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鉄の寝台

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

鉄の寝台は、思ったより冷たかった。


冷たい。


とても冷たい。


布団はある。


薄い毛布もある。


枕も、一応ある。


けれど、身体の下にあるものが鉄だと、柔らかいものはすぐ負ける。


マーリンは仰向けになったまま、天井を見ていた。


看護棟の天井は低い。


ロイス家の部屋の天井は高かった。


学園の寮の天井も、軍艦の士官区画も、それなりに高かった。


リュールのコクピットには天井というより、丸い世界があった。


ここには、低い天井だけがある。


白ではない。


灰色。


少し黄ばんだ灰色。


そこに細い管が走り、時々、小さく震える。


暖房か。


換気か。


薬剤の供給か。


判断がつかない。


判断がつかなくても、問題ない。


ここで知る必要のあることは、あまり多くなかった。


起きる。


水を飲む。


診察を受ける。


食べられる分だけ食べる。


眠る。


眠れなくても横になる。


それだけ。


とても簡単だ。


簡単すぎて、どこにもマーリンがいない。


「個人番号」


看護棟の職員が、寝台の横で言う。


マーリンは番号を答える。


少し遅れた。


まだ、名前より先に番号が出てこない。


職員は端末を見る。


「氏名」


「マーリン=ロイス」


「体調は」


「少し、気分が悪いです」


大丈夫とは言わなかった。


言っても、誰も信じないのではない。


言っても、誰も疑わないから。


それが一番困る。


職員は端末に入力する。


《吐き気:軽度》


《食欲低下:継続》


《移送負荷および拘束環境によるものとして経過観察》


軽度。


経過観察。


便利な言葉だった。


胸の奥のむかつきも、食べ物の匂いを避けたい感じも、立ち上がる時に少し視界が揺れることも、全部その中へ入る。


箱があると、人は安心する。


マーリンも箱へ入れられている。


少し気分が悪い収容者。


経過観察中。


それで終わり。


「食事は取れますか」


「少しなら」


「少し、とは」


「一口か、二口」


職員は入力する。


《摂取量不足》


《看護棟観察継続》


観察。


見られている。


けれど、見てもらってはいない。


クリスチーナの目とは違う。


クリスチーナは、ティーカップの傾きで気づいた。


息の浅さで気づいた。


指の冷たさで気づいた。


「大丈夫」の前に入る小さな間で気づいた。


ここでは、数字になる。


摂取量。


体温。


脈拍。


歩行状態。


睡眠時間。


作業適性。


どれも必要なのだろう。


必要ではある。


けれど、数字は髪を整えてくれない。


「診察後、軽作業棟への適性判定を行います」


「働けるかどうか、ですか」


「はい」


「働けるなら、働くのですね」


「収容者は可能な範囲で作業に従事します」


可能な範囲。


また、それだった。


可能なら使う。


動けるなら動かす。


役に立つなら残す。


帝国は、どこへ行っても帝国だった。


マーリンは小さく頷いた。


「承知しました」


理解はしていない。


納得もしていない。


でも、承知した。


そう答えるのは、もう得意だった。



看護棟の食事は、温かくなかった。


冷たいわけではない。


ただ、温かいと言うには遠い。


薄い粥のようなもの。


小さな塩気のある塊。


水。


匂いは弱い。


弱いのに、喉が受け付けない。


マーリンは器を手に取り、少しだけ口へ運んだ。


一口。


飲み込む。


胸がむかつく。


戻りそうになる。


戻らない。


よくできました。


頭の中で、誰かの声がした。


クリスチーナの声ではない。


クリスチーナなら、そんなに甘くない。


「一口では足りません。もう一口でございます」


そう言う。


少し厳しく。


少し泣きそうに。


そして結局、器を持つ手を支えてくれる。


マーリンは、もう一口だけ食べた。


誰も褒めない。


誰も叱らない。


それでも、身体は食べ物を受け取った。


不思議だった。


心は何も受け取れないのに、身体だけはまだ、必要なものを必要とする。


眠る。


食べる。


水を飲む。


寒ければ震える。


痛ければ顔をしかめる。


身体は正直だ。


マーリンより、ずっと。


「お嬢様は嘘がお上手でいらっしゃいますから」


そんな声がした気がした。


マーリンは器を置く。


「クリス」


小さく呼ぶ。


返事はない。


看護棟には、他の収容者の咳がある。


寝台の軋みがある。


遠くで誰かがうめく声がある。


足音がある。


けれど、マーリンの名前を呼ぶ声はない。


お嬢様、と呼ぶ声もない。


マーリン様、と呼ぶ明るい声も。


マーリン、と呼ぶ優しい声も。


何もない。


あるのは、番号だけ。


番号は便利だ。


呼ぶ人が誰でも同じになる。


同じになるということは、誰の声でもなくなるということだった。



診察室は、看護棟の奥にあった。


部屋というより、仕切られた区画。


簡易寝台。


端末。


計測器。


消毒液。


マーリンは椅子に座り、手首を出した。


脈を測られる。


体温を測られる。


瞳孔を確認される。


「睡眠は」


「浅いです」


「悪夢は」


「見ません」


夢を見るほど眠れていない。


そう言おうとして、やめた。


説明すると、長くなる。


長くなると、疲れる。


疲れても、休みにはならない。


「痛みは」


「ありません」


「吐き気は」


「少し」


「食事量は不足。立ちくらみは」


「時々」


言ってから、マーリンは少しだけ不思議な気持ちになった。


ちゃんと言えた。


大丈夫でも、ありませんでもなく。


症状だけ。


身体のことだけなら、まだ言える。


心のことは言えない。


だが身体は、言葉にしやすい。


吐き気。


立ちくらみ。


食欲低下。


睡眠不足。


心の方は難しい。


空っぽ。


名前が遠い。


呼ばれない。


誰もいない。


そんなものは、診察項目にない。


「魔力干渉制限具による異常は」


「糸が遠い感じがします」


医療担当は少しだけ手を止めた。


「糸」


「魔力の糸です」


「リュールとのリンク感覚ですか」


リュール。


その名前を他人の口から聞くと、胸が小さく痛む。


「はい」


「現在、同機への接続権限はありません。感覚残存として記録します」


感覚残存。


また、新しい箱。


リュールへ伸びようとする手の残り香も、箱へ入った。


「労働棟への即時移行は見送り。看護棟で軽作業を行い、経過を見ます」


「ここで働くのですか」


「はい。寝具整理、器具洗浄、布類の仕分け。身体状況に応じて」


寝具整理。


器具洗浄。


布類の仕分け。


マーリンは瞬きをした。


リュールで敵機を斬った手。


白いスラスターの負荷に耐えた身体。


撃墜数を数えられた少女。


その身体が、布を畳む。


おかしいような。


当然のような。


どちらなのか掴めなかった。


「可能ですか」


医療担当が尋ねる。


マーリンは少し考えた。


ロイス家の令嬢としては、やらなくていいことだった。


でも、マーリン自身は、昔から手を動かすのが嫌いではなかった。


「可能です」


答える。


医療担当は端末へ入力する。


《軽作業:可能》


また、可能。


マーリンは、自分の身体がまだ使えるものとして分類されるのを、どこか遠くで見ていた。


看護棟の軽作業は、思ったより静かだった。


布を畳む。


使用済みの器を洗浄区画へ運ぶ。


空の水差しを集める。


寝台の毛布を整える。


それだけ。


簡単だ。


簡単なのに、身体はすぐに疲れた。


魔力の負荷とは違う。


戦場の急加速とも違う。


リュールの過同期とも違う。


もっと地味で、もっと現実的な疲れ。


腰が重い。


腕がだるい。


立っていると少しふらつく。


胃の奥が静かに波を打つ。


マーリンは布を畳みながら、何度か手を止めた。


休んでいいのか分からない。


聞けばいい。


でも、聞くことすら面倒だった。


「そこまででいい」


近くの職員が言った。


マーリンは顔を上げる。


「はい」


「顔色が悪い。座れ」


命令だった。


配慮ではない。


けれど、座っていいと言われた。


マーリンは椅子に腰を下ろす。


木ではなく、金属の椅子。


冷たい。


座ると、少しだけ楽になる。


楽になったことが、悔しい。


身体は素直だ。


空っぽでも、座れば楽になる。


「水を飲め」


「はい」


水を飲む。


金属の味。


もう慣れた。


慣れたくないものに、人はわりとすぐ慣れる。


それも悔しい。


布の山を見る。


白い布ではない。


灰色に近い。


何度も洗われて、薄くなった布。


マーリンは一枚を手に取る。


角を合わせる。


折る。


もう一度折る。


クリスチーナの手つきには程遠い。


彼女なら、もっと美しく畳んだ。


端をぴたりと揃えて、最後に軽く撫でる。


「形を整えると、心も少し落ち着きます」


そう言ったことがあった。


その時のマーリンは笑った。


「では、私の心も畳んでくれる?」


たぶん、そんな軽口を返した。


クリスチーナは困った顔をした。


「お嬢様の心は、畳まずに広げておく方がよろしいかと」


今なら見える。


広げておく場所が、もうない。


マーリンは布を畳む。


心ではなく、布だけ。


布は素直だった。


折れば折れる。


整えれば整う。


人間より、ずっと扱いやすい。



看護棟の端に、小さな洗浄区画があった。


湯ではない。


少し温い水。


そこで器を洗う。


手首の制限具は外されない。


水に濡れないように、薄い防水帯が巻かれるだけ。


マーリンは器を一つずつ洗った。


汚れは少ない。


食べ残しが多いからだ。


自分の皿と似ている。


食べられなかったものは、こうして流される。


理由は流れない。


ただ、残飯として処理される。


「お嬢様、食べられない理由をおっしゃってください」


クリスチーナなら、そう言う。


きっと言う。


けれど、ここでは理由はいらない。


残ったか。


残らなかったか。


それだけ。


器の縁で指を少し擦った。


小さな痛み。


血は出ていない。


出ていても、たぶん小さい。


マーリンは指を見た。


白い指だった。


剣を握った指。


ペンを握った指。


リュールへ糸を伸ばした指。


責任承認書に署名した指。


今は、器を洗っている。


「似合わないわね」


小さく呟く。


自分に向けた言葉だった。


けれど、次の瞬間、別の声が返ってきそうな気がした。


「お嬢様は何をなさっても、それなりに様になります」


クリスチーナなら、少し真顔でそう言ったかもしれない。


褒めているのか、あきれているのか分からない調子で。


マーリンは笑いかけて、止めた。


笑う相手がいない。


笑いは、相手がいないと落ちる。


床に。


音もなく。


器を洗い終え、棚へ戻す。


その動作だけは最後まで続いた。


続いてしまった。


リュールに乗った時と同じように。


人は、果たせてしまうことで壊れることもあるのだと、マーリンは少しだけ思った。



看護棟で過ごすうちに、マーリンは自分の身体を遠くから見るようになった。


起きる身体。


歩く身体。


食べようとして失敗する身体。


水を飲む身体。


吐き気をこらえる身体。


布を畳む身体。


鉄の寝台に戻る身体。


そこに、マーリンがいるのかは見えない。


でも、身体は動く。


だから、生きていることになる。


「作業終了」


職員が言う。


マーリンは布の束を置いた。


「はい」


「寝台へ戻れ」


「はい」


命令は短い。


短いと、楽だ。


考えなくていい。


ロイス家の会話は、いつも意味が多かった。


父の言葉は、短くても重かった。


ブライアンの言葉は、優しくても逃げ道が少なかった。


クリスチーナの言葉は、時々痛いほど温かかった。


ここの言葉は、ただの指示だ。


戻れ。


座れ。


飲め。


食べろ。


答えろ。


簡単。


とても簡単。


人間でなくても分かる。


それが、少しだけ助かる。


少しだけ、悲しい。


寝台へ戻る途中、看護棟の窓から外が見えた。


高い位置の細い窓。


灰色の空。


鉄柵。


遠くの作業棟。


さらに遠くの監視塔。


花はない。


緑もない。


砂と鉄と、低い建物だけ。


この星は、誰かを慰めるつもりがない。


その正直さは、帝都よりましだった。


帝都は美しかった。


美しいまま、人を捨てる。


この星は最初から冷たい。


冷たいものが冷たい顔をしているだけなら、まだ分かりやすい。


マーリンは窓を見上げた。


「寒そう」


また、呟いた。


星相手に感想を述べても、返事はない。


知っている。


でも、返事がないことには慣れている。


ミーシャ。


ステラ。


クリス。


お兄様。


呼んでも返らない名前の方が、もう多い。


看護棟の奥で、別の収容者が咳き込んでいた。


ひどい咳ではない。


けれど、長い。


マーリンは水差しを見た。


自分の寝台の横にある水差し。


半分ほど残っている。


持っていっていいのか分からない。


決められた水なら、勝手に動かしてはいけないかもしれない。


そう考えて、手が止まる。


昔のマーリンなら、たぶん先に動いた。


怒られてから考えた。


好奇心と探求心と、少しのお転婆。


ただ守られるだけの令嬢ではなかった。


今は。


今は、動く前に止まる。


規則。


罰。


記録。


責任。


疑念。


危険因子。


いくつもの言葉が、足首に絡む。


結局、マーリンは職員を見る。


「水を、持っていってもよろしいですか」


職員は少しだけ眉を動かした。


「誰に」


「咳をしている方へ」


「不要です。こちらで対応します」


「そうですか」


それで終わり。


マーリンは水差しから手を離した。


自分で持っていけばよかったのかもしれない。


でも、足が出なかった。


足りないものが増えている。


リュールで敵艦を沈めたのに。


水を持っていくことができない。


変な話だ。


とても変。


少し笑えそうだった。


笑えなかった。


職員が別の水を持っていく。


咳の声が少し静かになる。


それでよかった。


よかったはずなのに、胸の奥に小さな痛みが残った。


身体だけが生きている。


心は、動く前に止まる。


それも生きていると言うのだろうか。


たぶん、言うのだろう。


看護棟では、脈があれば生きている。


体温があれば生きている。


作業に出られれば、もっと生きている。


それ以外は、項目にない。


寝台に戻ると、マーリンは靴を脱いだ。


自分で。


少し時間がかかる。


指先が冷たい。


制限具が邪魔だ。


それでも脱げた。


毛布を掛ける。


端が曲がる。


気になる。


気になるのに、直す力がない。


クリスチーナがいれば、直した。


「お嬢様、毛布に負けてどうなさいます」


そんなことを言ったかもしれない。


毛布に負ける。


それは少し面白い。


マーリンは、曲がった毛布を見た。


「負けたわ」


小さく言う。


返事はない。


それでも、少しだけ自分で端を直した。


完璧ではない。


でも、さっきよりはまし。


それでいい。


全部ましなら、それでいい。


何もよくはならないけれど。


寝台は冷たい。


横になると、背中から冷えが上がってくる。


身体が小さく震える。


寒い。


それを認めるのは簡単だった。


寒い。


気持ち悪い。


疲れた。


痛い。


身体の言葉は、まだ出る。


でも、悲しいは出ない。


寂しいも出ない。


助けては、もっと出ない。


助けて。


その言葉を考えた瞬間、胸の奥が空洞のまま軋んだ。


誰に。


ミハイルはいない。


ステラはいない。


クリスチーナはいない。


クロードはいない。


ブライアンは手続きの向こう。


父は帝国の向こう。


誰に。


答えがない。


だから、言葉もない。


マーリンは目を閉じる。


眠れなくても、横になる。


身体を休ませる。


身体だけは残っている。


身体だけは、まだ帝国にも、NewEraにも、ロイス家にも、完全には奪われていない。


罪を背負わされても。


功績を奪われても。


名前を番号にされても。


吐き気がする。


寒さを感じる。


水を飲む。


布を畳む。


鉄の寝台で、背中が痛くなる。


身体は、まだここにある。


空っぽの器の底に、最後に残ったもの。


それが希望なのか、罰なのか、マーリンには見えなかった。


看護棟の灯りが少し落ちた。


完全には暗くならない。


監獄に、完全な夜はない。


暗すぎると見えなくなるから。


見張る側に都合が悪いから。


マーリンは薄い光の中で目を開けた。


眠れない。


目を閉じても、白い取り調べ室が浮かぶ。


リュールの映像が浮かぶ。


署名欄が浮かぶ。


ロイス公爵の顔が浮かぶ。


クリスチーナの声が、扉の向こうで途切れる。


署名なさらないでくださいませ。


届いていた。


でも、足りなかった。


足りなかったのは、クリスチーナではない。


届かせなかったのは、帝国だ。


ロイス家だ。


父だ。


そして、署名したのは自分の手だ。


マーリンは手首を見る。


制限具の輪。


その内側で、血は流れている。


まだ。


「身体だけね」


声に出す。


それは嘆きではなかった。


確認だった。


身体だけが残る。


身体だけが起きる。


身体だけが食べる。


身体だけが働く。


身体だけが眠れない。


身体だけが鉄の寝台で冷える。


マーリンは、手を胸元に置いた。


心臓は動いている。


規則正しくはない。


少し速い。


でも、動いている。


ロイス公爵の人工心肺装置の音を思い出す。


父は、生に固執していた。


どんな形でも生きようとしていた。


AIと意識を繋ぎ、永遠に近いものを求めていた。


マーリンは今、生きている。


望んでいるかどうかは見えない。


けれど、身体は生きている。


父が欲しがるほどの生が、ここではこんなにも重い。


皮肉だった。


とても。


少し笑いそうになったが、やはり笑えなかった。


看護棟の外で、遠く小さな音がした。


足音か。


機械音か。


扉が閉まる音か。


判断がつかない。


監獄星には音が多い。


低い機械の音。


金属の軋み。


誰かの咳。


職員の靴音。


遠くの作業棟から届く鈍い響き。


その中の一つが、少しだけ違って聞こえた。


マーリンは顔を上げる。


耳を澄ます。


何もない。


ただの監獄の音。


そう思う。


思って、横になる。


遠い足音。


そんなものが聞こえたところで、誰が来るというのか。


帝国は来ない。


ロイス家は来ない。


ブライアンは来られない。


クリスチーナは戻らない。


誰も来ない。


だから、気のせいでいい。


マーリンは目を閉じる。


鉄の寝台は冷たい。


けれど、冷たいものは嘘をつかない。


優しいふりもしない。


それだけは、少し楽だった。


マーリンは、空っぽのまま息をした。


一つ。


また一つ。


身体だけが、律儀に生きていた。


看護棟の空気が、ほんのわずかに変わったのは、そのあとだった。


職員の足音が少し増える。


扉の開閉が、いつもより短い間隔で鳴る。


遠くの通信区画から、低い声が漏れる。


内容までは届かない。


マーリンには関係ない。


関係ないはずだった。


「寝台へ」


職員が言う。


マーリンは従う。


「体調確認」


「少し疲れました」


「吐き気」


「少し」


「痛み」


「ありません」


「食事」


「少し」


少しばかりだ。


少し気持ち悪い。


少し疲れた。


少し食べた。


少し眠れない。


少しなら、大事にはならない。


少しなら、見逃される。


少しなら、まだ使える。


マーリンは寝台に腰を下ろした。


毛布の端が曲がっている。


直す。


少しだけ。


クリスチーナなら、もっときれいに直しただろう。


もう、比べるのはやめた方がいい。


そう思う。


思うのに、手が勝手に思い出す。


彼女の手つき。


彼女の声。


彼女の眉の寄せ方。


彼女が「お嬢様」と呼ぶ時の、少しだけ柔らかくなる響き。


「クリス」


呼ぶ。


看護棟の音に混じって、声はすぐ消えた。


返事はない。


いつも通り。


いつも通りになってしまった。


そのことが、一番よくない。


マーリンは横になる。


鉄の冷たさが背中へ染みる。


目を閉じる。


遠くで、また足音がした。


さっきより少し速い。


職員の足音だろう。


そう思った。


そう思うことにした。


けれど、監獄星の夜は、少しだけ落ち着きを失っていた。


低い機械音の底で、別の音が混じり始めている。


まだ、誰のものとも呼べない足音。


帝国の規則正しい靴音とは少し違う。


ロイス家の静かな足音でもない。


マーリンには届かない。


まだ。


けれど、灰色の星の外側で、何かがゆっくり近づいている。


鉄の寝台は、相変わらず冷たい。


マーリンはその冷たさの上で、息をした。


身体だけが残る。


それでも。


その身体がまだ残っているから、運べるものがある。


誰かがそう考えていることを、マーリンは知らない。


知らないまま、空っぽの器は眠れない夜を過ごす。


遠い足音は、看護棟の壁の向こうで、まだ音になる前の気配として沈んでいた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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