなかった。何も送っていないのだから、当たり前だった。
*
一時間三十四分五十秒。
ストップウォッチを止めて、数字をタブレットに打ちこむ。開始の四分前から喋り始めて、五十秒超過で終わった。脱線は五回、うち未帰還一回。船は沈んだまま戻ってこなかった。
今日も、いい講義だった。
いや。今のは所感ではない。事実の確認だ。
教務課の職員が金曜五限に通う理由は、出席の実数だ。履修の登録者数と、実際に来ている人数の差。教室の割り当てを申請するとき、必ず聞かれる数字だから。
業務だ。完全に業務。
その業務のついでに、脱線の回数と、名言の出典と、先生が「すみません、長くなりました」と言う回数を記録している。三年目になる。記録は今日で七十一回分。
なぜ記録しているのか、と聞かれたら、答える用意はある。持ちネタと言ってもいい。ただ、話すと長いし、話すと決まって笑われる。
事務室に戻って、抽選の告知文を作った。学生から必ず来る質問は三つある。答えを先に書いて、告知の下に入れておく。問い合わせが来てから答えると、一件あたり十分かかる。登録者は百三十八人いる。
七時前に、十四号館の三階へ上がった。廊下の突き当たりの手前が、月見里先生の研究室だ。扉は開いている。この人はいつも開けている。
「先生、抽選のお知らせの文案です。来週の講義のあとに掲示します」
「はい。ありがとうございます」
先生は読みかけの本を閉じずに顔を上げた。文案を受け取って、一行目で止まった。
「あ、この履修という語なんですけど」
来た。
「履は、履物の履なんですね。もとは、踏む、踏んで行う、という字です。今日、laboramus の話をしましたけど、日本語の労働という語も、定着したのは明治に入ってからで」
先生はそこから五分ほど話した。履修から労働へ、労働から「はたらく」の語源の俗説へ、俗説を言い出した人の話へ。
私は立ったまま聞いた。
推しの脱線を、至近距離で、五分。客席ではなく、ほぼ楽屋。しかも、講義で黒板の端に置いていった一語を、講義の外でわざわざ拾い直しに行くあの型は年に数回しか出なくて、つまりこれは本編に入りきらなかった続きの特典映像で、特典映像は本来、円盤を買った人のもので、私は文案を届けに来ただけの運搬係で――
心の中で正座した。顔は、教務課のままにした。三年目にもなれば、それくらいはできる。
先生は最後まで話して、そこで止まった。話が終わったからではなく、終わらないことに気づいたからだった。
「すみません、長くなりました」
「いえ」
本日二回目。講義内で一回、講義外で一回。
「あ、それと」
先生は文案のいちばん下を、指でとんと叩いた。
「よくある質問、先に答えてあるんですね。去年、僕のところにまで同じ質問が来たので。助かります」
「業務ですので」
推しに、業務を褒められた。
業務なので、問題はない。顔も、業務のままだった。たぶん。
ただし、講義外の分は記録しない。今の一言も、含めて。
記録の対象は、公開されている講義の中身だけ。研究室も、廊下も、講義のあとの先生も、対象外。それが私の規約で、七十一回、一度も破っていない。先生の私生活に踏みこんだ時点で、それは推し活ではなく、ただの事案になる。事務職員として、事案は作らない。
「では、抽選の件、よろしくお願いします」
「はい。失礼します」
階段を下りながら、私はさっきの五分を記録しなかった。
規約どおりだ。
ただ、規約には、覚えてしまった分の扱いが書いていない。
*
四月八日(金) 金曜五限・第七十一回
看板:セネカ「我々は現実より想像で多く苦しむ」(前半つき)
出席実数:百三十二(着席百二十、立ち見・床座り十二)
脱線:五回(うち未帰還一回。船に金を貸す話)
最長脱線:十一分二十秒(同上。帰港せず)
開始前の脱線:四分(出さなかった手紙)
シラバスを教室で二度見していた新入生:確認できた範囲で十九
名言が効いたと思われる学生:一名(中央やや後ろ、通路側。板書の二行目を写したあと、ペンが止まっていた)
所感:




