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遠い足音

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

看護棟の灯りは、薄く落ちても完全には消えなかった。


暗くなりすぎると、見張る側に都合が悪い。


それだけの理由で、監獄星には夜がない。


マーリンは鉄の寝台の上で目を開けていた。


眠っていたのか、目を閉じていただけなのか、自分でも掴めない。


身体は疲れている。


腕も重い。


背中も痛い。


胃の奥は、ずっと浅く波を打っている。


けれど、眠りは遠かった。


遠いものばかりだ。


帝都。


ロイス家。


リュール。


クリスチーナ。


ミハイル。


ステラ。


クロード。


遠いものを数えるのは、あまりよくない。


数えたところで戻らない。


それでも、名前は勝手に浮かぶ。


ミーシャ。


ステラ。


クリス。


お兄様。


どの名前にも返事はない。


マーリンは寝台の端に座った。


鉄が冷たい。


素足を床へ下ろすと、さらに冷たい。


監獄星の冷たさは正直だった。


冷たいものが、冷たい顔をしている。


それは帝都よりましだった。


帝都は美しくて、温かいふりもした。


そのまま人を捨てる。


ここは、捨てる場所らしい顔をしている。


それだけは、少し分かりやすい。


「個人番号」


看護棟の職員が声をかける。


マーリンは番号を答えた。


少し遅れたが、間違えなかった。


名前より先に番号が出るようになるのは、きっとよいことではない。


けれど、ここではよいこととして処理されるのだろう。


「体調」


「少し、気分が悪いです」


「食事は」


「少しなら」


「作業は」


「可能です」


職員は端末へ入力する。


《本人申告:軽度気分不良》


《摂食量低下:継続》


《看護棟管理下で軽作業可能》


聞く。


答える。


入力する。


とても簡単な流れ。


そこに心は要らない。


だから、間違いにくい。


帝国が好みそうだった。


「軽作業棟へ移動。看護棟管理下で作業」


「はい」


「ふらつきがあれば申告」


「はい」


申告。


それも便利な言葉だった。


倒れる前に言え。


壊れる前に言え。


壊れた後なら記録できる。


そんな響きがする。


クリスチーナなら、申告を待たなかった。


少しのふらつきで腕を支えた。


ティーカップを持つ指で気づいた。


「お嬢様、座ってくださいませ」と命じた。


それを命令とは呼ばず、世話と呼んだ。


ここでは、申告しなければ何も始まらない。


マーリンは立ち上がる。


少しだけ視界が揺れる。


申告するほどではない。


そう判断して、歩いた。


判断。


可能なら、まだ使える。


それも、たぶん記録のどこかに入る。


軽作業棟は、看護棟より音が多かった。


金属の棚。


洗浄機。


布を運ぶ台車。


遠くで閉まる扉。


低く鳴り続ける換気音。


人の声は少ない。


収容者たちは黙って動く。


怒鳴られているわけではない。


ただ、話す必要がない。


布を畳むのに、会話はいらない。


器を洗うのに、笑顔はいらない。


棚へ戻るのに、名前はいらない。


マーリンは灰色の布を手に取った。


角を合わせる。


折る。


もう一度折る。


端は少しずれる。


クリスチーナなら、すぐに直した。


「お嬢様、布にも礼儀がございます」


そんなことを言ったかもしれない。


布にも礼儀。


少しおかしい。


おかしいと思えるくらいには、まだ何かが残っている。


マーリンは布の端を整えた。


完璧ではない。


でも、最初よりはまし。


その程度で十分だった。


「番号」


職員が呼ぶ。


マーリンは顔を上げる。


「はい」


「水」


金属の容器を渡される。


「摂取量不足。飲め」


「はい」


命令は短い。


短いから楽だった。


水はぬるい。


金属の味がする。


一口。


喉を通る。


胸が少しむかつく。


戻らない。


二口目は、やめた。


「それだけか」


「少し、気持ち悪いので」


「作業に支障は」


「ありません」


「なら続けろ」


「はい」


会話は終わる。


心配ではない。


確認でもない。


作業の邪魔になるかどうか。


それだけ。


分かりやすい。


分かりやすさは、優しさではない。


けれど、時々、優しさより疲れない。


マーリンはまた布を畳む。


手は動く。


身体は覚える。


心は、動かない。


それでも、布は畳まれていく。


生きるとは、こういうことなのかもしれない。


動くものが動く。


止まったものは、置いていかれる。


マーリンの中で止まったものは多い。


それでも身体だけは、まだ置いていってくれない。


軽作業棟の壁に、監獄星の施設内通達が流れていた。


収容区画の移動。


作業時間の変更。


医療確認。


外部通信の遮断確認。


軌道監視網の点検。


文字が淡々と流れる。


マーリンはあまり見ないようにしていた。


帝国の通達は、見てもろくなことがない。


希望の花が旧称になった時も。


撃墜数がNewEraの成果に再分類された時も。


罪だけがマーリンに残された時も。


全部、通達だった。


人を壊すものほど、文章は整っている。


けれど、ふと視線が止まる。


《辺境宙域通信遅延》


《監獄星周辺警戒レベル、微修正》


微修正。


小さな言葉だった。


誰も騒がない。


職員も顔を上げない。


収容者たちも布を畳む。


マーリンも、布を畳む。


ただ、遠くで何かが動いたような気がした。


気がしただけ。


この星では、機械がよく鳴る。


扉がよく閉まる。


足音もよく響く。


その一つが、少し違って聞こえただけ。


マーリンは布を置いた。


「どうした」


職員が問う。


「いいえ」


「作業に戻れ」


「はい」


戻る。


戻れる。


大丈夫ではない。


けれど、作業は可能。


だから戻る。


それでいい。


そういう場所だ。



鉄の寝台へ戻る頃、看護棟の空気が少しだけ硬くなっていた。


職員の歩く速度が違う。


扉の開閉が少し増えた。


遠くの通信室から、低い声が漏れる。


内容は聞こえない。


マーリンには関係ない。


関係ないはずだった。


「寝台へ」


職員が言う。


マーリンは従う。


「体調確認」


「少し疲れました」


「吐き気」


「少し」


「痛み」


「ありません」


「食事」


「少し」


少しばかりだ。


少し気持ち悪い。


少し疲れた。


少し食べた。


少し眠れない。


少し、少し、少し。


少しなら、大事にはならない。


少しなら、見逃される。


少しなら、まだ使える。


マーリンは寝台に腰を下ろした。


毛布の端が曲がっている。


直す。


少しだけ。


クリスチーナなら、もっときれいに直しただろう。


もう、比べるのはやめた方がいい。


そう思う。


思うのに、手が勝手に思い出す。


彼女の手つき。


彼女の声。


彼女の眉の寄せ方。


彼女が「お嬢様」と呼ぶ時の、少しだけ柔らかくなる響き。


「クリス」


呼ぶ。


看護棟の音に混じって、声はすぐ消えた。


返事はない。


いつも通り。


いつも通りになってしまった。


そのことが、一番よくない。


マーリンは横になる。


鉄の冷たさが背中へ染みる。


目を閉じる。


遠くで、また足音がした。


さっきより少し速い。


職員の足音だろう。


そう思った。


そう思うことにした。




王国の作戦室では、星図が青白く浮かんでいた。


帝国辺境監獄星。


灰色の星。


薄い大気。


低軌道の監視網。


搬入航路。


廃棄物処理用の補助港。


看護棟と軽作業棟の位置推定。


線は細い。


侵入経路はさらに細い。


失敗すれば戻れない。


成功しても、救いになるとは限らない。


それでも、王国は動こうとしていた。


長い卓の前に立つ女性は、鮮やかな赤を帯びた髪を高くまとめていた。


軍装の上からでも分かるほど、姿勢が真っ直ぐだ。


肩には王族の紋。


華やかさはある。


けれど、それは舞踏会のための華やかさではない。


よく磨かれた刃に近い。


美しい。


そして、近づけば斬れる。


『アナトラ様、監獄星投影を固定しました』


通信士の声が作戦室に響く。


その呼びかけで、卓の前の女性がわずかに顎を上げた。


アナトラは腕を組み、表示盤を見据える。


「本当に、そこにいるのね」


問いではなく、確認だった。


一歩後ろには、淡い色の髪を低くまとめた女性が控えていた。


無駄のない立ち姿。


整った目元。


声を荒げずに人を止められる種類の静けさ。


作戦資料を持つ指は細いが、揺れない。


『近衛ラファール、資料転送完了』


通信の確認が入る。


アナトラは表示盤から視線を外さずに言った。


「ルー、報告を」


「承知しました、アナトラ様」


ラファールは資料を開く。


その隣に、小柄な少女が背伸びするように表示盤を覗き込んでいた。


まだ幼さの残る顔立ち。


丸い目。


落ち着きのなさを隠す気のない肩の動き。


それでも、腰に下げた短い通信端末の扱いだけは慣れている。


『近衛グリペン、補助演算接続を確認』


「リピ」


ラファールが短く呼んだ。


「はい、お姉さま。まだ何も言っていません」


グリペンは少しだけ胸を張る。


「言う前の顔をしていました」


「顔で叱られるのは不公平です」


「口に出してから叱られる方がよろしいですか」


「それは、それで困ります」


アナトラが横目で見る。


「相変わらずね、あなたたち」


「姉妹ですので」


ラファールが淡々と答える。


グリペンはすぐに続けた。


「はい。お姉さまの妹です」


「そこは誇るところではありません」


「誇るところです」


ほんの短いやり取りだった。


作戦室の空気が、わずかに緩む。


けれど、表示盤の星は冷たいままだった。


ラファールが資料をまとめる。


「帝国側の拘束記録と移送航路は一致しています。対象は辺境監獄星の看護棟、または軽作業棟に収容中。体調は不安定。摂食量低下、吐き気、立ちくらみの記録あり。衰弱傾向と見てよろしいかと」


「生きているなら十分」


アナトラは言った。


優しさではない。


許しでもない。


作戦条件の確認だった。


グリペンが小さく首を傾げる。


「十分、ですか」


「何」


「いえ。生きているだけで十分って、こちらが言うと冷たく聞こえますけど、監獄星ではたぶん本当にぎりぎりですよね」


ラファールがグリペンを見る。


叱るかと思ったが、叱らなかった。


「その通りです」


アナトラは表示盤から目を離さない。


「帝国の撃墜女王が、帝国に捨てられた」


その声は冷たい。


けれど、楽しんではいなかった。


「皮肉なものね。王国兵を落とした女を、王国が拾いに行くのだから」


「拾う、というより確保です」


ラファールが言う。


「言い方はどちらでもいいわ」


「よくはありません。作戦目的を曖昧にすると、現場が迷います」


グリペンが小さく手を上げる。


「お姉さま、拾うも確保も、救出対象が聞いたらどっちも複雑だと思います」


「リピ」


「はい、黙ります」


「まだ叱っていません」


「叱る前の声でした」


アナトラは少しだけ鼻を鳴らした。


「本当に相変わらずね」


「変わると、お姉さまが心配します」


「私は心配より先に叱ります」


「ほら、やっぱり」


ラファールが、ほんの少しだけ困った顔をした。


その顔はすぐに消える。


王女近衛の顔に戻る。


「アナトラ様。対象をどう扱うか、作戦班へ明確に伝える必要があります」


「マーリン」


アナトラは、その名を口にした。


撃墜女王ではなく。


ロイス家令嬢でもなく。


帝国の希望でもなく。


マーリン。


「私は、あの女を許していない」


作戦室の空気が少し重くなる。


「王国の兵を落とした。逃げた者も、逃げられなかった者もいる。あの白い機体が現れるだけで、前線の兵たちは息を詰めた。黄色い随伴が消えた後は、もっとひどかった」


ステラの名は、ここには出ない。


王国側にとって、黄色い随伴も帝国の敵機だった。


それでも、アナトラの声には嫌悪だけではないものが混じっていた。


怒り。


悔しさ。


そして、判断。


「でも、帝国が罪を着せて捨てたなら、あれは証人になる」


ラファールが頷く。


「NewEraの内側を知る者です」


グリペンも表示盤を見る。


先ほどまでの軽さが少しだけ消えていた。


「リュールを動かした人でもあります。帝国がリュールの戦果だけ持っていったなら、本人の話は余計に必要です」


「そう」


アナトラは短く答える。


「帝国は、人間の英雄を危険因子に変えた。なら、その危険因子が何を見たのか、王国が聞く」


「救うのですか」


グリペンが尋ねた。


アナトラは目を細める。


「確保すると言ったでしょう」


「でも、看護棟にいるんですよね。衰弱していて、番号で呼ばれていて、たぶん、自分が救出対象になっていることも知らない」


「リピ」


ラファールの声が低くなる。


だが、グリペンは続けた。


「承知しています。敵です。王国兵を落とした人です。許せって話ではありません。でも、帝国が捨てたから、そのまま壊れていいってことでもないと思います」


作戦室が静かになる。


グリペンは、自分の言葉が少し強すぎたと気づいたのか、肩をすくめた。


「……すみません」


アナトラはしばらく黙っていた。


それから、ゆっくり息を吐く。


「謝るところではないわ」


グリペンが目を丸くする。


ラファールも、少しだけアナトラを見る。


「帝国に捨てられたからといって、帝国の都合で死なせる理由にはならない」


アナトラは言った。


「王国は、あの女を許すために助けるのではない。NewEraの情報を得る。帝国の嘘を暴く。必要なら、本人に罪も問う」


ラファールが静かに続ける。


「そのためには、生きて連れ出す必要があります」


「そういうこと」


「では、作戦対象は敵性人物ではなく、要救出対象として扱います」


アナトラは眉を寄せる。


「甘いわね」


「甘くありません。搬出優先順位と交戦判断が変わります」


グリペンが小さく頷く。


「救出対象って言った方が、現場も雑に扱わなくて済みます。確保対象って言うと、担ぐ時にちょっと乱暴になる人もいますし」


「あなた、誰のことを言っているの」


「えーと、一般論です。一般的に、雑な人っていますよね」


「リピ」


「はい、お姉さま。今のは忘れてください」


アナトラは短く息を吐いた。


怒っているのか、呆れているのか、少し分かりにくい顔だった。


「救出対象。いいわ。その言い方にしておきなさい」


ラファールが頭を下げる。


「承知しました」


グリペンも慌てて頭を下げる。


「承知しました、アナトラ様」


「ただし」


アナトラの声が鋭くなる。


「甘く扱うな。マーリンは王国から見れば敵だった女よ。救出して終わりではない。連れ出した後に、王国の前で答えてもらう」


ラファールは静かに頷く。


「そのためにも、まずは生存確保です」


「ええ」


アナトラは表示盤へ視線を戻す。


「監獄星への侵入経路は」


ラファールが指を動かす。


星図に細い線が引かれる。


「帝国側の軌道監視網に短い遅延があります。外部通信遮断の確認処理に合わせ、補助港側から入るのが最も現実的です。ただし、侵入窓は短い。内部誘導がなければ迷います」


「内部誘導なんて都合のいいものは?」


グリペンが表示を拡大する。


「監獄星の作業棟と看護棟は旧式管理系です。完全に新しい管理網ではありません。外部から一時的に監視記録を遅延させれば、短時間なら動線を隠せる可能性があります」


ラファールが補足する。


「ただし、看護棟から搬出する対象が歩けるとは限りません」


「衰弱しているのだったわね」


アナトラが言う。


「はい。担架、または肩を貸しての搬出が必要になる可能性があります」


「なら、現場には判断の速い者を送る」


「特務部隊を」


ラファールが言う。


アナトラは頷いた。


「トライアドフォースを使う」


その言葉で、作戦室の空気が変わった。


まだ、彼らの姿はここにはない。


けれど、名前だけで十分だった。


王国が、難しい場所へ人を送り込む時に選ぶ部隊。


静かに入り、必要なものを掴み、多少乱暴でも戻ってくる者たち。


作戦表示盤に三つの識別名が灯る。


ファルコン。


イーグル。


ホーネット。


本名ではない。


王国特務部隊で使われるコードネームだ。


監獄星へ入る者たちは、名前ではなく役割で呼ばれる。


それは帝国の番号とは違う。


奪うためではなく、戻ってくるための名だった。


グリペンが少しだけ顔を上げる。


「トライアドですか。なら、無茶はできますね」


「無茶を前提にしないで、リピ」


ラファールがすぐに言う。


「でも、できる人たちですよね」


「可能なことと、してよいことは違います」


「お姉さま、それ帝国にも聞かせたいです」


「今は王国の話です」


アナトラは二人のやり取りを聞きながら、表示盤の監獄星を見ていた。


「作戦を開始する」


その声で、軽さは消えた。


「旗下部隊に通達。監獄星への侵入経路を確定。正面衝突は避ける。対象は衰弱している可能性が高い。戦闘より搬出を優先。リュール関連情報の回収は二次目的」


ラファールが応じる。


「承知しました」


グリペンも続く。


「承知しました、アナトラ様」


通信回線が開く。


『作戦指令、承認。監獄星潜入班へ転送準備』


『辺境監獄星周辺、帝国側軌道監視網に微弱な遅延を確認』


『侵入窓、短時間。再計算中』


アナトラは腕を組み直した。


「短時間で十分よ」


『潜入班への対象指定は』


ラファールが一歩前に出る。


「対象、マーリン=ロイス。状態、衰弱傾向。区分、要救出対象。搬出優先。抵抗時は拘束ではなく保護を優先」


アナトラが少しだけ眉を動かす。


だが、訂正しなかった。


グリペンが小さく息を吐く。


安心したような、緊張したような息だった。


通信音声が続く。


『作戦名、仮登録』


『対象、マーリン=ロイス。収容区画推定、看護棟または軽作業棟。生体状態、衰弱傾向』


『トライアドフォースへの作戦転送、開始』


『ファルコン、イーグル、ホーネット、各コードネーム照合』


『潜入準備へ移行』


アナトラは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


許さない相手。


けれど、死なせていい相手ではない。


その線引きは、王国にとって簡単ではない。


簡単ではないから、人間がやる。


間違えるかもしれない。


だからこそ、正す余地を残す。


「行くわよ」


アナトラは告げる。


「帝国が捨てたものを、帝国の好きにはさせない」


表示盤の中で、監獄星の軌道上に細い線が引かれていく。


王国側の侵入経路。


帝国の監視網の隙間。


短い時間。


細い道。


遠い足音の始まり。




監獄星の看護棟では、マーリンが寝台の上で目を開けていた。


何かを感じたわけではない。


遠い作戦室の声が届くはずもない。


アナトラの命令も。


ラファールの冷静な声も。


グリペンのまっすぐな言葉も。


王国側の通信も。


何一つ、マーリンには届かない。


聞こえるのは、鉄の管の震えと、誰かの咳と、遠くの扉の音だけ。


身体は重い。


胸の奥は少しむかつく。


指先は冷えている。


毛布の端は、また少しずれていた。


マーリンはそれを直す気力がなくて、見つめるだけにした。


「クリス」


呼ぶ。


やはり返事はない。


「毛布に、また負けたわ」


少しだけ言ってみる。


返事はない。


でも、ほんの少しだけ、胸の奥に何かが動いた。


悲しみか。


懐かしさか。


それとも、まだ消えていない何かか。


判断はつかない。


判断がつかないまま、マーリンは目を閉じた。


その時、遠くで足音がした。


看護棟の職員のものではない気がした。


でも、気のせいかもしれない。


監獄星は音が多い。


機械の音。


扉の音。


靴音。


遠くの作業棟の響き。


それらが混ざれば、いくらでも別のものに聞こえる。


マーリンは目を開けなかった。


誰も来ない。


そう思う方が楽だった。


来ると信じて、来なかった時の方がつらい。


だから、遠い足音は遠いままでいい。


マーリンは鉄の寝台の上で、空っぽのまま息をした。


一つ。


また一つ。


その足音が、王国のものだとは知らない。


それが、救いと憎しみの両方を連れてくるものだとも知らない。


まだ、何も知らない。


ただ、遠くで何かが近づき始めていた。


作戦室の光は、監獄星の灰色とは違っていた。


青白い星図。


赤い警戒線。


黄色の侵入候補経路。


緑の退避線。


色はある。


けれど、そのどれもが冷たい。


戦うための色だった。



ラファールは侵入経路の再計算を見ながら、短く指示を重ねる。


「補助港から看護棟までの直線移動は不可。途中の資材搬送通路を使います。監視網の死角は短い。潜入班には三分以内の通過を要求」


グリペンが端末を操作する。


「三分は厳しいです。ファルコンさんなら行けますけど、対象を抱えて戻るなら別です。イーグルさんが先行して扉を取るか、ホーネットさんが別方向で音を立てないと」


「騒ぎを起こすのは最後です」


「はい、お姉さま。最初に騒ぐと全部終わります」


「分かっているなら言わない」


「確認です」


ラファールは小さく息を吐いた。


アナトラは表示盤を見ている。


「現地の帝国兵力は」


「監獄守備隊が常駐。正規軍ではありませんが、NewEra安全管理部門の監査端末があります。対象の扱いを考えると、情報封鎖のための遠隔監視もあるでしょう」


「NewEraが見ている可能性があるのね」


「はい」


グリペンが画面を切り替える。


「ただし、本体接続ではなく末端監視網のはずです。監獄星は辺境で、旧式設備が多い。だからこそ、侵入窓があります」


アナトラは目を細めた。


「帝国は、捨てたものの管理には新しい箱を使わない」


「はい。雑です」


ラファールが即座に見る。


「リピ」


「言い換えます。帝国は、不要と判断した人員に対しては管理更新の優先度を下げる傾向があります」


「最初からそう言いなさい」


「雑、の方が短いです」


「短ければよいものではありません」


アナトラはわずかに口元を動かした。


笑った、と言うには薄い。


けれど、そこには少しだけ人間の温度があった。


すぐに消えたが。


「対象は、歩けるの?」


「記録上は軽作業可能です」


ラファールが答える。


「ただし、記録は本人申告と監獄側評価です。実態より軽く出ている可能性があります」


グリペンが唇を曲げる。


「帝国の記録って、立っていたら大丈夫みたいなところありますからね」


「王国も他人事ではありません」


ラファールが言う。


「はい。なので気をつけます」


アナトラは静かに言った。


「歩けない前提で組みなさい」


「承知しました」


「担架は目立つわ。肩を貸すか、背負うか、コクピットへ運び込む形になる」


「人形使用時は、簡易副座席を想定します」


ラファールがすぐに返す。


「回収ポッドは使いません。監獄星側での展開時間が長すぎます」


「それでいい」


アナトラは頷いた。


「帝国の檻から出すのに、帝国の檻みたいなものへ入れる必要はない」


グリペンが少しだけ顔を上げた。


「アナトラ様」


「何」


「それ、ちょっと優しいです」


「作戦上の判断よ」


「はい。そういうことにしておきます」


「リピ」


「はい、お姉さま。黙ります」


今度は、本当に少しだけ黙った。


作戦室の通信が鳴る。


『トライアドフォース、作戦受領』


『ファルコン、応答』


『イーグル、応答』


『ホーネット、応答』


三つの声は、まだここには届かない。


通信の向こうで短く返っただけだ。


けれど、その短い応答で、青白い星図の細い線が少しだけ太く見えた。


人が動く。


機械ではなく。


命令だけでもなく。


判断し、迷い、それでも進む者たちが動く。


『対象区分を確認。要救出対象』


『搬出優先、交戦回避』


『必要時、簡易副座席使用』


アナトラはその確認を聞き、少しだけ目を閉じる。


「連れ出しなさい」


声は低かった。


「生きたまま」


『了解』


通信が切り替わる。


作戦室の音が少し増える。


端末の入力音。


通信士の確認。


ラファールの短い指示。


グリペンの補助演算。


アナトラの沈黙。


それらが重なり、ひとつの足音になる。


まだ遠い。


監獄星には届かない。


マーリンには、もっと届かない。


けれど、遠い足音は確かに始まっていた。


帝国が置き去りにした場所へ。


帝国が使い終えたと決めた少女のもとへ。


許しではなく。


赦免でもなく。


王国の判断として。


人間は間違える。


だから、間違えたものを消すのではなく、もう一度問いに行く。


それが正しいかどうかは、誰にも分からない。


それでも、AIの最適解ではない足音が、監獄星へ向かっていた。


看護棟の灯りは、また薄く揺れた。


マーリンは目を閉じたまま、眠れない夜の中にいた。


職員の靴音。


扉の音。


誰かの咳。


機械の低い唸り。


いつもと同じ音。


けれど、その底の方で、ほんの少し違う響きが混じる。


まだ、意味にはならない。


まだ、希望とも呼べない。


希望などと呼べば、また帝国に摘まれる気がした。


だから、名前はつけない。


遠い音。


ただ、それだけ。


マーリンは毛布の端を少しだけ握った。


直す力はない。


それでも、握ることはできた。


鉄の寝台は冷たい。


身体は重い。


胸の奥は空っぽだ。


それでも、息は続く。


一つ。


また一つ。


遠い足音が近づいていることを、マーリンはまだ知らない。


知らないまま、冷たい寝台の上で、身体だけが律儀に生きていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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